6-5(帰郷5)
カイトは弓を投げ捨て、山刀を抜いた。だが、遅い。獣人に右手首を強打され、山刀が飛んだ。
獣人の右拳がカイトの顔面を襲う。その拳が、カイトをすり抜けた。獣人にはそうとしか見えなかった。カイトの姿が消え、獣人の視界が回った。
仰向けに地面に叩きつけられ、獣人が呻き声を漏らした時には、カイトは獣人の胴体を跨ぐように座って、彼を抑え込んでいた。
「このアマ……!」
カイトが獣人を殴りつける。だが、流石に弱い。腕力が足りない。獣人はカイトを罵るのを止めなかった。
だったら、と、カイトはひたすら獣人を殴り続けた。獣人が白目を剥き、暴れるのを止めても、まだ殴った。
自分のものか獣人のものか判らない血が、カイトの拳から落ちる。
獣人はぴくりとも動かない。
もう一発だけ殴って、カイトは立ち上がった。足取りが重い。息が乱れ、拳が鈍く痛んだ。忘れていた疲れが、彼女の意識を奪おうとどっと肩に圧し掛かる。
どこか朦朧としたまま、飛ばされた山刀を探す。
赤い光が視界を掠めた。首を戻すと、ハルと交換した大事な山刀は、ほんの2、3メートル先に刀身に炎を赤く映して投げ出されていた。
腰を屈めて拾い上げる。
そのまま動作を止めることなく振り返って横に薙いだ。カイトの背後に迫っていた獣人が立ち竦んで「がっ」と呻く。肩で息をしながら山刀を鞘に収め、カイトは獣人の脇を何事もなかったかのように通り過ぎた。
カイトは弦の切れた弓を拾い上げた。獣人が崩れ落ちるのは、音を聞いて確認した。手にした弓を見下ろし、もう使えないな、これ、とぼんやりと思う。
「カイト」
と、誰かが優しく声をかけた。
カイトは振り返り、そこにひとりの少女を認めた。
藍色の瞳と藍色の長い髪。
彼女と一緒に過ごしたのは革ノ月で出会った一夜だけ。だが、カイトが彼女を見間違えることはあり得なかった。
「ハル」
彼女の名を呟く。
「どうしてここにいるの?」
「髪、伸ばしたんだね」
カイトの問いとは関係がないことを、ハルは訊いた。
「あ、うん」
肩まで伸びた自分の髪をカイトがちらりと見る。
「革ノ月から帰った時に、母さまに言われたの。あんたのことを話したら、あんたみたいに髪を伸ばしたわたしを見てみたいって。
だから、酔林国に旅に出てからずっと……」
「酔林国に行ってたんだ」
「今日、帰ったばかり。でも、ハル。どうしてあんたがここにいるの?」
「あんたを迎えに来たのよ、カイト」
ハルがカイトに歩み寄り、そっと腕に触れる。
「帰ろう、カイト」
「……帰る?」
ハルが頷く。
「狂泉様の森に。もう、誓いは果たされたわ」
「誓い」
ハルの言葉をカイトが繰り返す。
「うん」
ハルはカイトの手を取ろうとして、カイトの手が血だらけなのに気づいた。指の骨が折れているかも知れないと思ったが、ハルは顔色を変えなかった。
「酔林国のこと、あたしに教えてくれる?」
「え、うん」
「それじゃあ、行こう」
曖昧に頷いたカイトの腕をハルは取った。
二人の少女が駆け出す。一人がもう一人の肘の辺りをつかんでいる。途中、走るのを止め、一人が矢を放った。弓が引かれたのは1度だったが、二矢が飛んで、平原王の兵士が二人、新たに死んだ。
矢を放った少女に、もう一人の少女が話しかけた。
「上手くなったね、ハル」
「練習したもの」
そう笑って答えて、少女は再び友達の肘を取って駆け出した。
二人が駆けて行った先に、大柄な男が待っていた。
土塁へと続く階段に積み重なっていた死体は脇へと投げ出され、道が開かれていた。少女たちが駆け上がる。土塁の上には他にも数人の男がいて、追って来る者がいないか、鋭い視線を砦の内側へと向けていた。
土塁の上から外へと垂らされたロープの前で、少女の一人が立ち止った。
「もうわたし、ロープを握れない。だから--」
彼女が言葉を続けるより早く、もう一人の少女が大柄な男を振り返った。
「父さま」
「おう」
男が頷き、ロープを握れないと言った少女を軽々と脇に抱え、そのままロープを伝って降りて行った。
ハルと呼ばれた少女がすぐに続いて、残った男たちも続いた。地面に降りると彼らはすぐに駆け出した。
並んで走る二人の少女はまるで一つに繋がっているかのようで、他の男たちに囲まれて、深い森へと続く昏い影の中へと紛れていった。
次第に砦から離れていく彼らを、誰にも気づかれることなく、じっと見守るものがあった。
砦の北に設けられた門。
砦の正門にあたる北門の上に、一頭の黒豹が座っていた。
体高は2メートルぐらいか。
黒い体はすっかり闇と同化して、琥珀色の瞳だけが宙に浮いているかのようだった。ふたつの瞳が、ではなく。3つの瞳が。
大きな身体と同じぐらいはあるだろう、長い尻尾がゆらゆらと揺れる。
黒豹は砦内に視線を落とした。人の争いは終わったのである。
固く閉じていた三つの門が、内側から破裂するように外へと弾け飛んだ。
生き残っていた数少ない兵士の誰もが、その音を聞き、門が開いているのを見た。彼らはよろめき、足を引き摺りながらも、生きている者を助け、肩を貸して砦から逃れた。
その、人の人たる行いを見守り、逃れられる者がすべて逃れ、逃れられぬ者しか砦内に残っていないことを確かめ、黒豹は顔を上げた。
風の音に似た鳴き声が、喉から流れた。
ひゅるり。
ひゅるり。
ひゅるり、と。
砦内の炎が勢いを増す。
轟々と音を立てて燃え上がる。
砦内にいて、逃れることが出来ずにまだ生きていた者は、炎に焼かれる前に眠るように死んだ。
砦から逃れた数少ない平原王の兵士たちは、風の音を聞いて足を止めた。背後を振り返ると、炎が土塁をはるかに越えて高く燃え上がっていた。
ひゅるり、ひゅるりと彼らの耳元で、死んでいった兵士たちを弔うかのように、風はいつまでも鳴り続けた。
「よく生きて戻ったね」
狂泉の森に戻ったカイトに声をかけたのは、一人の女である。カイトに向けられた視線は強く、きついと感じるほど力があった。髪が短いことを除けば、ハルによく似ていた。
歳は、カイトの母と同じぐらいだろう。
「あなたは、誰」
「ルゥ。オルガ一族のルゥ。
あんたには、ハルの母親って言った方がいいかな」
「どうしてオルガ一族の人がここにいるの?」
「狂泉様に呼ばれたからさ、もちろん。森に許可なく入った者がいるってね。でもま、今はまず、家にお帰り。カイト」
「家に?」
「ああ」
言われてみれば、ひどく疲れて身体が重い。そうだ。家に帰ろう。
「うん」
と、カイトは頷いた。
「ハル」
「なに?」
「楽しかったね」
ハルの視界がぐらりと歪む。不安が彼女の心臓を握り潰さんばかりにつかむ。待ってと、たったそれだけの言葉が出ない。
立ち尽くすハルに、母親が声をかけた。
「ハル。あの子についてってやりな」
ハルは母親を振り返った。視線が不安に泳ぐ。しかしすぐに、ハルは不安を払い落し、母親を迷いのない瞳で見返した。
「うん」
慣れない森に少し迷って、ハルは結局、カイトに追いつけなかった。クル一族の集落に辿り着き、住民の女にカイトの家を尋ね、ハルは玄関の扉をノックした。
返事はない。
構わずハルが扉を開けると、獣が吠えるような泣き声がより一層大きく響いてきた。ハルは少しも怯むことなく家に入って、カイトを驚かせないよう、そっと静かに、扉を閉じた。