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6-4(帰郷4)

 平原王の軍は狂泉の森の近くに土塁で囲んだ砦を築いていた。それはつまり、腰を据えて森を攻めるつもりだということだろう。

 土塁の高さは5mほどか。

 土塁の周りには二重の堀が巡らされていた。

 水の満たされていない空堀で、堀の底には誰かが近づいても判るように、わざと砂利が残されていた。

 土塁を囲む空堀の近くの草むらで何かが動く。土塁の上にいた見張りの兵士がすかさず矢を放つ。

 草むらから獣が飛び出し、後ろも見ずに逃げて行く。

 兵士たちは笑いながら見張りに戻った。

 逃げて行く獣に気を取られて、矢の突き刺さったすぐ近くの草むらに、人が、カイトが潜んでいることに、兵士たちは気づかなかった。


 すでに陽が落ちてかなり経つ。

 カイトがいるのは、砦の西に設けられた門のすぐ近くである。門は他にも、東と、狂泉の森とは反対側にあたる北にもあった。北門が一番大きく、東門と西門はいささか小ぶりに作られていた。

 カイトが西門まで来たのは、西門が小ぶりで、砦に侵入するのに都合が良かったからではない。ただ単に、砦をぐるりと回って、そこが最後の門だったからである。

 少し強めの風があり、夜空のほとんども流れる雲に覆われていた。

 晴れていたとしても星明りしかないが、風と雲が、カイトが姿を隠す助けとなっていた。

 記憶はところどころで途切れてはっきりしない。

 森を出るときに、誰かが、一人ではなく複数人だろうか、自分たちも行くと言っていた気がする。

「来ないで」

 と言ったのは自分だろうか。

「邪魔よ」

 とも、言った気がする。……言ってないのかも知れない。だけど、いずれにしても一人で来て良かった。カイトはそう思った。

 ここまで来る途中、死体を見た。

 クル一族の民人の死体だ。

 平原王の兵士の死体は、不自然なほどになかった。もしかするとそちらは、他の兵士によって埋葬のためにすでに収容されたのかも知れない。

 女の死体も見た。

 見た気がする。

 ……本当だろうか?

 正直、カイトには良く判らなかった。

 フォンの、フォンの母の死体だった気がする。そこから記憶がない。

 気がつくとここにいた。

 そんな感じだった。

 だが、やることは判っている。

 殺す。

 --仇を討つ。

 ただそれだけだ。


 カイトは土塁の上の兵士に意識を集中させた。

 兵士の呼吸を読む。

 距離はあるが、気にならなかった。

 何人かいる兵士の呼吸を読み、注意が逸れる隙を捉えて、跳ね橋の閉じられた西門に素早く取り付く。

 空堀は森で落ち葉を踏むように、音もなく越えた。

 西門を見上げる。手掛かりを見極め、一息に駆けるように這い上がった。そのまま土塁の上で足を止めることなく、カイトは砦の中へと姿を消した。



 カイトが砦に入ってかなりの時間が経ってからのことである。土塁の上にいた兵士は、歩み寄ってくる人影に気づいて「誰だ」と矢を向けた。深夜だ。彼が不審に思ったのも無理はない。

「異常はないか?」

 返って来たのは、部隊の司令官の低い声だった。

 よく訓練されているのだろう。普通であればあり得ない時間の司令官の見回りにも戸惑うことなく、兵士はすぐに弓を下ろし、敬礼して報告した。

「は、ございません!」

「油断するなよ」

「はっ」

 司令官は短く頷いて土塁を先へと進んだ。土塁上には東西南北それぞれに数人ずつの兵士がいる。その全員に緩みは見られなかった。

 砦の内側には土塁よりもはるかに高い物見櫓があり、そこにも兵士が二人、詰めている。

 万が一、夜襲をかけられたとしても不意を突かれることはないだろう。

 司令官は土塁の内側に設けられた階段を下りた。要所を選んで置かれた篝火に照らされて砦の中は明るい。

 篝火の脇には、失火を防ぐためと侵入者に対する警備のためにそれぞれ一人ずつ兵士が立っている。

 砦内に何も異常がないことを確認し、司令官は自分のテントへと足を向けた。

 ほとんどの兵士は眠っている時間だ。

 篝火の爆ぜる音と風音を除けば、砦の中は静まり返っていた。

『心配し過ぎか』

 そう思うものの、彼の胸中の不安は消えなかった。

 胸のうちにくすぶる不安の原因は判っている。

 狂泉の森の猟師どもである。

 森の近くに住む者は、「狂泉様の民は狂っている」と恐れを含んだ声で言った。

 だが所詮は猟師だ。タカが知れている。

 戦う前には、彼はそう思って侮っていた。

 だが、今は違う。

 ヤツラは狂っている。

 彼もまたそう思っていた。


 腕を飛ばされ、足を失くし、矢を何本と打ち込まれても、彼らは前へ進むことを止めなかった。しかもヤツラは、人質を助けようとしたのではなかった。

 殺そうとしたのだ。

 立ち上がって人質の名を叫んだ女。

 あれは人質にした少年の母親だったのだろうか。すぐに槍で突かれて死んだが、その隙に人質の心臓には矢が突き刺さっていた。

 30人ほどの猟師を殺し、対価として、100人を越える兵士が殺された。

 負傷し、戦えなくなった者はもっと多い。

 狂泉の森に国はなく、一族ごとに独立して暮らしているという。つまり、今回相手にしたのは、たったひとつの一族だということだ。

 他の一族が力を合わせればどうなるのか。

 それが、彼の不安の根だった。

「戻ったぞ」

 己の中の不安を振り払うように、司令官は努めていつもの声音でテントの入口の布を上げた。

 入口近くに控えていた小姓がすぐに駆け寄ってくる。

 聡明な少年である。彼のお気に入りだ。見目が良いだけでなく、よく気が回るし、何より余計なことを言わないのがいい。

「お疲れ様でございました」

「うむ」

 小さく頷いて、彼は小姓に笑顔を向けた。帯剣していた長剣を小姓に預ける。

「異常はない。私の取り越し苦労だったようだ。

 遅くまですまなかったな。

 お前も、もう休め」

 夜着に着替えながら、優しく声をかける。

「はい。ありがとうございます」

 着替えを手伝いながら素直に頷いたが、彼が先に休むことはない。そのことを司令官である男はよく知っていた。

「ではな」

 司令官は満足して寝室となっているテントの奥へ向かった。そこで女が一人、待っている筈だった。前線まで帯同させた愛妾である。

 女は裸だった。

 ベッドの上で、裸で、喉を切り裂かれて死んでいた。大きく目と口を開き、恐怖をべったりと顔に張り付かせて死んでいた。

「なっ」

 寝室の入り口で立ち竦んだ司令官は、そこで死んだ。女と同じように喉を--閃いた山刀の光を見ることもなく--切り裂かれたのである。

 小姓が異常に気づくことはなかった。気づく前に、彼も死体となった。

 司令官のテントの灯りが消える。

 砦の兵士は誰もが、司令官は就寝したのだと思った。

 そうしたことが、砦のあちこちのテントで、静かに行われていた。軍を指揮する立場にある者たちのテントで。火の手が上がった時に、満足な命令が出なかったのはそういう理由である。


 人が多くなると、全員の呼吸を読むことはできなくなる。しかし不思議なことに、そうなると一人一人としてではなく、組織全体としての呼吸が感じられた。

 カイトは、砦がより一層深く眠りに沈み込むのを待って、行動を起こした。

 本来の主が疾うに死体となったテントを抜け出す。

 カイトはまず、高く聳える物見櫓へと忍び上がった。背後から矢で射抜かれ、二人いた兵士のうちの一人が声もなく崩れ落ちる。もう一人の兵士が振り返った時には、鈍く光る山刀と、大きく見開かれた栗色の瞳が、彼の目の前にあった。

 物見櫓の上から、土塁にいる兵士に向けてほとんど同時に矢が飛んだ。土塁にいた兵士のうち、悲鳴を上げた兵士は一人もいなかった。

 砦が静まり返っていることを確かめ、カイトは物見櫓から、ひとかたまりの影となって滑り降りた。

 篝火の脇に立った兵士が一人、また一人と死体へと変わる。交代だろうか、欠伸を噛み殺しながらテントから出てきた数人の兵士も、声を立てることなく一人ずつ死体となって暗がりに引きずり込まれた。

 物資の保管場所となっているテントにカイトが忍び込んだ時には、砦の中には、すでに死体となった者と、眠っている者しかいなくなっていた。

 兵舎となっているテントに、夜空を赤く染めて、次々と火矢が飛んだ。

 噴き上がった紅蓮の炎が砦の隅々まで明るく照らし出すのを確かめてから、保管場所にあった油に火を放ち、物資を悉く燃やし尽くした。ただし矢だけは、二つの大きな束にして残した。

 カイトは束にした矢を両脇に抱え、土塁へと上がった。

 砦の北に設けられた門の近くに潜む。そこからだと、砦の中のほとんどを見渡すことができた。

「火事だ!」

 と叫び声が響いた時には、砦の中は文字通り、火の海となっていた。

 慌てふためく兵士たちのうちの何人かが固く閉じた門へと走る。あまりの火勢に消火を諦め、砦の外へ逃れようというのだろう。

 だが、門へと辿り着いた兵士は、どこからともなく飛んできた矢に射抜かれて、全員が死んだ。

 一人も生きてここから出さない。

 カイトはそう思っていた。


 砦を燃やす炎は、狂泉の森からもはっきりと見えた。

「カイトが……、あそこにいるの?」

 訊いたのは、カイトと同じ年頃の少女だ。彼女の傍らには森人にしては大柄な男が立っていた。

 彼らの後ろにも、人影がある。

 少女は答えを聞くことなく、砦に向かって走り出した。

「おい、ハル!」

 男が声をかけるが、少女は振り返らなかった。

「悪い。何人か来てくれ」

 そう後ろの人影に声をかけて、男も走り出した。


 カイトに、人を殺しているという感覚があったか、と言うとかなり怪しい。意識がひどく混雑し、自分が狩りをしているのか、一族の仇を討っているのか、カイトは判らなくなっていた。

 気配を消して暗がりに潜み、獲物が現れたら矢を射る。

 その繰り返しである。

 いつもより獲物が多いな、夢の中にいるように、カイトは思った。

 影から影へと移動しているときに、獲物に見つかった。人に良く似た獣が、叫び声を上げながら何匹か向かってきた。カイトはいつものように矢を番え、足を止めることなく、額を打ち抜いて殺した。

 食べなくていいのかな。

 次々と現れる獲物を殺しながら、カイトはふと思った。

 殺せば食べる。

 それが森の掟だ。

 ただし、人、以外は。

 ああ。だったらいいのか。

 食べなくて。

 でも--。獲物を狩っていた筈だと思う。いや、仇を討っているのだったか。どっちだっけ--。

 何かが動く。

 反射的に、弓を引く。

 喉を矢で射られた兵士が仰け反って倒れる。

 保管場所から持ち出した矢の束は、とっくに打ち尽くしている。矢筒の中にももう矢はない。カイトはそう思っていた。だから死んだ兵士の身体から矢を抜き、抜いては放ち、また抜いていた。

 だが、矢筒にはまだ矢が残っていた。

 ニーナとロロに貰った矢である。

 意識して残した訳ではない。

 矢筒から矢を抜く時にもニーナとロロの矢に指が触ると、カイトはすぐに別の矢を引き抜いた。そうして二人から貰った矢は、カイトの矢筒に残り続けた。残り続けて、矢筒の中で小さな音を立てた。

 カタカタと。

 カイトが兵士を殺す度に、カタカタと。


 炎に赤々と照らしだされた砦の中には、数えきれないほどの死体が転がっていた。

 三つある門の前は砦の外へ逃れようとした兵士の死体が山となり、土塁へと上がる階段にも死体が積み重なり、燃え盛るテントの間は死体で足の踏み場さえなく、土塁上にもまた、幾つもの死体があった。

 カイトが火矢を放ってから、まだ30分ほどしか経っていない。

 しかし、砦の中にはすでに、生きている者はほとんどいなくなっていた。

「お前が?」

 山となった死体の陰に潜んでいたカイトに誰かが声をかけた。

 音が戻る。轟々と炎の燃える音が。

 振り返ったカイトは、少し離れたところに、犬の頭を載せた男が立っているのを見た。

 獣人だ。

 カイトが獣人を見るのは初めてだった。

「お前が、これを?」

 獣人の頭部で火が燻っていた。剥き出しの両腕の毛にも火が纏いついている。燃えながら獣人は、カイトを睨み据えた。

「ここまでする必要があるのか?」

 獣人が死体の山を指さす。その指が怒りに震えていた。

 いくつかの名を獣人が口にする。

「みんな死んだ。お前が殺した」

 獣人の言葉は、カイトの心で上滑りしていた。彼が何を言いたいのか、カイトには判らない。

「狂人め」

 その通りだ。と、カイトは思った。わたしは狂泉様の民人だ。狩猟と復讐を司る女神の信徒だ。

 この人はなぜ、そんな判り切ったことを、いま言うのだろう?

 獣人の足がふらつき、カイトから視線が逸れる。かろうじて踏み止まり、最後の力を振り絞って、獣人はカイトに躍り掛かった。

 カイトが矢を弓に番える。

 獣人の額に狙いを定め、弦を引く。

 これまでカイトが放った矢は軽く数百本を越えている。もしかすると千本をも越えているかも知れない。

 酷使され続けた弦が、ぷつりと切れた。

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