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プロローグ2 14年前

 旧大陸の南方に、幾つもの国と接しながら、どの国にも属さない広大な森が広がっている。

 狂泉様として怖れられる、狩猟と復讐を司る泉の神の支配する森である。

 狂泉の森に接する国の住人は、狂泉の許しを得ることなく森に足を踏み入れることは決してなかった。狂泉が他者の立ち入ることを好まず、許しなく森に入った者を、狂泉の森に住む猟師たちが悉く狂泉への供物としていたからである。


 狂泉の森の南西に、キャナという名の王国がある。

 大災厄は多くの国を滅ぼしたが、キャナ王国はかろうじて命脈を保ち、王家を中心として再び栄え、歴史を刻んでいった。

 キャナの王家は、自らを竜王の末裔と称した。

 多くの魔術師が指摘する通り竜王は歴史ではなくむしろ神話であり、キャナの王家が本当に竜王の末裔かと問えば、それを証する文物は何ひとつ存在してはいない。

 しかし、キャナの王族がそうと信じていたことは、キャナという国の歴史を語る上で決して軽んじられることではなかった。なぜなら国民もまた自らを竜王の民と信じ、その誇りこそが、大災厄という未曽有の大災害を経ても尚、彼らが国に対する信頼と帰属意識を失わなかった最大の理由であったからである。

 他国からすれば、キャナ王国の国民がいささか付き合いにくい理由もまた、ここにあった。


 キャナ王国は数多ある神々の中でも最高神と崇められる雷神を守護神としていた。

 雷神の神殿組織は政治と距離を置くことが多く、それは、キャナ王国においても同様だった。キャナ王国の雷神の主神殿は王都にはなく、王都から50キロほど離れた海岸の沖合に浮かぶ孤島にあった。

 遠雷庭と呼ばれたその島は全域が神域とされ、神官や巫女以外の余人がみだりに上陸することは許されていなかった。

 人々は、島に面する海岸に門前町とでも言うべき街を築き、そこから雷神に祈りを捧げていた。


 その余人が立ち入ることが出来ないはずの神の島の海岸に、深夜、影が一つ、立ち上がった。

 文字通り、実体のない、薄い影である。

 影はすぐに厚みを増し、魔術師の黒いローブを纏った一人の女の姿へと変じて、薄い影を自ら地面に落とした。

 女が、魔術師のローブの下から誰かを探すように周囲へ視線を巡らせる。そこへ、可愛らしい声が響いた。

「お待ちしておりました。魔術師様」

「あら」

 女は、さして驚いた様子もなく声をかけて来た人物に視線を向け、膝を折って頭を下げた。

「わざわざ姫巫女さま自らお出迎えとは、恐れ入ります」

 女が頭を下げた相手、雷神の姫巫女は、まだ10代の始めとしか見えなかった。しかし、姫巫女が見た目通りの歳ではないことを、女は良く知っていた。

「初めてお目にかかります。わたくしは……」

「魔術師様」

 姫巫女が落ち着いたゆっくりとした口調で女を遮る。

「失礼とは存じますが、貴女様の名は決して聞いてはならぬと、我が主から厳しく申し付けられております。お許しいただけますか?」

 フードの下の女の紅い唇が声のない笑いに歪む。

「承知いたしました。では、雷神様のところへ案内していただけますか?」

「はい。どうぞこちらへ」

 星明りしかない薄闇の中、海岸から続く細い道を姫巫女は迷うことなく進み、女もためらうことなく後に続いた。やがて道は本来の広い参道へと出て、二人は雷神の神殿まで、更には、姫巫女以外は足を踏み入れることを許されていないはずの雷神の御座の間まで、一言も言葉を発することなく、ひとつの影のように進んだ。

 姫巫女は御座の間に入ると最奥の御座の前まで進み、跪いて頭を垂れた。

「主よ。魔術師様をお連れいたしました」

 雷神は、御座に座り、肘掛に右肘を預け、疲れたように頭を右手で支えていた。

 その姿は、まだ10代の少年以外の何者でもなかった。白目のない、空そのもののように青い大きな目を別にすれば。

 身長は160cmに足らない姫巫女よりもまだ低いだろう。

 肌は黒光りするほどの漆黒で、癖のない黄金色の髪は輝く雷光のようであった。

 御座に、雷神の影が落ちていた。

 雷神が実体を伴っているのである。

 声を上げるようなことはしなかったが、姫巫女は少なからぬ驚きに打たれて息を呑んだ。

 彼女が雷神に仕えるようになってから既に三十年以上が経つが、実体を伴った雷神の姿を見るのは、彼女にしても初めてのことだったからである。

 跪いた姫巫女の心に、不安と疑念が黒雲のように湧き上った。

 彼女は、女を迎えに行く前に、女の名を聞かぬこととは別に雷神に言い含められていることがあった。

 女を案内して来た後、人払いをするが、扉の影に控えていて欲しい、というのである。そして、何があっても、お前を呼ぶまでは絶対に室内に入ってはならぬ、と、雷神は彼女に申し渡した。

『もし、私が呼ぶ前に室内に入れば、私は、お前をこの島から追放せねばならぬ。そんなことを私にさせてくれるな、レナ。なぜなら、お前の名を再び呼んだ時、その時こそ、私にはお前が必要だからだ。

 頼む』

 レナは深く頭を垂れて答えた。「承知いたしました」と。

 しかし、主が何をする気なのか、これから何が起こるのか、レナはここで見届けるべきではないかという思いに激しく苛まれた。

「レナ」

 姫巫女は、ビクリッと体を震わせた。

 初めて聞く声。10代の少年らしい、幼さの残る透き通った声。雷神が、音として現実に発した声だった。

 席を外せということだと、レナはすぐに察した。これまでもそうしてきたように、ほとんど反射的にレナは立ち上がった。体が重かった。まるで、12才で雷神に成長を止められてからずっと忘れていた歳月が、いきなり肩に圧し掛かってきたかのような、初めて感じる種類の重さだった。

 女の顔を見ることもできないまま、レナは御座の間を出て、予め言われていた通り扉の影に控えた。長衣の下の足が立ってはいられないほどに震えた。

「姫巫女様にお出迎えさせるなんて、何の用なの。雷神」

 御座の間から女の声が響く。

 最高神たる雷神を前にしているとはとても思えない、横柄な口調だった。

「判っているだろう?フラン」

 雷神が答える。

 フラン。それが彼女の名なのだと、レナは知った。しかし、聞いたことのない名で、彼女が何者か、推し量ることはレナには出来なかった。

「さあ。判らないわ、雷神」

「しらばっくれるな!」

 激しい怒りを込めて雷神が言う。

「王妃が殺された。背信者どもによってだ。お前のせいで」

 レナは思わず声を上げそうになった。

 数日前に王家の避暑地で起こった、国中を揺るがしている事件だ。レナは、王妃を殺したのは彼女に一方的に恋心を募らせた狂人と聞いていたが、そうではない、ということなのだろうか?

「気の毒だとは思うけれど、それをあたしのせいにするのはひどいと思うわよ?王妃としての義務を放棄して、王宮を出て遊び呆けていた彼女が悪いのよ。

 そうじゃない?雷神」

「そうするように、お前が仕向けたのではないか!」

 女が聞き取れないほど低く笑う。

「あたしは、あなたにも自由に生きる権利があるわ、と囁いただけ。彼女はたったそれだけのことで、王宮を出たのよ」

「彼女がそうしたのも、息子が非業の死を遂げたからではないか!それも、お前がしたことではないか!まだ彼は若かった。その彼の若さに付け込んだのは、お前じゃないか!」

「失礼ね。あたしじゃないわ。それも、あなたの信者じゃない」

「違う!」

「違わないわよ、雷神」

 女の声が少し遠くなる。御座に近づいたのだ。

「あなたの信者が、彼を唆したのよ。知っているでしょう?彼がいては困る者が、彼を唆したのよ。一人の女を幸せにできない者が、民を幸せにできるはずがないって。彼は愚かにもその言葉に乗って、ちょっと綺麗で、優しいだけの侍女と一緒になるために国を、王太子としての義務を捨てた。

 彼が死んだのは、ただの事故よ。でも、自業自得と言っても間違いではないわ。

 あたしのせいじゃないわよ、雷神。

 彼をそんな風に育てたのは、王妃よ。

 そして王妃にそれを許したのは、王よ。

 いい?

 全ては、優しさなどという統治者が判断材料にしてはいけない感情で、消極的にとは言え、王が判断した結果よ。

 言い換えれば、王の弱さが招いたものよ」

「私が知らないとでも思っているのか?王に弱さをもたらしたのも、お前だろう?まだ王が幼い頃から、このことを見越して彼に近づいていたのだろう?」

 何者だろう、とレナは思った。

 王の幼い頃から、と主は言った。王は既に50代だ。魔術師のローブの下の顔を確かめることは出来なかったが、女は、まだ50代には程遠いように思えた。

 だとすると、彼女もまた、私と同じように見た目通りの歳ではないということだろうか?

「未来を見ることができないあたしにそこまでできるはずないって、知ってるでしょう?雷神」

 嘲笑するように言ったが、女の声には微かな苛立ちがあった。

「なぜこんなことをする」

「……」

 女は答えない。

 まるで雷神に抗議するように。

「背信者どもが各地で反乱を起こしている。あれも、お前だな」

「何度も言わせないで、雷神。あたしは何もしていないわ。反乱が起こるのは、反乱が起こるだけの理由があるからよ」

「止めないのだな、フラン」

「何を止めろと言うの?」

「王妃は、とても純粋な娘だった。望まずして王妃になってからも、常に民のことを考えていた。息苦しい王宮に入ってからも、自分であろうとしていた」

「あの子を愛していたの?」

「私は、私の信者、全てを愛している」

「彼女、どこか危なっかしいところがあったわね。自分のしたいことと、出来ることの区別がついてなくて、いつも、自分が出来ること以上のことをしようとした。それが、彼女自身を壊したのよ、雷神」

「……お前に、私の信徒をこれ以上、好きにはさせぬ」

「どうするつもり?雷神」

 雷神は答えない。

 あり得ないことだが、衣擦れの音が聞こえた気がした。雷神の纏った長衣の音が。雷神が御座から立ち上がったのだと、レナは察した。

 レナは御座の間に駆け込みたかった。主を止めたかった。

 しかし足が竦んで、レナはどうしてもそこから動くことが出来なかった。

「……あたしを、殺してくれるの?」

 雷神の声は聞こえない。しばらくして、女が、小さく「あ」と、言った。不思議なことに、どこか嬉しそうに。淀んだ川のような沈黙が、御座の間から形あるもののように流れて来た。

 耐え切れずに御座の間に駆け込もうとしたレナを止めたのは、突然御座の間に響いた別の声である。

「フラン!」

 少ししゃがれた声。おそらくは老女の。

 えっと、レナは思った。仮にも雷神の御座の間だ。意識せずとも雷神の存在そのものが結界となって、どんな術を使おうとも余人が入れるところではない。

 だが。

「おお、フラン!フラン!目を開けて頂戴、フラン!」

 老女が叫ぶ。

 しかし、女が応える事はなかった。少し籠った、老女の泣き声が聞こえた。女の衣服に顔を埋める老女の姿が、厚い壁を通してレナにも見えるかのようだった。

「なぜ、こんなことを。雷神。なぜじゃ」

 声を震わせて老女が問う。怒りと悲嘆、疑念が入り混じった声で。

「母上……」

 レナはぎょっとした。

 他の何より、驚かされた。

 声から判断して、老女は人だと、レナは当然の如く思っていた。その老女を、神である主が母と呼んだのである。しかも老女は、自分が雷神の母であることを否定することはなかった。いや、否定はしたのだが、それは雷神にとって余計に辛いことだった。

 老女は雷神に冷たくこう告げたのである。

「お前に母上、などと呼ばれたくはない。二度と私の前に現れないで頂戴、雷神。フランを殺したその醜い顔を、私に見せないで頂戴。私はお前を許さぬ。フランを手にかけたお前を、私は、決して許さぬ」

「母上!」

 雷神が悲痛な声で叫ぶ。

 老女は答えない。いや、気配がない。

 御座の間から、少年の嗚咽が聞こえた。それと、小さく、弱々しく自分の名を呼ぶ声を、レナは確かに聞いた。

 レナが踏み入れた室内には、膝をつき、頭を床まで落として涙を流す雷神の姿しかなかった。おそらく雷神が殺したであろう女の姿も、雷神が母上と呼んだ老女の姿もどこにもなかった。

 いや、そこには神の姿もなかった。

 そこにはただ、母に拒絶され、悲嘆にくれる一人の少年の姿だけがあった。

 レナは少年に歩み寄り、彼をそっと抱き締めた。

「扉を、扉を閉じてくれ、レナ」

 少年は涙を流しながらそう言った。

「神殿の全ての扉を。母上に、決して私の醜い姿をお見せすることがないように……」

「はい」

 と、レナは少年の頭を抱いたまま頷いた。



 雷神の神殿の扉は、キャナ王国だけでなく、世界中全ての神殿で内側から固く閉ざされた。

 雷神に従うことを望んだ姫巫女たちだけがそれぞれの神殿に残ることを許され、神官も巫女も、望むと望まざるとに関わらず神殿を出るよう命じられた。ほとんどの者は再び扉が開くことを信じてそれぞれの神殿近くの街に居を移し、世俗に沈んだ。世俗に沈むことを良しとしなかった者は、当てのない流浪の旅に出た。

 雷神を捨て、他の神の信徒に転向した者は、不思議なことに全くと言っていいほどいなかった。


 それが、14年前のことである。

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