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6-6(帰郷6)

 翌日、昼も随分過ぎた頃に、カイトの伯母はカイトの家の扉を開けた。

 静まり返った室内にそっと足を踏み入れる。

 椅子に置かれた荷物の口が開き、テーブルの上には螺鈿細工の櫛が置かれ、床の上にはくしゃくしゃになった男物の服が投げ出されていた。

 サヤとカタイへの土産だろうとすぐに察しがついた。

 息が止まるほど胸が詰まり、彼女は拳を唇に当てた。肩が震えた。昨夜ここで何があったか、考えるまでもなかった。

「誰?」

 知らない声に問われて、彼女は顔を上げた。寝室に続く戸口に見知らぬ少女が立っていた。

 伯母は涙を拭き、笑みを浮かべた。

「ハルさん、ね」

「はい」

「はじめまして。わたしはカイトの伯母よ。ありがとう、カイトについていてくれて」

「……いいえ」

「悪いけど、カイトを呼んできてくれる?」

「はい」

 長い髪を翻して、ハルが駆け戻っていく。カイトを起こしているのだろう、囁き声が聞こえて、すぐにカイトが姿を現した。

 伯母はほっと胸を撫で下ろした。

 意外と顔色は良く、憔悴した様子もない。

「伯母さま」

 カイトが湿った声で呟く。

 伯母はカイトに歩み寄ると彼女を優しく抱きしめた。

「昨日、言い忘れてたわね。お帰り。カイト」

「ただいま。伯母さま」

「婆さまが葬儀をするとおっしゃってるわ。あなたも手伝って」

「葬儀?」

 伯母が頷く。

「あなたのおかげで、みんなを森に返すことができたわ」

 大平原に倒れて動くことのないクル一族の民人の姿がカイトの脳裡でフラッシュバックする。

 伯母の背中に回したカイトの手に力が入る。

「だから、ね」

「……うん」

「カイト、大丈夫?」

「なにが?ハル」

「だって、あんた、手が」

 カイトは自分の両手を見た。添木が当てられ、包帯が巻かれた手を。

「……痛くない」

「え?」

 カイトは指を動かしてみた。普通に動く。

「ハル。包帯を外して」

 傷跡がなかった。

 身体を確認すると、他の傷跡も、火傷もない。

「あれのおかげかな」

「あれって?」

 紫廟山の禁忌の森で飲んだ湧水だ。

 だが、話すには長すぎる。

「後で話すよ。今は、行こう」

 と、カイトはハルの手を引いて、伯母に続いて家を出た。


 狂泉の森の民人の多くは、自分の一族以外の出来事にあまり興味を持たない。集落のある森で生活が完結するのだから当然だろう。

 多くの森人にとって狂泉の森の外は存在しないも同じなのである。

 しかしハルの母であるルゥは、狂泉の森の外の出来事にも常に注意を払っていた。狂泉の森の生活が、実感するのは難しいものの、実は森の外と緊く繋がっていることを理解していたからである。

 だから彼女は、雷神が神殿の扉を閉じ、10年前にキャナ王国が酔林国に攻め込んだことを知っていた。大平原に平原王を名乗る男が現れて大平原の統一事業を始めたことも、1ヶ月ほど前に、森に入った平原王の兵士が全員、殺されたことも知っていた。

 平原王が森に攻め込んでくるのではないか。

 ガヤの街でタガイィがライに語ったのと同じ理由で、彼女もそう危惧を抱いた。

 危惧を抱いただけではない。

 考えるよりも先に行動を起こし、とりあえずやれることをやりながら更に考えるのが、ルゥという女だった。


 森に許可なく入った者がいると森が教えた時、森は場所も教えた。遠い。その遠さが、ルゥに危惧が危惧で終わらなかったことを教えた。

 許可なく森に入った者を殺すのは守り人である狂泉の民の義務だ。すでに準備の出来ていたオルガの一族は直ちに、50人ほどが弓を取った。

 だが、オルガの一族を駆り立てたのはルゥではなく、彼女の娘のハルである。

 ハルは母のようになりたかった。

 だからハルは、ルゥのように、森の外の出来事にも、オルガ一族以外の一族にも興味を持つように努めていた。

 革ノ月の最中にカイトに会った時、カイトがクル一族だと聞いて驚いたのも、クル一族の集落がどこにあるか、彼女が知っていたからだ。

『カイトの集落の近くだ』

 森が教えた時、ハルはすぐに悟った。

 オルガの民人と一緒に集落を出て、ハルは駆けられるだけ駆け続けた。

 先へ先へと急ぐハルに引き摺られることで、オルガの一族は他のどの一族よりも早く、クル一族の集落に着いたのである。


 狂泉の祠の前の広場は人で溢れていた。クル一族とオルガの一族の民人である。

「ハルはお母さんのところにいて」

 葬儀の前にまずは食事をと、祠の前ではクル一族が接待役となってささやかな酒宴が開かれていた。

「うん」

 ハルは父と母のところに行き、地面に座った。口をつぐみ、クル一族の民人に混じって働くカイトを目で追う。

「何かあったの、ハル」

 娘の様子に目ざとく気づいてルゥが訊く。ハルも母に聞いて欲しかった。

「昨日、カイトが言ったの」

「何を?」

「『わたし、父さまと母さまに捨てられた気がする』って」

「ああ」

 頷いたのは父だ。

「確かに、そう思っても不思議じゃないな。突然、たった一人で残されたんだからな」

「それであんたは何と言ったの?」

「『あたしには判らない』って。『だってあたしは、父さまを亡くしたことも、母さまを亡くしたこともないもの』って」

「それで?」

「『だけど、あんたは父さまと母さまが死んで悲しいんでしょう』って、言ったわ。『あんたはちゃんと悲しいって思えてる。そんな風にあんたを育てた父さまや母さまが、あんたを捨てたりする筈ないわ』って。

 そう言ったの」

「それで、あの子はなんて言ったの?」

「うん、て頷いてた。でもそれだけ」

「そうか」

 ルゥがハルの頭を抱える。

「それでいいんだよ。あんたはあんたなりに考えて答えたんだよね。だったらちゃんと伝わってるよ、あの子になら」

「そうかな」

 母に体を預けてハルが問う。

「ああ」

 ルゥは優しくハルの髪を撫でた。

 口では切れ切れと言っていたが、本心では、彼女は娘の長い髪が気に入っていた。手から零れ落ちるほど滑らかで、いつまでも触っていたくなるほど指に心地良い長い藍色の髪が。

 そして何より、いくら言っても髪を切らない娘の頑固さが。

「大丈夫だよ。ハル」

 そう言ってルゥは、めったに見せることのない笑顔を娘に向けた。


 狂泉の森の民は、一度猟に出るとしばらく集落に戻らないことが多い。

 クル一族にしても同様だ。

 そうして森に入っていて、急を知って戻った者たちは、酒宴の手伝いをしていたカイトを見かけると、誰もが何も言わず彼女に近づいて彼女とそっと抱擁を交わした。

 ただ、彼女は違った。フォンの姉は。

「カイト」

 掠れた声で呼ばれてカイトが振り返ると、フォンの姉が立っていた。

 気の強い姉で、カイトに泣かされたフォンの仇と、何度もカイトと殴り合いのケンカをした相手である。

 彼女の目は、泣き腫らして真っ赤だった。

 フォンが捕まり、彼女の父と母がフォンを楽にするために森から出た時、彼女は縛られていたとカイトは聞いた。

 彼女だけは助けたいと願った両親によって。

 カイトは黙って歩み寄り、彼女を強く抱きしめた。フォンの姉もまた、誰よりも強く抱擁を返した。

「--ありがとう。カイト」

 カイトの肩に顔を埋めてフォンの姉が呟く。流し尽したと思っていた涙が再びカイトの瞳から溢れ出す。

「うん」

 ここにフォンがいない。そのことがカイトはたまらなく悔しかった。



 儀式らしい儀式のない狂泉の森では、葬儀もまた、簡単に終わった。巫女である老女が死んだ者の安寧を狂泉に願い、皆で頭を垂れてそれで終わりである。

「ルゥ殿」

 老女がルゥに声をかける。

 邪魔をしないように二人から離れたハルは、一人立つカイトに気づいた。話し合う母とクル一族の巫女をじっと見つめている。

「カイト」

 カイトがハルに顔を向ける。弱い、けれども確かな笑みが、カイトの頬に浮かんだ。

「わたし、葬儀は死んだ者のためにやるものだと思ってた」

 老女とルゥの姿を見ながら、カイトが言う。

「え?」

「でも、違うんだね」

「どういうこと?」

「葬儀の準備をして、オルガの人たちの食事の手伝いをして、身体を動かしていると少しだけ悲しみを忘れられたの。

 それに、みんなでハグをしたらちょっと楽になったわ」

「……」

「葬儀って、残された者のためにもあるんだね」

 ハルにはまだ判らない。

 けれどハルはカイトの手を握り、「そうだね」と応えた。ハルの手を握り返し、カイトがハルに顔を向ける。

「来てくれてありがとう。ハル」

「どういたしまして」

 ハルはそう言って、軽く肩を竦めて笑って見せた。

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