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28-7(秩序をもたらす者7(遠雷庭3))

『正体の判らない何かに出会ったら、基本、そこから動かない。まず、正体を探る。もし逃げられるなら、逃げる。

 仲間がいるなら、決して勝手なことはしない』

 海都クスルでカイトがクロに語ったことだ。

 惑乱の君は敵意を見せていない。カイトたちを害そうとする様子を見せていない。危険な相手なのは間違いなく、矢でどうにかできる存在でもない。しかも、傍らにはフウがいる。猟師としての基本に従うなら、神の怒りを買わないように、嵐が通り過ぎるのを待つように、大人しくしているというのがあるべき対処方法だ。

 それなのに何故、カイトは惑乱の君に矢を向けたのだろうか。

 かつて、カイトの主である狂泉は、平原公主と協力して惑乱の君と戦ったという神話がある。

 カイトも知っている。

 だからか、というとそうでもない。

『森から訪れし者が、南の国々に秩序をもたらす』

 何処かの神が下された神託に従ったというのも違う。それだけではない。ましてや、怒りに駆られて無謀な行動に出た訳でもない。

 そうしたものもカイトの心の内にあるにはあったが、考えるより先に足が前へと出た。白い心のまま、ただ、前へ。


 少年の口元が醜く歪む。裂けるように釣り上がる。嗤う。

「ただの人間が、神に矢を向けるか--」

 少年の白い顔がひび割れる。嗤いを残したまま、パラパラと落ちる。二つに裂け、砕け散る。

 部屋が拡がる。

 壁が、天井が消える。闇に支配される。星がないことが不思議なほど、奥行きの知れない闇が、空間が拡がっていく。

「ただの人間が、我に矢を向けるか」

 男とも言えない、女とも言えない、中性的な声が床を這う。

 闇が渦を巻き、収斂し、より深く濃い闇となって、人の姿を形づくる。闇の神が、惑乱者と呼ばれる神が、カイトに圧し掛かるようにそそり立つ。

 足元よりも長く伸びた黒髪は闇に紛れ、身に纏っているマントもまた、闇そのものでもあるかのような漆黒だった。

 眉は細く、鼻筋が通り、紫色の薄い唇には微笑が浮かんでいる。

 ほとんど左右対称といってもいいほどに整った顔は寒気がしそうなほどに美しく、かつ、欠片ほども感情が存在していなかった。

 切れ長の、底の知れない穴のような二つの黒い瞳が、茫洋とカイトに向けられる。

『身の程を知らぬのか?人の子よ?』

 闇の神が問う。

 闇の神は叫んだのではない。むしろ、静かに尋ねた。しかし、言葉は形となった。冷たい吹雪となって荒れ狂い、カイトの短い髪を激しくかき乱した。

「あ、ああ」

 マルタが弱々しく声を漏らし、しゃがみ込む。恐怖に涙が溢れた。

 カイトの矢先は闇の神に向けられたまま動かない。

 揺るがない。

 フウは、マルタがしゃがみ込むのを見た。自分の足も、頼りなく震えた。しかし、カイトの姿が彼女に勇気を与えた。強い向かい風に逆らうように顎を引き、足を踏み出す。闇の神ではなく、カイトを見る。

 いつも感じていたカイトの心を命綱として手繰り寄せる。

 カイトの脇に立つ。

 短く息を吸う。

 目覚めたばかりでまだ十分には使いこなせていない力を、意識する。栗色の瞳が強い光を放つ。

 カイトは、闇の神の圧力が弱まるのを感じた。

 フウの力を感じた。

 さらに、フウとは反対側、右手側に誰かが、マルタが立った。唇を細かく震わせ、青白く血の気が引いた顔で、それでもマルタは、フウの力に自分の力を乗せた。

 闇の神の圧力が押し返される。

「いい子ね、マルタ」

 冴えた声を響かせ、マルタの背中にフランがそっと手を添える。

「申し訳ありません、閣下。身の程を知らないこの子たちに、あたしも加わらさせて頂きますわ」

 フランの力は弱い。

 だが、彼女の意志の力が、カイトを、妹たちを守るように前へと出た。

 表情のない白い顔の裏で、惑乱の君は笑っている。


 これだから人は面白い。


 と。

 陽の光より眩しく、それでいて柔らかな光が歩み寄って来る。

 御座の間を明るく照らし出す。

 少年神の姿のまま、惑乱の君に対抗するように3m近い長身となって、雷神がカイトの前に立つ。

 雷神の傍らには、姫巫女が従っている。

「森の子よ。そなたの矢は我が身を貫き、我が力を巻き込んで、彼の者を討つであろう」

 と、雷神は告げた。

 雷神の身体は薄く透けており、神の立つ足元には影がなかった。

「そなたが必要と思えば、躊躇うことはない。矢を射るが良い」

「うん」

「下がれ、惑乱!ここは我が神殿、お前の居場所はここにはない!ここから、否!わが国より、今すぐ立ち去るがいい!」

 雷神の声が雷鳴となって空気を、御座の間そのものを震わせる。

 相変わらず表情のない顔で、惑乱の君は笑っている。


 言うではないか、雷神。

 さて。もし、私がここで討たれれば、私の代わりは、--闇の神々の務めは、貴女が果たしてくれるのか?姉上。


 と、惑乱の君は問うた。


 カイトは気づいていない。

 フウもマルタも。フランも。もちろん、姫巫女もだ。

 雷神は当然、気づいているだろう。

 御座の間に続く扉の向こう側の暗がり。

 そこに二柱の神がいる。

 額に第三の目を開いた黒豹--平原公主と、口元に薄く笑みを浮かべ、青く波打つ瞳を狂気と混乱を司る神にひたと向けた、泉の神--狂泉である。


 良いぞ。わらわが務めても。


 狂泉が声に笑いを含んで応じる。


 随分とやっかいな者を連れて来たな、姉上。


 惑乱の声にも冷たい笑いが混じる。


 ここにいるのが最も相応しい者だ、そうは思わぬか?


 御座の間にはもう一人、少年がいる。雷神の前に。

 生きた者ではない。

 死霊だ。

 少年の手に指はない。全て切り落とされている。まだ大人に成りきれていない身体には、幾つもの炎が竜となって纏いついている。

 大きく見開かれた瞳には憤怒の火が灯り、強い意志を湛えた唇は固く閉じられている。

 闇の神に怯むことなく、弓を番えた幼馴染を、カイトを守っている。


 あの矢か。


 カイトが手にした矢。


 あれを依り代としたか。


 雷神がカイトの前に立ったのも、おそらくは少年の姿をカイトの目から隠すためだ。浅ましい姿を見せたくはないであろう少年の為に。

 もし、森の子が矢を放てば。

 と、闇の神は思う。

 元々少年のものだった矢は、雷神の力を巻き込み、少年そのものの想いを乗せて己を撃ち抜くだろう。

 知識欲が闇の神を揺らす。

 あの矢をこの身に受ければどうなるか。と、心を揺らす。

 人の想いほど厄介なものはない。

 治癒の術にかけられたブランカの呪いがよい例だ。数千人の人々の恨みの念が、今も治癒の術を使う術者を殺し続けている。

 さすがに死ぬことはない。

 おそらくは。

 だが、しばらくは動けなくなるだろう。


 ああ。それも悪くない。


 と思う。

 時が近づいている。

 ここで矢に射抜かれれば、何より肝心なその時を、もしかすると身動きができないまま迎えることになるかも知れない。

 闇の神が嗤う。


 それは許されないな。


「いいだろう」

 闇の神から漂っていた冷気が、波が引くようにざわざわと下がっていく。「我が最愛の妹であるフランに免じて、ここは引くとしよう、森の子よ」

 と、フランを口実に使う。

「二度とキャナを訪れることはないと約すがいい!」

 鞭で打つように鋭く叫んだカイトに、闇の神の低い笑い声が応える。

「それはできぬよ、森の娘よ。何故ならば、人が我を呼ぷからだ。我から来るのではなく、な。

 ターシャを見るがいい。

 フランが仲介をしたが、ターシャを我が信徒としたのは、ターシャが我を望んだからだ。

 いずれはターシャもキャナに戻るだろう。我が信徒がいるのだ。キャナと全く関わらぬということはできぬだろう」

「伯爵様--」

「だが、しばらくは関わらぬと約束しよう。必ずしもとは言えぬが、我に矢を向けた、そなたの無謀さに免じて、な」

 惑乱の君がフランに二つ穴の瞳を向ける。

「フラン、それでは、また会おう」

「はい。閣下」

 惑乱の君の顔と手が小さく離れて行き、闇に溶ける。そして闇そのものも、一点に吸い込まれるように渦を巻き、消えた。

 カイトが矢を下ろす。

 フウが小さく吐息を落とし、マルタがぺたりと座りこむ。「大丈夫?マルタ」フランに問われ、マルタは「はい」と頷き、緊張感から解き放たれたからだろう、喉を詰まらせ、嗚咽した。「よく頑張ったわね」マルタがすすり泣きながら首を振る。

「カイト、あなたは無茶し過ぎよ」

「うん」

 手にした矢を見下ろしてカイトが頷く。フォンの矢だったのかと、今更ながらに気づく。微かに指が震えている。

「……怖くなった」

 小さく呟く。

「今?」

「うん。でも」

 カイトがフウに顔を向ける。

「フウがいてくれた。マルタさんも、フランも。それに、ニーナもロロも。ハルも」

 矢筒にはフランが返してくれたニーナとロロの矢がある。

 腰にはハルと交換した山刀がある。

 そして手にしているのは、フォンの矢だ。ありがとう、フォン。言葉に出すことなく礼を言って、矢筒に矢を戻す。

「みんな、わたしといてくれたわ」

「うん」

 フウが頷き、カイトがフランに顔を向ける。

「ごめん、フラン。助かった」

 フランが笑う。

「予言が実現したってところかしら」

「予言って?」

「『森から訪れし者が、南の国々に秩序をもたらす』ってあれ。狂気と混乱を司る御方を、あなたが追い払っちゃったでしょ」

 カイトが首を振る。

「わたしだけじゃない」

「いいえ、あなたよ、カイト」

 と、フランが言う。

「あなたが最初の一歩を踏み出さなければ、フウは前に出れなかったわ。マルタも。もちろんあたしもよ。雷神だってそう。人であるあなたが前に出たから、雷神も闇の神と対峙できたのよ。

 あなたが、闇の神を祓ったのよ。予言が成就したの。

 そうでしょう?雷神」

「--そうだな」

「じゃあ、カイト、もう少しあたしにつき合って貰えるかしら」

「つき合うって、どこへ行くの?」

「迷宮大都よ。キャナを支配している一ツ神の水先人、モルドに会いに行くのよ」



 カイトやフランの声が御座の間から遠ざかっていく。レナも見送りに行った。

 一人だけになったのを見計らって、雷神は、「まだ何か用か?惑乱」と、御座に背中を向けたまま訊いた。

「ここに来た本来の目的を果たす前に、森の娘に邪魔されたからな」

 中性的な声が響く。

 空間から染み出すように、御座の前に惑乱の君が現れる。

「何だ、それは」

「お前に質問がある」

 雷神が振り返る。

「いいだろう。だが、ここは仮にも光の最高神である、オレの神殿だ。せめて、表のお前に代われ」

 闇の神が笑う。

「それもそうだな」

 闇の神が反転する。光が外側から闇を包み一点へと収束する。光は白いローブとなり、厚みを増して、白いローブを纏った一柱の神となった。

 だが、フードの中に顔はない。

 ただの中空しかない。

 知恵の神、エアである。

「相変わらず、どちらが表か、判らないな」

 雷神が言う。

「それで、お前が訊きたいことというのは、何だ」

「雷神、お前は、フランを殺さなかったのか?それとも、殺そうとして、殺せなかったのか?どっちだ?」

 と、金属がこすれるような声で、知恵の神は訊いた。

「そんな下らないことを訊くために、こんなことをしたのか?」

「下らぬことではない。大事なことだ。よいか、雷神」

 知恵の神が萎びた細い指を雷神に向ける。

「フランは何故、記憶を失わぬ。世界が滅んだ後にも。世界が滅ぶというのに、何故、フランの記憶は失われぬ。フランに術を施した母上は、いったいどこにフランの記憶を残しているのだ?世界が滅んだ後、新しい母上が過去に飛び、世界はループしているとフランは我らに教えた。

 だが、新しく始まる時間に、フランの記憶はどうやって運ばれているのだ?

 フランの記憶で最も重要なのは、フランが記憶している内容ではない。どうやってそれを実現しているかだ。

 それを知ることが、真実に繋がっているのだ」

「真実……か」

「改めて問おう。お前は、フランを殺さなかったのか?それとも、殺そうとして、殺せなかったのか?」

 雷神が笑う。

「母上が成そうとして成せなかったことを、オレが出来るなどと、思い上がりだった」

「それが答えか」

「ああ」

「お前でも、フランの本質には、届かなかったのか」

「そうだ」

 中空である白いローブの下で、知恵の神が失望を漂わせる。

「やはり、回答者が現れるのを待つばかり、か」

「何を言っている。お前が造るのだろう、回答者を」

 知恵の神が嗤う。

「そうでもあり。そうでもなし。我はただ--、いや、お前に言ってもムダなだけだ」

 知恵の神が背中を向ける。

「--おい」

 姿を消そうとした知恵の神に、雷神が声をかける。

「なんだ」

「今度のことは貸しひとつだ。忘れるなよ。知恵の」

「憶えておこう」

 知恵の神の姿が風に溶ける。消える。そこへレナが戻ってきた。レナは足を止め、訝し気に周囲へ視線を走らせた。

「どなたか、いらっしゃったのですか?」

「いや」

 雷神が首を振る。

「誰もいないさ。

 フランたちは行ったか?」

「はい」

「では、我が信徒たちに、わたしが戻ったことを知らせるとしよう。闇の神は森の子によって打ち払われたと。

 いくさはもう、終わりにしよう、と」

 レナは、主をずっと見てきた。

 姫巫女として仕え始めてからずっと。近くで。

 だが、今日の雷神は、いつもの主とは少し違って見えた。幼さを残した横顔が、どこか大人っぽく見えた。

「はい」

 と大きく頷き、姫巫女は優しく微笑んだ。

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