5-1(タルルナの使い1)
トロワの一日は、まだ日が昇らない暗いうちから始まる。
酒蔵の敷地内に湧く泉で手を洗い、口を濯いで、紫廟山に向かって頭を垂れる。次に酒蔵に設けた神棚に向かい、同じように深く頭を垂れる。神棚には氷雪の女神と、収穫を司る大地母神が祀られている。神棚に祀っている神々だけでなく、すべての神にトロワは祈る。幾ら手を尽くしても及ばないことがあると知るだけに、良い酒が醸せるようにと全ての神々に祈るのである。
彼の行動は決して珍しいものではない。
多神教である彼らは、状況に応じて様々な神に祈る。酔林国の他の家にも、それぞれの家業に応じて大地母神や鍛冶の神は普通に祀られている。
ただ、次にトロワが行うことは、酔林国ではあまり見られないものだった。
小さな庭に出て、トロワは毎日、小声で歌を歌うのである。精霊たちを喜ばせるために。術を使うと使わざるとに関わらず、一介の魔術師として。
酒造りが体力仕事だと、トロワを手伝うようになってカイトは初めて知った。
精米し、米を蒸し、麹を造り、酒母を造る。
力が要るだけではない。工程によってはトロワは数日間、ほとんど眠らなかった。「ここを疎かにすると、やり直しがきかないんだよ」というセリフを、疲れの滲むトロワからカイトは何度となく聞いた。
人の作ったもので当たり前に存在する物は何もない。トロワの酒造りを見ていて、カイトはそう思うようになった。
水田に張り巡らされた用水路にしてもそうだ。年に一度、田植えの前に人々は総出で用水路の掃除をするという。木の葉や泥を取り除き、壊れたところは直し、水田の間の道の草を刈る。
そうしたことが毎年行われて、用水路は維持されている。
「人ってすごいね」
そう言ったカイトに、
「それを忘れちまうヤツも多いけどな」
と、酒の入った湯呑を口に運びながらライは応じた。
酒造りを手伝いながら、カイトはトロワ家の食材確保担当として頻繁に森に入った。
ニーナとロロと一緒に入ることが最も多く、他の少女たちが加わることもあった。カーラとも森に入った。その時には少女たちが我も我もとついてきて、狩りと言うより何かの祭りかといった有り様ではあったが。
何度かライとも狩りに行き、イノシシを狩ろうということになって、ニーナとロロ、それにマクバを加えた5人で森に入った。
きゃあきゃあとニーナとロロが騒ぎながらも一頭のイノシシを仕留め、ニーナとロロの家族を加えて、その夜はトロワの屋敷で楽しい大宴会となった。
演武会が終わってから、カイトが新しく始めたことがある。
これまでのカイトの人生でまったく縁がなかったこと。ニーナとロロを教師役として、文字を習い始めたのである。
カイトが酔林国の成り立ちについて教えてもらったのは、その時だ。
「元々は、外の人たちが作ったのよ、酔林国」
「外って?」
「森の外の人。キャナの人たちよ」
「どういうこと?」
「カイトは大災厄って知ってる?」
「ううん。知らない」
「こっちでは革ノ月に出る前に必ず教えてもらうんだけどね。国の成り立ちに関係してるから。
北では伝わっていないの?」
「聞いたことない……かな」
「同じ森でも、本当にいろいろ違うね」
と言ってニーナは説明を始めた。
「今から800年ぐらい前にね、それまでの文明が滅んでしまうような大災害があったらしいの。当時の人口が5分の1か10分の1になったって伝わってるけど、被害が大きすぎて何があったかまるで判ってない。神々の間で諍いがあったとか、光と闇の神の間で大いくさがあったとか、いろいろ言われてる。
わたしにはとても信じられないけど、空が落ちて来たって伝承もあるわ。
それが大災厄。
キャナも被害が大きくてね。狂泉様が一時的にキャナの人々が森に入ることをお許しになられたの。
狂泉様は森に入ることだけじゃなく、森を切り開くこともお許しになられたので、キャナの人々は木を伐り、開墾し、用水路を整備して、水田を作った。
それが酔林国の基礎になったのよ」
「そうだったんだ」
「森に入ったキャナの人たちのほとんどは、外が落ち着くと森の外に帰って行ったけど、残った人も少なくないんだって」と、ロロ。
「キャナの人って真面目な人が多いそうよ。だから800年も前のことを恩に感じている人も多くて、10年前にキャナを撃退できたのも、酔林国を攻めることに対する後ろめたさがキャナの軍にあったのも一因じゃないかって、父さまは言ってたわ」
キャナの国民にしても、神殿組織にしても真面目な連中が多い。カイトにそう話してくれたのは、タルルナだっただろうか。
「わたしたちが使っている文字もね、キャナから伝わったものなの」
つまりこれは外から来たものなんだと、自分がなぞった文字を見ながら、カイトは不思議な思いに捉われた。
カイトが習い始めたものが、もうひとつある。
演武会の翌日のことである。何の前触れもなく、エトーがライを伴ってカイトを訪ねてきた。
「このバカにやられたままじゃあ、悔しいだろう、嬢」
「うん」
エトーの問いに、カイトは迷うことなく頷いた。
「剣術でコイツに勝つのは難しいだろうが、ちょっとゲームをしよう」
「どんなゲーム?エトーさん」
「ちょっと手伝ってくれ、ライ」
「何をする気だ?」
「なに。簡単なことさ」
ライに木剣を握らせ、「ここに立っててくれ」と言って、エトーは5mほど離れてライと向き合った。
エトーは素手である。
「コイツは木剣を持って嬢を懐に入れないようにする。嬢は……」
エトーがライに向かって歩く。ライがぐっと前へと重心を移す。エトーが左へと動くと見えた。ライが「む」と左へと視線をやる。誘われたと気づいて視線を戻し、背後に気配を感じてライは素早く身体を回した。
しかし、振り返ったライが見たのは、少し離れて立ったカイトの姿だけだった。
ポンッと、ライの肩にエトーの手が置かれた。
「こんな風にコイツの背中を取れば嬢の勝ち、というゲームだ」
「お前……」
自分のすぐ横に立ったエトーを、ライは睨みつけた。
「昨日は手を抜いていやがったのか」
「お前の緊張感の問題だろ」
シレッと言ってエトーは言葉を続けた。
「すぐには難しいだろうが、オレの歩法を教えてやるよ。嬢のヒマなときにな。目標はこのバカの背中を取ること。
どうだ」
「お願いします」
と、カイトは即答した。
弓技会で優勝したからだろう、出産に立ち会う巫女役にもよく呼ばれるようになった。呼ばれればできるだけカイトは応じた。
そうして知り合ったのが、ヨリである。
鍛冶師の娘で、キャナに住む男に嫁いだが、妹の出産を手伝うために一時的に森に戻っているとカイトは聞いた。
カイトが酔林国に来てから5ヶ月近くが経った頃のことだ。
「カイトちゃん、弓がとても上手って聞いたけど、今度、森に一緒に入ってもらえないかな」
巫女役を務めた娘に配られるイノシシの干し肉を渡しながら、ヨリはカイトにそう尋ねた。
「しばらく狩りに行ってないから腕が鈍っててね。どうかな」
「喜んで」
とカイトは応じて、ニーナとロロを加えた4人で森に入った。
街で暮らしているからだろうか、ヨリは森人とは異なる、どこか知的な雰囲気を纏っていた。歳は20代の半ばと聞いたが、年齢以上の落ち着きがあった。
長く伸ばした髪を背中に落とし、腰の辺りで一つにまとめている。肌は白く、ヨリの言う通り、「しばらく狩りにいっていない」ことは確かだった。
だが、一度身についたものはそうそう忘れないのだろう。弓を構えたヨリを見て、カイトは『きれい』と思った。
腕が鈍っていると言っていたが、十分、上手い。
「どこでキャナの人と知り合ったんですか?」
好奇心を押し殺してニーナが訊く。
昼食時のことである。
「ガヤの街。注文された品物を父と持って行った時にね」
「ひと目惚れ?」
囁くように尋ねたのはロロである。
「そうね」
不躾な質問に気を悪くすることなく、ヨリは笑った。
「酔林国にはいないタイプの人でね。とても物静かで、優しそうに見えたの。彼もそうだったみたい。わたしが彼の会ったことのないタイプだったので、目を引かれたって言ってたわ」
8年前のことだとヨリは話した。つまり、キャナと休戦に入ってまだ2年後ということになる。
「ご両親は反対されなかったんですか?」
「されたわよ。父なんか激怒して、殺されるんじゃないかと思ったわ」
ヨリの父にカイトは会ったことがある。いつも眉間に皺を寄せた、頑固そうな鍛冶職人である。
「あの人なら、ありそう」と呟いたカイトに、「でしょ」とヨリは笑った。
「旦那さまは、何をしている人なんですか?」
「魔術師よ。いろんな研究をしているの。キャナのためにね」
ヨリが少し言葉を切る。口元を憂いが掠める。
「難しすぎて、わたしにはさっぱりだけど」
と、すぐに明るく笑って、彼女は言った。