30-6(母の呪い6)
ああ。彼女が、フウを守って下さいますように。私を殺した彼女が。狂泉様。これが私の最後の願いです。彼女が、フウを……。
ベッドの中でフウは凝然と目を見開いた。痛いほどドキドキと心臓が打つ。
フウはカイトを見ていた。森の中に佇む幼いカイトの姿を。母の視覚を通して、母を殺したカイトの細くしなやかなシルエットを。
そして、母の祈りを聞いた。
『今のは--』
悲鳴が響いた。フウのすぐ横で。隣で眠っていたカイトだ。
「母さま、母さま!」
丸まり、身体を震わせ、泣き叫んでいる。
「ひどい!酷い、母さま!」
「カイト、カイト、どうしたの!」
フウはカイトの背中に触れ、カイトが見たものを知った。
ちっとも近づかない狂泉の森。
荒く乱れた息。
腕に抱えた夫の首。
そして訪れた、深い深い闇。
「こんなの、こんなの!わたしにどうしろと言うの!」
カイトの記憶がフウの脳裡で閃く。
『あたしたちのことを気にする必要はないわ。カタイもいるし。だからカイト、あんたはあんたの幸せを見つけて、幸せになって。
これがあたしの呪いよ』
フウが慄然とする。
これは確かに、呪いだ。
「わたし……、わたしのせいで。母さま!母さま……!」
「カイト--」
「何を騒いでいるの」
寝室の扉が開いている。フランが立っている。フランの後ろには、マルタもいる。カイトが顔を上げる。フランを見る。
「フラン!」
カイトがフランにしがみつく。
「何。どうしたの」
カイトの背中をさすりながら訊いたフランに、フウが手を添えた。カイトが見たものを、フランに見せた。
「狂泉?」
「はい」
フウには判る。主が、狂泉が見せた。自分と、カイトに。
「フラン」
カイトが涙に濡れた顔を上げる。
「あんたは、あんたは本当に、何も忘れないの?」
「そうよ」
カイトの唇が震える。
「あんたは悪くない」
と、言う。
「え?」
「あんたが何をしたか、わたしは知らない。あんたが何を忘れられないのかも判らない……。でも、あんたは悪くない。
悪くなんかないわ」
涙声でカイトが言う。
「カイト、あなた。あたしに同情しているの?」
カイトはすすり泣いている。
フウがフランに身体を寄せる。マルタも。フランはため息を落とした。妹たちの笑顔が、声が蘇る。
まるでそこに、彼女たちがいるかのように。
お先に失礼します、フラン姉さま。
お先に。
お先に--。
フランの胸が痛む。いつもの痛み。決して忘れられない痛み。しかし、その痛みが和らいでいる。
泣き続けるカイトの存在に。
心を寄せてくれているフウの存在に。
マルタの存在に。
「そう」
フランが微笑む。
「ありがとう。カイト」
***
「母さまは怖かったんだと思う」
暗闇の中でカイトが言う。
「何が?」
「森の外に出ること」
「うん」
話を促すためにフウが頷く。
「わたしの婆さまは、母さまとは反りが合わなかったみたい。
フウを探しに森を出る時に、伯母さまが教えてくれたわ。物心がついた時には婆さまはもう、森に帰られていたから良くは知らないけど、婆さまは性格がきつくて、母さまは辛い思いをしたみたい」
「そうなんだ」
「わたしの名前を付けてくれた爺さまは、婆さまと違って穏やかな方で、婆さまがいつも爺さまを怒鳴っていたって。爺さまと婆さまはあまり仲が良くないって伯母さまも思っていたって。
でも、ある日、爺さまが倒れて、森に帰ることなく亡くなって、みんなで森に帰してあげたって。婆さまは、爺さまが亡くなって、せいせいしたって憎まれ口を叩いていたけれど、爺さまを森に帰した夜に、ひとりで森に帰ったって。爺さまが残した弓矢だけを持って」
「そう」
「母さまは怖かったんだと思う」
同じことを、カイトが言う。
「本当は、母さまは父さまと離れたくなかったんだと思う。父さまと一緒にいたかったんだと思う。ずっと。
でも、怖かったから、わたしのためって思って、森を出たんだと思う。わたしのことを、勇気に変えて。母さまは婆さまとは合わなかったけど、婆さまと同じで、自分が愛した人とお別れしたくなかったんだと思う。
わたしはそういう人たちの娘で、孫なんだわ」
「うん」
「フウ」
「なに?」
「好き」
言葉が自然に出た。いつかニーナが言ったように、勇気は要らなかった。
「あんたのことが、好き」
フウがくすくす笑う。
「不思議ね」
「何が?」
「とっくにカイトに、好きって言われてる気がしてた」
「あ」
「あたしも好きよ、カイト」
悪戯っぽくフウが笑う。
「でも、先に好きになったのは、あたしの方かな」
「え?」
「狂泉様はあたしに、あんたが母さまを楽にしてくれた時のことを見せて下さったわ」
フウがカイトに手を添わせ、カイトの脳裡にフウが見たものが閃く。
ああ。彼女が、フウを守って下さいますように。私を殺した彼女が。狂泉様。これが私の最後の願いです。彼女が、フウを……。
「あたしも、母さまに呪われたのかな」
「どうして?」
夢から覚めたかのように目をしばたかせ、カイトが訊く。フウの母の祈りが、カイトの心で残響となって響いている。
「茂みの中からあんたを見た時から、好きになっちゃったから」
「あの時?」
カイトからは見えなかった。だが、憶えている。
「うん」
「フウ」
「なに?」
カイトがフウの手を強く握る。
「あんたを離さないわ。例え、”門”の向こうに行っても、この手は決して離さないわ」
「あたしも」
フウが強く握り返す。
「あんたがイヤだって言っても離してなんかあげない」
「判った」
「うん」
と笑ってフウがカイトに身体を寄せ、カイトもまた、フウの想いに応えるために、フウにそっと身体を寄せた。