31(クロ)
海都クスルの港から船が離れていく。ペルの離宮は見えない。見えるところにペルの離宮はない。
だが、ペルとリンリンがこちらを見ていると、フランは感じている。
『さようなら、ペル。できれば、また会いましょう』
「フラン姉さま」
マルタが声をかけてくる。
「何?どうかした?」
「あのふたり、何とかして下さい」
心底うんざりした声でマルタが言う。
マルタが示したのは、カイトとフウだ。二人で船縁に並んで座り、手を握り、ひとつの置物のようにぴったりと身体を寄せ合っている。まるで二人の周囲の空気だけが、濃いピンク色に染まっているかのようだ。
マルタよりもフウの方が力が強い。
しかも、フウはまだ力のコントロールが上手くない。
力が弱いフランにはさほど感じられないが、マルタは、フウの心から漏れてくる、声にならない声に辟易としている。
フランが笑う。
「放っておきましょう。今が一番楽しい時なんだから」
マルタがため息を落とす
「フラン姉さま」
「なに?」
「本当に、あの二人に、その、”門”を潜らせるんですか?」
そっと訊く。
フランは声を上げて笑った。
「そんなこと、する筈ないでしょう?」
マルタが再びため息を落とす。
「だったら、新しい神はどうするんです?神々の列に新しく加わって頂くんですか?」
「習合するのよ」
「しゅうごう?ですか?」
”門”ができる前、大災厄の前には、新しい神をどうしていたと思う?
とは、フランは訊けない。
それは、世界がいずれ終わることを話すことに繋がるからだ。
代わりにフランは、
「狂泉は泉の神だけど、復讐と狩猟を司っているわ。酒神でもあるでしょ。平原も、動物と狩猟の神で、雨を司っているし、音楽の守護神でもあるわ。愛と美の女神であるスフィア様も性愛と快楽を司りながら、貞節も司っていらっしゃって、旅人の守護神でもあるでしょう?
どうしてだと思う?」
と、マルタに尋ねた。
「え、理由があるんですか?」
「習合したからよ。多くの神々のうち、似た性質の神々は人々に同一視されて、自然とひとつになることがあるのよ。
それが習合よ」
「でも、それだったら、どうしていつも、新しい神を”門”に送るんですか?」
「神々が嫌がるからよ。もう、神々の性質は固まっているわ。習合したら、イヤでも性質が変わらざるを得ないわ」
「だったら--」
今回も神々に断られるんじゃ--。
「あたしの頼みを断れない神がひとり、いるでしょ」
悪戯っぽくフランが笑う。
何度目になるか判らないため息を小さくマルタが落とす。
「お可哀そうな、雷神様」
「ん?何か言った?」
「いいえ。何も。あ。だったらどうして、あの二人をショナに連れて行くんですか?」
「カイトにも言ったでしょう?フウはまだ、力の使い方を覚えていないから、力の使い方を覚えなくちゃいけないって。
そのためよ」
「……あれは、死の聖女様を心配させないためのウソじゃなかったのか」
フランが両手をパンッと合わせる。
「そう言えば忘れてたわ」
「何です?」
「あの二人に伝えて欲しいって、おじい様から頼まれていたことがあったの。すっかり忘れていたわ」
マルタが首を振る。
何も忘れることはない。
それがこの姉だ。
「カイト、フウ!」
フランに声をかけられ、何事かと、二人が顔を上げる。
船はショナへ、カイトとフウがまだ見たこともない世界へと向けて、帆をいっぱい膨らませ、波のない海を静かに進んでいる。
***
細やかな細工の施された天井が見えた。知らない部屋だ。柔らかなベッドに横になっている。
さほど広い部屋ではない。
だが、窓からは中庭が見えていて、とても居心地のいい部屋だった。
「ここは……」
ミユが呟く。
「よう。起きたかい?お姫様」
視線を回すと、いつも通りの軽い笑みを浮かべたクロがいた。
「クロさん……、ここは……」
「パロットの街の龍翁様の神殿だよ」
「パロットの街……?」
状況が飲み込めない。
「どうして、ここに……」
「さて。神々の気紛れ、ってとこかねぇ」
クロは思い出す。
旧ロア城の森の中で、キャナの兵を斬り倒し、ミユを担いで逃げた。後ろを振り返ることなく懸命に逃げて、気づくと一人だった。担いでいた筈のミユの姿がない。体中の血が沸騰したかと思い、すぐに冷めた。
ミユがいないだけではない。
周囲には何もない。
ただ、どこまで続いているかも判らない白い空間だけがある。そこに、いつからいるのか、一人で座りこんでいる。
ああ。死んだか。
と、思った。
お姫様は、無事かなぁ。と、思った。
それに、声が答えた。
「無事じゃ。我が信徒よ」
視線を上げる。白い髭を足元より長く伸ばした禿頭の老人がいた。信徒と呼ばれたからではなく、理由もなく判った。己の主だと。龍翁だと。
「そりゃ良かった」
と、クロはだらしなく嗤った。
「で、オレは死んだんですか?」
「いや、死んではおらん。トワの姫と二人、ワシが助けたからな」
「へえ」
クロに感動はない。
「そりゃまた、どうして」
不思議に思った。
「人の争いに、神々は関われない筈じゃないんですか?竜王様との契約で」
「お前がキャナの兵を斬り倒し、トワの姫を担いで逃げたところで掬い上げたからの。人の争いが終わった後ならば、竜王との契約を破ったことにはならんよ」
クロが嗤う。
「けっこうイイカゲンですねぇ。
ま、それはそうだとして、そもそもどうして助けてくれたんです?オレはともかく--って言えるほどオレも信心深くはありませんけど、オレも一応は龍翁様の信徒だ。
助けてくれたとしても、まあ不思議じゃねぇ。
でも、お姫様は違う。
新しい神の信徒ですよ?」
「あの子は竜王によく似ておるからの」
「へ?」
「生き写しと言っても良い」
「お姫様が?竜王様に?つまり竜王様って、女、ってことですか?え?だから助けたって、そんな理由で?」
「あの子が生まれた時、神々はひとり残らず沸き立ったよ」
クロの問いに答えることなく龍翁が言葉を続ける。
「竜王の再来だと。特に、トワ一族の守護神である海神の浮かれようと言ったら見苦しいほどじゃった。
ワシも、何故、トワの一族が海神の信徒に改宗したのかと悔しくて悔しくて仕方がなかった。トワ一族をずっと守護してきたのはこのワシじゃ。それなのに、何故、今、とな。海神のヤツ、『申し訳ありませんな、爺様』などと、ワシに向かってワザワザ言いおったのじゃぞ。
申し訳ないなどと欠片ほども思っておらなんだろうに。
それだけに、あの子が海神を否定した時には、飛び上がるほど嬉しかったわ」
「ズイブンと下世話なんですねぇ。神々も」
「呆れたか?」
「いやいや」
クロが首を振る。
神々も捨てたモンじゃねえな。
と思い、
「むしろ、信仰心が深まりましたよ」
と、言葉にした。
「ならば我が使徒になるか?我が信徒よ。あの子を助けてくれたのじゃから、その資格は十分にある」
クロが大袈裟に手を振る。
「オレの信条は、なるべく神様にも権力にも近づかない、ってことなんで、遠慮しておきます。ありがたい話ですけどね」
「後悔するぞ」
「するかも知れませんが、それはそれ、ということで」
龍翁が低く笑う。
「残念じゃ。さて。それではそろそろ、お前たちを戻してやろう」
クロの手元に長剣がない。
だから、クロは「旧ロア城の森に、ですか?」と訊いた。どうやってお姫様を守ろうかと考えた。
カイトが来る。
来てくれる。
と、クロは疑っていない。
それまでお姫様を守ることさえ出来れば--。
「いや。トワの姫を危険に晒す訳にはいかぬからの。我が神殿、お前が行きたがっていたところじゃ」
「へ?」
「それにしても、忠義なことよの。お前も」
「え?何のことです?」
「判らぬならば知らずとも良いことよ。それから、くれぐれも後悔するなよ」
龍翁の声が遠ざかる。消える。激痛がクロを襲った。それが彼の意識を取り戻させた。大事に抱えた腕の中に温もりがある。ミユだ。
生きている。
クロは周囲を見回し、自分が広い石造りの建物の中にいることを知った。途切れていた記憶が繋がる。我が神殿。お前が行きたがっていたところ。--龍翁様の神殿。それも、パロットの街の--と、閃く。
「誰か!」
クロが叫ぶ。
「誰かいないか!お姫様を--!」
視界が歪む。激痛に奪われそうになる意識を、懸命に繋ぎ止める。足音が聞こえ、自分に向かって走って来る巫女たちの姿を捉え、ほっと安心し、「ラーラさまを……」と呟いて、彼の意識は途切れた。
ミユが息を呑む。ミユが見ているものに気づいて、クロが笑う。
クロの右腕が、ない。
「別にたいしたことじゃないさ。元々、オレは両手が使えるからな。何も困ったことはないさ。
命を拾えただけ儲けモンさ」
龍翁様も、腕が無いなら無いと言ってくれればいいものを。とは、クロも思った。後悔するなよとしつこく龍翁が言った意味も知った。
もし、使徒になっていれば、右腕は元に戻っていたかも知れない。
しかし、右腕が元に戻るからと言われれば使徒になるのを引き受けていたか、というと、クロにも判らない。多分それでも断っただろうな、とは思っている。
「いくさは終わったよ」
と、クロは言った。
「カイトが終わらせてくれた。フウも無事だ。カイトと一緒にいる。
カン将軍と、隊長と、かかしと、カエルはダメだった。マウロ様は、どうやらキャナとのいくさで死んだってことになってるみたいだが、生きているよ」
ひとりひとりの安否を告げ、最後に、
「オレとお姫様は、行方不明ってことになってる」
と、クロは言った。
「龍翁様が匿ってくれてる」
「どうして……」
「神々の気紛れってことだよ、お姫様」
「我が主は……」
「いなかった」
「え?」
「いなかったってことになってる。けど、多分、カイトなら知ってる」
詳しいことはカイトから聞いた方がいいと思います。
とだけ、エルは言った。
ならいいか、とクロもそれ以上聞かなかった。
「だから、今は休んでればいいさ」
「クロさん……」
「しっかり休んで、身体を直して、トワ郡に帰ろうぜ」
「トワ郡に」
「ああ。故郷にさ」
「--はい」
小さく頷いて、ミユは瞳を閉じた。閉じた瞳から涙が流れた。悲しいのか、嬉しいのか、悔しいのか、それとも安心しただけか、ミユ自身にも判らない涙だった。
穏やかな眠気が訪れ、そう言えば、トワ郡と言っても、今は--、というクロの声が、遠くに聞こえていた。