6-2(帰郷2)
痛いほど冷たい風がカイトの髪を激しくかき乱していく。
薄闇が晴れるように視界が開け、カイトは背後を振り返った。足元のはるか下に森が広がっていた。どこかの山の中腹にいるのだと理解し、ああ、紫廟山だ、と思い出す。
夜着のままである。
なぜここにいるんだろう、と思うより早く、狂泉様に呼ばれたんだと思う。
ニーナたちに見送られて酔林国を出発したんだった、と思い、ここまで辿って来た道なき道を思い出す。
カイトの周囲にあるのは岩ばかりである。
ふと、光が見えた。
星のような、小さな光。
それはすぐにカイトよりも大きくなって、生き物の姿へと変じた。
淡く発行する銀色の生き物。
オオカミだ。
だが、ただのオオカミではない。
体高が2mはあるだろう。
狂泉の森の民なら知らぬ者はいない。狂泉は2頭の銀色狼を連れている。銀色狼は狂泉の神使である。
氷のような蒼い瞳でカイトを見詰めていた銀色狼が、カイトから視線を外し、踵を返した。
「待って……!」
とカイトは叫び、目を覚ました。
狂泉様に呼ばれている。
理屈ではない。確信がカイトの心臓に重く宿っていた。
「人が許しなく森に入ったら判るでしょう?」
ライとトロワに、カイトはそう説明した。
「む」
キャナが攻め込んできた時に、トロワも森に教えられた。許しなく森に入った者がいると。何故判るのかと訊かれても、彼にも答えることはできなかった。ただ、判ったのである。森が教えてくれた--。他に説明のしようがない。
だから、カイトの言いたいことはよく判った。
「狂泉様に呼ばれるって、よくあることなのか?ライ」
トロワがライに尋ねたのは、それでも少しは確信が欲しかったからである。
ライが首を捻る。
「オレは聞いたことねぇな。だが、そうと口にして、カイトが無事、というのが証拠じゃないのか?」
「……そうだな」
「信じてもらえる?」
「ああ」
ニカッとライが笑う。カイトの話を聞いた時から、疑う気持ちは微塵もない。
「信じるぜ」
トロワも、うん、と頷いた。
禁忌の森の中にある、禁忌の山に登ろうというのである。まず何より、カイトが心配だった。それに、論理的な思考を是とする魔術師の端くれとしては、何らかの客観的な証しが欲しかった。
しかし、今では彼も狂泉の民である。
「判った。オレも信じよう。それでどうする、カイト」
狂泉様は必ずしも来い、と言っている訳ではないと、カイトは感じていた。来るならば許す--。
「行くのが怖い気もする。でも行ってみたいし、行かなきゃ、とも思う」
「行けよ。せっかくだ」
「うん」
と頷いて、カイトが顔を伏せる。ライとトロワは、黙って彼女を見守った。どれぐらいそうしていただろうか。
やがてカイトは顔を上げ、迷いのない声で「行ってみる」と静かに言った。
「あんたはもう、山刀は交換しちゃってるから、矢を交換してくれる?」
朝早く旅立つカイトを見送りに来たニーナの腰には、矢筒がぶら下げられていた。ニーナの隣に立ったロロも同じである。
「うん」
カイトは交換した二本の矢を矢筒に仕舞い、二人と抱擁を交わした。
「あたしのこと、忘れないでね」
「うん」
「言っても無駄だとは思うけど、無茶をしないで。わたしが心配してるってことを、忘れちゃダメよ、カイト」
「うん。覚えとく」
ニーナとロロ以外に、トロワの一家と、ライとカーラが見送ってくれた。
ハノはカイトを優しく抱きしめてから、ぐずぐず泣いている双子の娘に「さよなら」と言わせた。
「また遊びに来ればいいわ、カイト」と、カーラ。
「もし手助けが必要なら知らせてくれ。すぐ駆けつけてやるよ。ここはちょっと平和すぎて退屈だからな」
そう言ったのはライだ。
「うん。判った」
「困ったことがあったら手紙ででも知らせてくれ。出来る限りのことはするから」
「ありがとう、トロワさん」
最後に「お世話になりました」とトロワとハノに頭を下げて、カイトは半年ほど滞在した酔林国を後にした。
狂泉の森の北側に抜ける道を途中で外れ、カイトは紫廟山へと向かった。
禁忌の山だ。当然道はない。
時折携帯食を食べながら、ひたすら上へ、自分の中に残された--狂泉の業だろう--記憶を頼りに進む。
木につかまりながら斜面を越え、下草を踏み分け、獣道を辿って沢を渡り、小さな滝の音を背後に上へ上へと登って行く。
1日目は森の中で眠った。
2日目になると岩場が増えた。なるべく回り道を探し、回り道のない崖は岩にしがみつくようにして越えた。
標高が高くなったからだろう、夜は寒く、父親の土産として買った木綿の上衣を荷物から引っ張り出して、風の当たらない岩陰で丸くなって眠った。
3日目に森を抜けた。
現れたのは一面の笹原である。
笹に覆われた丘の向こうには、白い霧しか見えなかった。
これ、もしかして雲かな、とカイトが気づいたのは、同じような丘を数えきれないほど越えた後である。
笹原が後ろへと消え、行く手を塞ぐ大岩をよじ登ると、霧が晴れた。
振り返ると背後は霧に、いや、山肌を流れる雲に覆われていた。雲の隙間から森が見えた。しかし、随分と遠い。
カイトは顔を上げた。
『この向こう』
彼女の前に岩壁がそそり立っていた。頂上はまったく見えない。カイトはためらうことなく岩壁に取り付いた。
岩壁に張り付いたまま何度か休み、30分ほどでカイトは岩壁の頂上に辿り着いた。そこには狭いが広場があり、その先に、今越えてきたのとは別の、更に高い岩壁がそそり立っていた。
初めて来た場所だ。しかし、見覚えがある。
『ここだ』
とカイトは思い、視線を回すと、大きな岩の上から、夢で見た銀色狼が彼女を見下ろしていた。
やはり大きい。威圧感がある。
だが、カイトは怖いとは思わなかった。
銀色狼の蒼い瞳に敵意はなかった。好意もない。カイトは知っている。身体は大きいがいつも森で見るのと変わらない、人におもねることのない獣の瞳だ。腹を空かせてはいない。襲う気もない。と、カイトは読み取っている。
銀色狼が踵を返す。
夢と違って、カイトは「待って」とは言わなかった。銀色狼が姿を消した岩陰に彼女もすぐに駆け寄り、カイトは岩壁が裂けるように開いた洞窟を見つけた。
洞窟の奥に淡い光が点っていた。
足を止めた銀色狼が光を放っているのである。
「来い」ということだと理解して、カイトは洞窟に入って銀色狼に歩み寄り、光を放つ毛にそっと手を添わせた。
ちらりとカイトを見下ろし、銀色狼が洞窟の奥へと足を進める。カイトも銀色狼の横に並んで闇の中に分け入っていった。背後から差し込んでいた光は、すぐに爪で裂くようにかすれて消えた。しかし、銀色狼の放つ光に照らされて足元の不安はない。
そうして闇の中をどれぐらい歩いただろうか。
ふと、前方に光が見えた。
眩しさに手をかざしたカイトの視界が、いきなり開けた。
カイトは足を止めた。空が怖いぐらいに青い。そう感じたのは、空が円形に切り取られていたからだ。
立ち尽くすカイトの眼下に、森が拡がっていた。
カイトがいるのは、周囲を岩壁で囲まれた井戸のような場所の中腹だった。彼女の足元から、森へと下る道が続いていた。
森には人の気配がなかった。おかしな言い方だが、賑やかで静かな、獣たちの静謐さに満ち満ちていた。
半円が欠けたような大きな湖に、空が青く映って輝いている。
銀色狼が山を下りて行く。
カイトも我に返って、すぐに続いた。
ささやかな草原に降りても銀色狼は足を止めることなく、そのまま森へと踏み入っていった。
濃厚な森の臭いがカイトを包み込む。
カイトは顔を上げ、視線を上へと向けた。
一本一本の木が高い。重なり合った梢に隠されて空はほとんど見えない。その僅かな隙間から見える青い空は、随分と遠くに見えた。
不思議と周囲は明るく、どこからか零れてくる陽の光に包まれて森は豊かな緑で満たされていた。
空気が重く、存在感がある。湿気が多い。
カイトは泳ぎを知らず、水に潜ったことはもちろんない。
けれどなぜか、『まるで水の中にいるみたい』と、思った。深い水の中に沈んで、呼吸さえ忘れて歩いているようだと。
銀色狼がようやく足を止めたのは、苔に覆われた大きな岩の前だった。
岩の間から湧いた清水が小さな水たまりを作り、そこからさらに細い流れとなって森の奥へと続いていた。流れが影となって落ちていなければ、そこに本当に水があるとは思えないほど澄んだ水だった。
銀色狼がカイトを振り返る。
飲め、ということと察して、カイトは膝をついた。手が痺れるほど冷たい。両手で掬った水に口を近づけ、喉を潤す。
喉を通る水のさわやかさに、疲れがたちまち洗い流されていく。
「おいしい」
と思わず呟いて、カイトは立ち上がった。
禁忌の森の奥にある森。酔林国へと向かう道中でライとタルルナが話してくれたのは、この森のことなのだろう。あの時二人は、神殿を持たない狂泉の唯一の神殿がここにあると言っていなかったか。
ひょっとするとそこへ連れていかれるのだろうかと思い、銀色狼を振り返ろうとして、カイトはぎくりっと動きを止めた。
声を聞いたのである。声なき声を。
女の声だ。
誰の声かも、なぜか判る。
『目を閉じよ』
声はカイトにそう命じた。
『良いと言うまでは、決して開いてはならぬ』
狂泉様--。
カイトは背筋を伸ばし、目を閉じた。細い腕がカイトの背後から差し込まれ、彼女の胸に絡みつく。豊かな両の乳房が背中に押し付けられる。
足が浮いた。
いや、むしろ地面が消えた、と言うべきか。瞬時、音が断ち切られ、すぐに足が草を踏んだ。
カイトに絡みついていた腕がするりと抜けた。
『--もう、良いぞ』
カイトは勢いよく振り返った。
紫廟山の森ではない。どこか別の森の中だ、とカイトはすぐに察した。
すぐそこにいたであろう、狂泉の姿はどこにもなく、遠く、木々と混じり合うように、銀色狼の姿がちらりと見えたのが最後だった。
どきどきと鳴る心臓を押さえて、カイトはホゥと息を吐いた。ここはどこだろうと周囲を見回し、カイトはハッと気づいた。
「ここ……」
見覚えがある。
五感のすべてが彼女に教えてくれた。
ここはいつもの森だと。
彼女は、故郷に、クル一族の集落のある森にいたのである。




