4-8(酔林国8(演武会1))
翌日トロワは、自宅を出る前にハノに何度も念押しされた。
「判っていると思うけど、カイトちゃんに怪我をさせちゃ、ダメよ。直接お願いされた訳じゃないけど、カイトちゃんのご両親から預かった大切な娘さんなんだから。タルルナさんにも申し訳が立たないでしょう?」
「判ってるよ、ハノ」
うんざりすることなく、トロワは答えた。彼にしても、カイトが怪我をするような事態は何があっても避けるつもりだった。
今日に備えて、昨夜から酒は一滴も呑んでいない。
一番とばっちりを食ったのは、いつものように夕食の席に紛れ込んでいたライである。
「ライさん。ライさんも、もしカイトちゃんに何かあったら我が家は出入り禁止にします。いいですね?」
「はいはい」
「それじゃあ、今日はもう明日に備えて休みましょう」
「おいおい。まだ宵の口だぜ、ハノ」
じろりとハノがライを睨む。
「それが何か?」
「ソレガナニカ?」
双子の娘が母親を真似て、けたけたと笑う。仕方なくライは、大きなため息を残して誰も待っていない我が家へと帰って行った。
「カイトちゃんもよ」
と、ハノの矛先はトロワの次にカイト自身にも向けられた。
「怪我をするまで無理しちゃダメよ。危ないと思ったらすぐに降参すること。いい?」
素直に頷きたかったが、カイトは頷くことができなかった。
頭に血が上ったら、危ないかどうかを正しく判断できるか、自分でも判らなかったのである。
「……ごめんなさい。その時になってみないと判らない」
ハノがため息をつく。
「だったらできるだけでいいから、怪我だけはしないよう、努力はしてくれる?」
「うん」
「約束したわよ」
と言って、ハノはカイトを抱きしめた。
「それじゃあ、頑張ってきてね」
「うん」
ハノたちに見送られて家を出るとすぐに、トロワがカイトに話しかけてきた。
「カイト。もし無理だと思ったらオレが試合を止める。いいな」
カイトは力強く頷いた。
「そうはならないよう、頑張る」
誰にも負けるつもりはない。トロワがちらりと見たカイトの横顔には、彼女の決意が言葉となって表れていた。
演武会の一日目は体術である。
参加者が1対1で戦い、勝った方が次の試合に進むという、つまりはトーナメント方式だった。
ルールとしては急所以外はどこを攻撃してもよく、背中が地面につくなり、立っていられなくなった時点で負けである。剥き出しの地面に土を削って一辺が7メートルほどの線が正方形に描かれ、それが演武場だった。
ただし、演武場の外に出たとしても、それが故意と認められない限り反則とはならなかった。
参加者は16名。
女性はカーラとカイトだけで、年齢的にはカイトが一番若い。
演武会への参加に年齢制限はなかったが、カイトの参加が認められたのは特例である。暗黙のルールでは、身体ができる17歳前後が参加が許される最低年齢だった。
「頑張ってね」
緊張した面持ちでニーナが言う。
「うん」
「誰か探しているの?」
カイトの様子に、ロロが尋ねる。
「エトーさん。確か演武会に参加するって聞いたけど」
「あいつは体術は棄権だ」
答えたのはライである。
「剣の腕はあるんだがな。体術はからっきしだ」
「そう……かな」
「あいつがどうかしたのか?」
「わたしの試合を見て欲しかったの」
と、意外なことをカイトは言った。
カイトの初戦の相手は、参加者の中では、カイトを除けば一番小柄な10代後半の若者だった。それでもカイトよりは10cmは背が高く、かつ参加者の中では一番の敏捷さを誇ると評されていた。
カイトはそれを、試合直前にライに教えられた。
ライはまるでカイトをサポートするかのように彼女の試合に立ち会い、カイトを送り出して腕を組んだ。
「ライさん。カイトちゃんが心配なのは判るけど、そこにいられのはちょっと目障りなんだけど」
カイトの対戦相手がライに文句を言う。
「気にするな。お前がヘンにカイトを触りまくったりしない限り手は出さねぇから、頑張りな」
「触りまくったりって、触らずにどうやって戦えって言うの。まあ、すぐに終わらせてあげるよ。
だからカイトちゃんも安心してね」
若者がにこやかに笑ってカイトに話しかける。
観客席にいたロロは、二人のやり取りを聞いて、「あれ?」と呟いた。
「ねぇ、ニーナ。なんだかカイトがおかしいよ」
「あの子がおかしいのはいつものことよ」
ニーナはカイトの無事を狂泉に祈るのに忙しくてそれどころではない。骨は拾ってあげる、とカイトに言ったものの、彼女はカイトが怪我をしないか心配で、演武場を見ることさえできなかったのである。
「そうだけどぉ」
ロロが不満げに呟く。
「いつものカイトなら『すぐに終わらせてあげる。わたしの勝ちでね』とかなんとか言い返しそうなのに」
ロロの言う通り、若者とライのやり取りを聞いているのかいないのか、カイトはどこか遠くに視線を向けたまま固く口を結んで立ち尽くしていた。
「昨日言ってた、あれのせいかなぁ」
「あれって?」
「ほら、審査員の人たちのところに3人で演武会の出場をお願いに行ったときに、カイト、言ってたじゃない。
何か試したいことがあるって」
「ああ」
ニーナも思い出した。審査員であるトロワにカイトが言ったのである。試したいことがあるから演武会に出たい、と。
カイトが演武会に出ることができたのも、弓技会で優勝したことと、その『試したいこと』に審査員が興味を引かれたからだろう。
「言ってたね、確かに……」
ニーナがカイトに目をやろうとしたところに、試合開始を告げるカーンという甲高い音が響き、彼女は慌てて両手を組んで、「狂泉様……!」と顔を伏せた。
試合開始を告げたのは、長さの違う木片を並べた簡素な打楽器である。音板となる木片は7つと少なかったが、木琴と表現して間違いはないだろう。
木琴が試合開始を告げるとともに、カイトは無造作に対戦相手の若者に歩み寄っていった。
勝負はあっけなくついた。
カイトはただまっすぐ歩いて対戦相手の脇をすり抜け、その時には何故か相手はカイトがすり抜けたのとは逆の方向に体勢を崩しており、カイトの足払いひとつで尻餅をついた。
「えっ」と声を上げて若者がカイトを呆然と見上げる。
観客も拍子抜けである。
「きゃー!」と、ロロひとりが歓声を上げた。
「カイト、すごーい!」
「え、えっ?」
ニーナが顔を上げる。
「終わったの?カイト、勝ったの?」
「勝ったよぉ!ニーナ、見てなかったの!?」
「……怪我はしてない?」
「そんなの、してないよ!」
ホッと安堵のため息をついて、ニーナは顔を伏せ、「狂泉様、ご加護を感謝いたします……」と感謝の言葉を呟き、演武場に視線を向けた。
カイトの姿を認めて、またホッとする。
ホッとすると、いつもの調子が戻ってきた。
「それで、カイトはどうやって勝ったの?」
「判らない」
「判らないって何?ロロ、見てたんでしょう?」
「カイトが何かをしたんだよ」
「だから、その何かって何かを訊いているの、わたしは」
「ムリよ、ニーナ」
ロロとは別の少女が言う。
「あたしも見てたけど、カイトが何をしたか判らない。でも、あたしたちだけじゃないみたいよ、判らないのは」
「え」
ニーナが改めて周囲を見回すと、戸惑いがざわめきとなって、演武会場を覆っていた。
ライはカイトが相手の脇をすり抜けたところで、あっと口を開いて組んでいた腕を解いた。
「あれは……」
「ライ、なんなんだ、あの嬢は」
ライの傍らで陰気な声が響く。振り返らなくても、それがエトーだと、ライはすぐに察した。
「お前、いつカイトにあれを教えたんだ」
対戦相手を引き起こすカイトを見つめたまま、ライがエトーに訊く。
「教えちゃいないぜ」
「嘘を言うな。あれ、お前の歩法だろう」
「信じられないのもムリはないが、教えちゃいない。オレがあの嬢と会ったのは数日前に森の中で、一度だけだ」
演武場を降りたカイトと抱き合っていたニーナが、ふとこちらを見た。カイトに何かを告げる。
カイトがこちらに顔を向ける。彼女の口が、エトーの名を呟いたように見えた。
ニーナたちを振り返り、短く会話を交わしてからカイトがひとりで歩いて来る。エトーがいるからだろう、少女たちは誰もついて来なかった。
「エトーさん、見てくれた?」
エトーを見上げて、カイトが訊く。
「見た」
陰気なままエトーが頷く。
「いつ覚えた」
カイトはエトーの問いには答えず、ひとり頷いた。
「やっぱりあれで良かったんだ」
「と言うことは、カイト、お前、エトーに教えてもらったんじゃないのか」
「うん」
「見て覚えた、ということか?」
ライの問いにカイトが首を振る。
「見てないもの。見たんじゃない。聞いて、考えたの」
「聞いて、考えた……?」
「エトーさんと森で会った時、すごく怖かった。どうして怖かったんだろうって考えて、知らないうちに間合いに入られたからって思ったの。何をされたか判らないから怖かったんだって。
それで、何をされたか考えて、エトーさんの足音を思い出したの」
「足音?!」
「うん」
カイトが頷く。
「足音が独特で、どんな風にエトーさんが歩いていたかずっと考えてて、その時に気がついたの。これって気配を消すのと同じことなんだって」
エトーの細い眉がぴくりと上がる。
「足音ってお前、それだけで……」
「ライ。ちょっと黙ってろ。それで、何が同じなんだ、嬢」
「わたしの母さまはうちの一族で一番気配を消すのが上手くて、一度、母さまに気配を消すコツを聞いたことがあるの。エトーさんがやったのって、母さまに教えてもらったのと同じことなんだって思ったの」
「それを、話していいのか?」とエトー。
「聞いたからってできることじゃないから、特に隠してはいないって母さまは言ってた。だからいいと思う」
「そうだな」
「なんなんだ、そのコツって」
訊いたのはライである。
「相手の呼吸を読むこと」
ライには少し意外な答えだった。
「息を殺す、とかじゃなくて、か?」
「うん。相手の呼吸を読んで、相手の意識を読むの。そうすると、うまく気配を消せる。わたしはまだ母さまみたいに上手くはできないけど、多少は呼吸を読むことができる。
エトーさんがやってたのも同じ。
エトーさんは、わたしたちの呼吸を読んで、わたしたちの意識が逸れるところを狙ってわたしたちに近づいて来たんだって思ったの」
くっとエトーが嗤う。それは低く押し殺した笑い声となり、最後にはエトーは声を上げて笑っていた。
「エトーが笑うとこ、初めて見た」
ポツリとライが呟く。
「呼吸を読むことはできる、後は歩法と、オレの足音だけを頼りに覚えたってことか、嬢」
笑いを収めてエトーが訊く。
「うん」
「オレも出るんだったぜ」
「ライが、エトーさんは体術がからっきしって言ってたけど、そんなことないはずって思ってた。やっぱりそうなんだ」
「いや。からっきしさ。相手に近づくことはできる。だが、そこから何もできねぇ。だから棄権したんだ。まあしかし、嬢と手合せしたかったって気がするな。
嬢、お前、元々何かやってるだろう」
「やってるって程じゃないけど、護身術は覚えさせられた」
「北の、か」
ライの言葉に、カイトが頷く。
「でも、こっちにも似たような技があるでしょう?プリンスが使ってたわ」
「どういう状況でプリンスが使ってるところを見たのか、ちょっと突っ込んでみたいが、そうだな。あるな」
「あるわね」
カイトの背後から女性の声が答える。カイトが振り返ると、いつの間にかカーラが笑みを浮かべて立っていた。
「あんまり面白い話だったんで立ち聞きしちゃったわ。ごめんなさい。
謝罪ついでに教えておいてあげるわ。わたしもプリンスの使った護身術は使える。だって」
カーラが微笑む。
「プリンスに教えたのは、わたしだから」