7-3(消せないもの3)
平原王の軍が駐留するトークスの街は、多くの兵士たちで賑わっていた。
いきなり人口が倍になったものの、平原王の軍は支配下にある街での略奪を厳しく禁じている。兵士たちには糧食が十分に支給されており、規律正しい兵士たちは街の住民から金払いのいい客として歓迎されていた。
「いやな展開になってきたな」
トークスの街にある酒場で、彼、平原王は、連れの老人に愚痴った。下町にある酒場だ。彼と連れ以外は、地元の住民しかいない。
客の誰も、彼が平原王とは気づいていないのだろう、酒場はいつも通りの喧騒に満ちていた。
「例のうわさですな」
老人がぼそぼそと応じる。
歳は既に70は越えているだろう。
身体はしなびたように小柄で、頭髪のほとんども抜け落ちている。だが瞳には力があり、唇に残った傷跡が人目を引いた。
魔術師のローブを纏ってはいないが、彼は魔術師である。
元は雷神の神官、それもキャナの遠雷庭に勤めていた神官の長、神官長だ。
キャナを離れたのは雷神が神殿の扉を閉じた直後で、平原王と知り合ったのは10年ほど前、大平原の各地を転々としていた頃のことだ。
老人は雷神の神官長という立場にあったこともあり、狂泉の森を挟んだ大平原の国々の故事来歴にも詳しく、不愛想な外見にも関わらず社交的で、大平原各国の政治・経済、国際情勢にも通じていた。そうしたところを見込まれ、ひとつの約を交わし、大平原の統一事業に乗り出した、名もなき辺境の王の幕下に加わったのである。
以来、老人は名もなき辺境の王が平原王となった今も、参謀として仕えている。
「うわさを流したのは、若造めの仕業でしょう」
イズイィが狂泉の民人に雇われたことを老人は知っている。平原王も、老人の言った若造が、老人のかつての部下だと了解していた。
「本当だと思うか?」
「さて。どうでしょうな」
「……できないだろう、あれを一人では」
「難しいところですな」
少し間を置いて老人は言葉を続けた。
「砦を襲ったのが少人数だったことは疑いないでしょう。
生き残った兵たちは、矢が同時に何本も放たれていたのを見ており、襲撃者が一人などということはあり得ないと証言しておりますが、誰も敵の姿を見ていない、というのが引っかかりますな」
彼らが話している噂とは、平原王の砦を落としたのがたった一人の少女だ、という噂である。両親を平原王の兵士に殺された、まだ成人したばかりの少女が、復讐のためにたった一人で砦を落としたというのである。
「砦に何人いたと思ってる」
「3000と24人でしょう」
「そうだ。およそ3千人だ。1人ずつ順に殺すだけでもひと仕事だぞ。できるか、そんなこと」
「多くは焼死ですからなぁ。手間は要らなかったでしょう。
ただ、矢で射貫かれて死んだ者が200はいますから、そうではないと言い切れないのが、なんとも」
砦の遺体はひどく焼かれて、死因を特定することは難しかった。老人が口にした200という数字は、少なくとも200人は、ということだ。
「いずれにしても厄介な話だな」
「そうですなぁ」
のんびりとした口調で老人が応じる。
うわさ通りなら厄介どころではない。
一人で砦を落としたのが何か特別な--戦巫女のような--存在なら問題はない。まだ対処は可能だ。だが、もしこれが、森人すべてができることなのだとしたら平原王に勝ち目はない。
もっとも、その可能性は低い--。
と、平原王と老人の考えは一致している。
一番厄介なのはそこではなく、噂にある『まだ成人したばかりの少女が、復讐のために砦を落とした』という部分だ。
平原王が狂泉の森を攻めるのは森に逃げ込んだ兵士を殺されたからだ。いろいろ美辞麗句で飾り立ててはいるが、それを大義として掲げた。
つまり復讐を大義として掲げた訳だが、狂泉の森でも大義として復讐を押し出してきたのである。しかも相手は、成人したばかりの少女が、殺された両親のために復讐を遂げたというのである。
大義を国家への忠義と捉えれば、間違いなく平原王の方に理がある。しかし、大義を人として守るべき道と捉えれば、理は父母の仇を討った少女の方にあるだろう。
多くの人が良しとするのは後者だ。
平原王の兵士の間に動揺がある。
動揺の原因のひとつは、たった一人で砦を落としたという未知の敵に対する恐れだ。そしてもうひとつは、己が間違った側にいるのではないかという迷いである。
「簡単にカタがつくと、思っていたのだがな」
「いささか逸り過ぎましたな、王よ」
平原王が不機嫌な顔を老人に向ける。
「ご老人。貴方も積極的に賛成したではないか」
古来、大平原を守護する神、平原公主と、森を支配する神、狂泉は、ともに狩猟を司る女神であり、とても仲が良い、と言われていた。それ故か、平原王だけでなく、これまで存在した大平原の国々が狂泉の森とのいくさの可否を平原公主に問うと、必ずと言っていいほど、「否」と、神託が下されてきた。
兵士が狂泉の森人に殺されたと報告を受けた時、平原王は、平原公主が主神殿と定めた街、自在宮にいた。自在宮には、平原王の滞在用として建てられた猟王殿と呼ばれる建物がある。
猟王殿で報告を聞いた彼がまず思ったのは、『狂泉様の森に逃げ込むとは、なんと愚かな』ということだった。
だがすぐに、酔林国に攻め込んだキャナのことに思考が飛んだ。
『これはチャンスなのか?』
もし狂泉様の森を抜けられれば。
実際に抜けなくても、抜けられるとなれば。
平原王は直ちに神殿に神の意を問うた。
答えは、「否」である。
『やはりな』
と思いながら、あきらめきれずに何度か同じことを問い、『これで最後』と問うた7度目に、「可」と、神託が下されたのである。
「本当か!」
平原王がそう叫んだのも当然であろう。
今、彼の前で杯を傾けている老人にしても、「可」と神託が下された故に直ちに狂泉様の民人とのいくさの支度をせよと平原王が命じても、最初はまったく本気にすることなく「ご冗談をおっしゃいますな」と鼻で笑った。
股肱の臣ですら、「殿の冗談も手が込んできましたなあ」と、まったく見当違いの感想を述べた。
平原公主の姫巫女に猟王殿まで来てもらい、平原王はようやく彼らに信じさせることが出来たのである。
「わたくしも未だに信じかねておりますが、本当です」
姫巫女がそう宣すると、王の間にしばらく沈黙が落ちた。
「どうだ。本当だろう」
得意そうに言った平原王を、老人が叱りつけた。
「何をぐずぐずしておられます!王よ、すぐにご出陣を!」
「今、王都にはどれぐらいの兵がおりますか!」
少し前まで薄ら笑いを浮かべていた臣たちもまた、目を血走らせて叫んだ。姫巫女はまだ「どうにも信じられません」と両手で頬を包んで首を振り、老人に叱られた平原王は玉座で不貞腐れて憮然としていた。
大平原の統一事業はまだまだ道半ばで、多くの兵は各地に散っている。
手元に残っていた虎の子の3千の兵士を送り出し、平原王は、こんなに簡単に事が進んでいいのかと考えていた。彼もまた、狂泉様の守り人とはいえ、所詮は猟師、簡単にカタがつくと信じていたのである。
だから3千の兵士が失われたと聞いた時には、驚きの余り立ち上がってしばらく口が利けなかった。
「どうすればよい」
「いくさを続けるより他にありますまい」
平原王の問いに、傍らに控えていた老人はそう答えた。
神の許しを得て始めたいくさである。
簡単に止められるはずがなかった。
自在宮の守備隊だけではなく王都の近衛兵まで掻き集め、支配下の国々に兵を出させて、ようやく軍の体裁を整えて、出陣して来たのである。
「猟師どもを甘く見ていた」
平原王の後悔はそこに尽きる。
「そうですな」
と、老人が応じた時、酒場の喧噪が不意に静まった。
平原王は顔を上げ、酒場が静まった理由をすぐに知った。
酒場の入り口に男が立っていた。
「あの男……」
恰好からすぐに狂泉の森の民人と知れた。酒場にいる人々も、平原王の軍と狂泉の森人がいくさを始めていることは当然、知っている。
「森人にしては随分、大きな男ですな」
老人が呟く。
男のすぐ後ろから、栗色の髪を肩まで落とした少女が入ってきた。やはり森人だ。さらに三人。陰気な男と、軽薄そうな色男。それと、やはり若いが、平原王好みの気の強そうな少女が続いた。
少しだけ考えて、親しげな笑みを浮かべて立ち上がると、平原王は最初に入って来た男に声をかけた。
「よお。久しぶりだな!」
酒場の視線が平原王に集まる。入って来た森人も全員が彼を振り返った。
「知っている者ですか?」
老人が囁き声で訊く。
「いや。知らん」
笑顔のまま平原王も囁き声で答えた。
「おお」
森人の男の方も満面の笑顔を浮かべた。
「久しぶりだなぁ。変わりはないか」
まるで10年来の友人が再開したかのように、二人は固く抱き合ってバンバンと背中を叩いた。
「こっちはみんな元気でやってる。どうしてここにいるんだ、いくさの前の偵察か?それにしては、ずいぶん可愛い子を連れてるな」
平原王が視線を向けた先で、
「ライ」
と、栗色の髪の少女が訊く。
「誰?」
「こいつはオレの傭兵時代の知り合いでな、」少し間が空く。「セノーというんだ」
「セノーだ。よろしくな」
淀みなく平原王が笑う。
「嬢ちゃん、名前はなんという」
「カイト。クル一族のカイト」
「カイトちゃんか。いい名前だけど、……男みたいな名だなあ」
むっとカイトが黙る。
平原王好みの少女がこちらへ来ようとするのを、色男が止めていた。
「ライ、何をしに来た」
平原王はライに顔を戻して尋ねた。
「なに。集まった連中のほとんどが、初めて会う連中ばかりだからな。いくさの前に景気づけに弓の腕を競う大会をやろうってなったんだ。
ただ、急なことで酒が足りなくてな。買いに来たはいいが、どこに行けばいいか判らなくてよ。
ここなら教えてもらえるかと思って来てみたんだ」
「それだったらオレが奢ってやるよ。こう見えても軍で少しは出世したからな」
「いいのか?」
「いくさ場で会ったら手加減してくれ。それでいいさ」
「それは」ライが笑う。「ま、状況次第だな」
「そこは判ったと言えよ」
大声で笑い合って、「どうだ、お前も見に来るか」と笑顔のままライが尋ねた。
「いいのか、手の内を晒すことになるぞ」
「なぁに。知られて困るほどのモンじゃねぇよ。どうだ」
「行きたいところだがな、流石に無理だ。今のオレの立場だと。狂泉様が森に入らせてくれんだろう」
「ズイブンとエラくなったんだな、お前」
平原王が肩を竦める。
「困ったことにな。誰かオレの代わりを行かせてもいいか?」
「ああ。いいぜ」
「それじゃあ、そうさせてもらおう。いつやるんだ、その腕試しは」
「明後日だ」
「そうか。それじゃあ明後日の朝早くに酒を届けさせよう。届けた連中をそのまま見学させてやってくれ。
ああ、決めるのはお前じゃないか」
「おお。狂泉様がお決めになる。森に入れなくて無駄足になるかも知れねぇが、それはカンベンしてくれ」
「神のなさることだ。仕方ないさ」
「悪いな。それじゃあ、酒、ありがとうよ」と、ライは出て行った。平原王好みの少女が、怒ったような視線を残していくのを、平原王は軽く手を振って見送った。
「……少年が砦を落とした、という噂もありましたな」
喧噪が戻った酒場で、老人が呟く。
椅子に腰を下ろし、平原王は笑いを収めた。
「うむ」
「それとあれは、酔林国の暴君でしたか」
「そうかとは思ったが、--」
森人が出て行った扉に視線を向けたまま、平原王が呟く。
「厄介事が増えましたな。セノー殿」
平原王が悪戯っぽい笑みを老人に向ける。
「名演技だっただろう?ご老人」
「茶番と言った方がよろしいかと。ま、素晴らしい茶番でしたな」
鼻で笑って平原王がビールを呷る。ジョッキを置いた彼の口元に、笑みがあった。
「ご老人。今後もし、偽名を使う必要があるときには、オレのことをセノーと呼んでくれるか」
「承知いたしました」
と、老人は慇懃に答えた。