28-5(秩序をもたらす者5(遠雷庭1))
まさか、と雷神の姫巫女であるレナは、読んでいた書物から顔を上げた。
彼女がいるのは、神殿の図書室だ。
神殿の扉が叩かれていた。気の迷いではない。「姫巫女様!」と、呼ぶ声もする。
雷神の本神殿だ。神殿は広い。逸る心を抑えながら駆けつけ、扉を開くと、見たことのない赤い髪の少女が微笑んでいた。
まだ若い。
だが、歳が判り難い。
何故か、自分より年上ではないかと、レナは思った。
「魔術師様--、ですね」
フランが微笑み、軽く膝を折る。
「わざわざ姫巫女さま自らお出迎えとは、恐れ入ります。
ところで、わたくしの名を聞いてはならぬと、今日は雷神様に申しつけられてはいませんよね?」
と笑ってから、
「ふたつ名がありますが、フラン、とお呼び下さい」
と、フランは名乗った。
レナが明るく微笑む。
「承知いたしました、フラン様。わたくしのことは、レナとお呼び下さい。後ろのお連れの方々も、ご紹介いただけますか?」
「わたくしの妹の、マルタとフウ、それと、わたくしをここまで連れて来た、森人のカイトです」
「よろしくお願いいたします、皆さま」
たおやかに姫巫女が膝を折る。
「どうぞこちらへ」
レナが先に立ち、神殿の奥へと進む。レナとフランの足音が響く。二人の足音だけが、静まり返った神殿に。他の三人、カイトとフウ、マルタは、意識することなく足音を殺している。
「主よ。フラン様が訪ねて来られました」
堅く閉じた両開きの巨大な扉の前で、レナが言う。
返事はない。
姫巫女と視線を交わし、フランは扉を押した。開く。「わたくしだけ入らせて頂いても宜しいですか?」
「はい」
フランの問いに姫巫女が頷き、脇に避ける。僅かに開いた扉の隙間から、フランはするりと御座の間に入った。
誰もいない。
フランは空っぽの御座へと近づき、後ろを覗き込んだ。
「いつまで拗ねているの、雷神」
からかうような軽い口調で話しかける。
最高神は、親に叱られた子供のように、御座を背に膝を抱えて座っていた。
「うるさい」
幼さの残る透き通った声で雷神が答える。顔は膝に埋めたままだ。
「悪かったと思っているわ。あの子が死んでしまうなんて、あたしも思わなかったもの。ごめんね、雷神」
「謝るな」
「許してくれるの?」
「謝るなんて、お前らしくない」
「そうね」
フランが笑う。
「あなたの信者が待ってるわ。早く帰って来て下さいって。扉を閉じてはいても、祈りは届いているでしょう?」
「……」
「お母さまに謝りに行きましょう。あたしと一緒に。兄妹ゲンカばかりしてごめんなさいって。
お母さまも、言い過ぎたって反省されているわ」
「母上を悲しませた。--今更、会いになど行けない」
「あたしの為だったんでしょう?」
「……」
「お母さまも判ってる。判ってて、でも、いいえ、だから、お怒りになられたのよ。お母さまはご自分を責めて、それであなたに厳しい言葉をぶつけてしまわれたのよ。
お母さまも後悔されてるわ。
だから、お母さまに会いに行きましょう、雷神。
ふたりで。
お母さまを苦しませたままにしておくなんて、あたしは嫌だわ」
「……オレも、嫌だ」
「会いたいんでしょう?お母さまに」
小さく雷神が頷く。
「会いたい」
と、呟く。
「お母さまも会いたがっているわ。あなたに」
「--本当か?」
「出来の悪い子ほど可愛いって言うでしょう?」
軽く笑ってフランが言う。
膝を抱えた雷神の前へとフランが回り込む。
「愛しているわ、雷神。お母さまに叱られるかもしれないと知って、それでも、あたしを楽にしようとしてくれて。
あなたのこと、兄というより弟みたいって、いつも思っていたけれど、あたしのこと、心配してくれていたのね」
「当たり前だ」
雷神が顔を上げる。
「お前を愛している。--いつか、オレもお前を残して行く。そう思うと、辛くて辛くて堪らない」
フランが微笑む。
「ありがとう、雷神」
フランが雷神に手を差し出す。雷神はためらいながら、しっかりとフランの柔らかな手を取った。
『まあ!』
声なき声が漏れた。聞こえた。カイトが振り返る。マルタだ。顔が上気している。
『何てお可愛らしいのかしら!』
フランに手を取られて御座の後ろから現れた雷神のことである。
マルタの声を聞いたのはカイトだけではなかった。姫巫女であるレナも聞いた。レナはマルタを振り返り、マルタと視線を交わしてにこりと微笑んだ。
若い女に本妻が見せる余裕の笑みである。
お可愛らしいでしょう?
と、マルタに同意し、自慢し、満足している。
はい!
視線だけでマルタが応じる。
姫巫女様が羨ましすぎます!と、こちらも声にしなくとも通じた。
フウは、マルタと姫巫女のやり取りを見て、雷神へと視線を戻し、カイトをちらりと見上げて笑みを浮かべ、カイトの手を握った。
カイトが何事かとフウを見下ろす。
フウが笑う。
カイトはよく判っていない。
けれどフウが手を握ってきた、そのことがただ嬉しかったので、優しく握ってきたフウの手をカイトはそっと握り返した。
「はしたないわよ、マルタ。
フウもね」
フランが笑い、雷神が姫巫女に歩み寄り、「心配をかけたな、レナ」と労う。「いいえ」と温かな笑みを浮かべてレナが首を振り、さらに主に向かって言葉を続けようと口を開きかける。
「相変わらず妹たちに受けがいいね、雷神」
ざらざらとした不快な声が響いたのは、その時である。




