27-3(旧ロア城の戦いの裏で3(嘘つきたち))
カザンは自宅のリビングで、ペルの声を受け取った。思わず立ち上がり、そのまま立ち竦んだ。
ずっとペルの傍に仕えてきた。
ペルが英邁王を愛していることは、心を読むことはできなくても、知っている。
「ペル様」
カザンは顔を伏せ、言葉もなく、涙を流した。
ターシャもまた、彼の屋敷のリビングにいた。リビングにいて、古びた書物を広げていた。
リビングに続く庭からはヌーヌーの笑い声が聞こえる。
小さく吐息を落とし、ターシャは読書を続けた。
「英邁王様!」
薄ら笑いを浮かべてペルの後姿を見つめていたアマン・ルーが叫ぶ。ゴツンッと大きな音が響く。王が倒れる。動かない。怒りを宿した目は大きく開かれたまま、光を失っている。
「誰か!誰か、医師を!」
アマン・ルーの叫び声を聞きながら、ペルは振り返った。
倒れた王を見、玉座に歩み寄る。
震える手を伸ばし、倒れた王の傍らにしゃがみ込む。
呼吸が止まっている。
まるでずっと前に死んだかのように。
「アスタス?」
久しく呼んだことのない子の名を口にする。答えはない。もちろん。英邁王は動かない。返事をしない。死んでいる。
涙にペルの視界が歪み、ペルは王の身体に縋った。
ペルの悲嘆に溢れた泣き声が、広間に響いた。
ペルはひたすら激しく泣いた。身体を震わせ、泣いた。
夫が死んだ時よりも、長子である薫風王が死んだ時よりも感情の抑制ができなかった。腹の奥から噴き出した真っ黒い絶望が奔流となって心臓を食い破り、涙が後から後から止まることなく溢れた。
ここが朝議を行う広間なのも、他の人々の目も忘れた。
群臣が静まる。
広間にペルの泣き声だけが響く。
「なんだ。なんだ、これは」
呆然とアマン・ルーが呟く。
彼女は気味が悪かった。激しく泣くペルが理解できなかった。同じ言葉がぐるぐると彼女の中で渦を巻いている。彼女は確信している。
殺した。
王太后が、王を殺した。
と。
それなのに、何故、この女はこんなに泣けるのか。群臣も判っている筈だと思う。王太后が王を、我が子を、殺したのだと。
だが、静まり返った群臣に、人殺しを責める気配はない。むしろ、泣き続ける王太后を見守る群臣の間には、厳粛さと畏敬の念がある。
「なんだ、この、茶番は--」
「王!」
玉座に近い、王族しか使うことを許されない入り口から、一人の若い女が現れる。
王に走り寄る。
王の妃である、カリナ姫である。
ペルが顔を上げる。「カリナ姫。申し訳ありません」王の頬に手を添えたまま、いつもより高い、涙の混じった声でペルが言う。
「王は、王は、死んでしまいました」
「おお」
悲嘆の声を上げ、カリナ姫が王に縋る。ペルと同じように泣く。
「殺した!」
叫び声が響いた。アマン・ルーの叫びだ。思わず声が出た。気持ち悪さに耐えられなかった。吐き気がした。
「王太后が、王を殺した!それなのに、それなのに……!」
「無礼者!」
鋭く声を放ったのは、カリナ姫である。
「王太后様に向かって何という口の利きようか!黙りなさい!アマン・ルー宰相!」
「急に倒れられた!魔術を使って王太后が英邁王様を殺したのです!カリナ姫様!ご自分の意見が入れられないために!
そうとしか考えられない!」
カリナ姫が視線を向けたのは、朝議に参加していた海神の神官である。
問われる前に、海神の神官は首を振った。
「魔術は使われておりません。わたしが保証いたします」
「お前に判らないだけだ!」
我を忘れて見苦しくアマン・ルーが叫ぶ。王を失ったことの意味を、恐れと共に彼女も理解し始めている。
王の権威に頼っていた彼女の立場が、足元から崩れ落ちている。
「王太后は、お前などよりずっと優れた魔術師だ!もっとしっかり調べろ!」
「畏れながら、申し上げます」
群臣の末席にいた男が声を上げる。
アマン・ルーが手なずけている貴族の男だった。
アマン・ルーの顔に喜色が浮かぶ。彼女は、男が当然、自分にとって都合のいいことを言うと思っていた。
だから、アマン・ルーは男に発言を許した。
「何か。ガルスト公」
しかし、ガルスト公と呼ばれた男は、
「王太后様がおっしゃられた通り、もし、本当にキャナが我が国に攻め寄せて来たのならば、今は危急存亡の時。王を不在とすることは許されません。
カリナ姫様。
どうか、クスルクスル王国の王位におつき下さいますよう、お願い申し上げます」
と、言った。
「な」
アマン・ルーが絶句する。
彼女を無視して、他の群臣もまた、賛同の声を上げた。
「おお、そうだ」「どうか、カリナ姫様」「王位に」「玉座にお座り下さい」と、口々に言う。
涙の跡を残したまま、ペルが群臣からカリナ姫に顔を向ける。
「わたくしからもお願い致します、カリナ姫。
残念ながら、英邁王は王太子を立てていません。妃であるカリナ姫が王位につかれるのが、筋となりましょう。
群臣一同の総意です。
どうか、玉座にお座り下さい」
「宜しいのですか、養母上」
「姫が玉座に座られることが、クスルクスル王国にとって最上となるでしょう」
カリナ姫が目を閉じる。「判りました」と、頷く。「経験もない若輩者ではありますが、養母上や皆が望むのであれば、そう致しましょう」
英邁王に視線を落とす。
「英邁王様。お許し頂けますか?」
物言わぬ夫に確認する。
「失礼、失礼いたします!」と、息を切らせて広間に駆け込んできたのは、王宮に勤める医師である。ペルとカリナ姫が脇に避ける。王の脈を取り、瞳孔の反応を調べ、医師は首を振った。
「亡くなられています。もう、手の施しようは--」
「何故だ!」
アマン・ルーが叫ぶ。
「先程までお元気だった!それが、何故、こんなことに!」
「王を、御寝所に」
カリナ姫が命じる。
「神殿にいらっしゃるタツタ姫様にもお知らせを。
ところで、先程キャナが我が国に攻め寄せて来たとガルスト公が言われていましたが、本当のことですか、養母上」
「残念ながら本当のことです、王よ」
カリナ姫が頷く。
「そうであれば、今はまず、朝議を続けましょう」
「何を言われる!」
叫んだのは、アマン・ルーだ。
「こんな時に、朝議とは!それよりも、王太后を捕らえるべきです!王の死の真相を、明らかにするべきです!」
「衛兵!」
カリナ姫が衛兵を呼ぶ。
「宰相を捕らえよ!」
「なっ」
「王太后様に対する数々の無礼!許しかねる!今すぐここから立ち去らせよ!」
しゃがみ込んでいた衛兵が、「は、はい!」と、立ち上がり、アマン・ルーに駆け寄って両側から腕を掴む。
「放せ!放しなさい!わたしを誰だと……!」
「アマン・ルー宰相。貴女には、貴女が一ツ神の信徒だという疑惑もある」
冷ややかにカリナ姫が言う。
「キャナと通じているという疑惑も。後ほど、厳しく詮議することになるでしょう」
「ち、違う、わたしは--」
衛兵がアマン・ルーを引き摺って行く。
「では、養母上、詳しく話をお聞かせ頂けますか--」
広間の扉がアマン・ルーの背後で閉じられ、カリナ姫の声が、途切れた。
朝議の後、英邁王の死は正式に発表された。
カリナ姫が王位を継いだことや、キャナがトワ郡に攻め寄せ、ペルを最高司令官として軍を派遣することもだ。期間を定めないまま王家が喪に服すことも発表され、喪が明ければ、カリナ姫が薫風王の子を夫とすることも発表された。
薫風王の子は王位継承権を放棄することを宣言した。
クスルクスル王国のいち市民として、夫としてカリナ姫を支えることを宣言したのである。
そうしたこともあり、アマン・ルーの入れられた牢屋をペルが訪ねたのは、夕刻になってからだった。
牢とはいえ、王宮にある牢である。
収容される者は身分の高い者であることが多い。牢内には、細やかな飾りの施された机や椅子、柔らかなベッドまで置かれていた。
ベッドに座ったまま、ペルの姿を認め、
「何の用だ、人殺し」
と、アマン・ルーは牢の格子越しに、憎しみを込めて吐き捨てた。
「貴女の覚悟を確かめに来ました」
と、ペルは答えた。
「何を言っている」
鼻で笑ったアマン・ルーに、ペルは、「来ることはないでしょう」と、まるで関係のないことを告げた。
「何が、来ないって?」
「貴女がいま、心に思い浮かべた援軍のことです。大平原の国々で構成された、一ツ神の組織のことです」
アマン・ルーが目を見開く。
その彼女を、ペルは栗色の瞳の奥に赤い光を瞬かせて、見守っている。
「そんなものはどこにも存在しません」
「な、」
「貴女に何かあった時に、あちらの組織に届く筈だった手紙は、ここにあります」
ペルが一通の手紙を取り出す。
「ファリファ王国の方々とは、密に連絡を取り合ってきました。あなたに、この詐欺がバレないように」
「さ、詐欺?」
「貴女がファリファ王国に送っていた資金は、必要経費を除いて、返却して頂けることになっています。人を騙している者は、自分が騙されているとは気づかないものです。ファリファ王国に一ツ神の組織が復活したというのは、すべて、貴女に時間を無駄にして貰う為の偽りです。
貴女が手紙を送っていた相手は、わたしの手の者ですよ。アマン・ルー」
少し嘘を混ぜる。実際にはペルの手の者ではなく、アマン・ルーが手紙を送っていたのは、ターシャが駒とした男である。
「宮廷に巣くった一ツ神の信徒も全員、捕らえました。海都クスルの一ツ神の信徒も、今頃はカザン将軍の手で余さず捕らえられていることでしょう。
残ったのは、貴女、一人--。
あら?」
ペルの顔に意外の表情が浮かぶ。
「本当に貴女は、一ツ神の信徒ではないのですね」
と、言う。
「な、何?」
「意外でした。貴女は一ツ神の信徒だとわたしも思っていました。そうですか。一ツ神の信徒も、あなたにとっては道具だったということなのですね」
アマン・ルーがごくりっと喉を鳴らす。
「お、お、お前、は……」
クスルクスルの魔女。
世迷言と思って信じていなかった言葉が、アマン・ルーの心で恐怖と共に渦巻く。
乱れたアマン・ルーの心に、ペルは探していた物を見つけた。
「イコ」
と、ペルは、アマン・ルーを本当の名前で呼んだ。
「いい名ですね。何故、その名を捨てたのですか?」
まるで友人ででもあるかのように親しみを込めてペルが問う。
「違う!」
牢にしがみつき、アマン・ルーが大声で叫ぶ。
「わたしを、わたしをその名で呼ぶな!わたしは、アマン・ルー。ルー一族の末裔だ!」
「そんなことはあり得ないのですよ、イコ」
静かな声でペルが否定する。
「何故なら、虚言王様がルー一族からクスル王国の王位を譲られたという話は、まったくのでっち上げなのですから」
アマン・ルーが絶句する。
「堅実王様が笑いながら教えて下さいました。ルー一族の話は、堅実王様がお考えになったと。父上--虚言王様では、ちょっとばっかし権威が足りなかったからと。ワシが真面目一本やりの男ではないと判ったか、魔術師殿?と、楽しそうに」
ペルがアマン・ルーの心を探る。
探り続ける。
「貧困がどういうものか、わたしも知っています」
ペルが生まれたのも、国は違うが、貧民街だ。生きる。必死にあがいて、ただ、それだけしかできない。何日も続く空腹。リンリンもいた。二人だけだった。
だから、
「貴女の努力は、敬服に値します」
本当にそう思う。
「ところで、貴女に初めて世界を教えてくれた、貴女が先生と呼ぶその人は、わたしの友人です。知っていましたか?」
「なっ?」
「宮廷での争いが嫌になり、姿を消したのです。そうですか。貧民街にいたのですね。
ああ、貴女に社会の仕組みを教えてくれたその人も知っています。かつては、”寄宿舎”の一員でした。とても優秀な。
わたしも夫も貧困をなくしたかった。だから、貧民街を解体するべきかと、調べたことがあるのです。その時に知り合いました。彼は、貧民街は必然的に生まれたものだと教えてくれました。人が生きるために寄り集まり、それが貧民街になったのだと。貧民街が貧困を生んでいるのではない、逆だと。もし、貧民街を解体しても別の多くの貧民街ができるだけだと。
いまよりも酷いことになるだけだと。
だから、わたしたちは、貧民街を残し、彼のような人を通じて密かに援助していくことにしたのです」
「援助、だと……」
アマン・ルーが一ツ神の信徒とどうやって繋がったか、その情報も、ペルはアマン・ルーの心に見つけた。
「一ツ神のことを知り、これから彼らの時代が来ると見定めて、たった一人でモルドに会いに迷宮大都まで行くとは」
まだ平凡王が在位中のことだ。
「貴女には、行動力だけでなく、先見性もある」
もし別の出会い方をしていれば、心強い味方になってくれただろう。カザンやカン、ムラドのように。
「しかし、なぜ、名を捨てる必要があったのですか?」
アマン・ルーは答えない。
「犯罪を隠すためですか?しかし、貴女の犯した犯罪は些細なものです。気にする必要などなかったでしょう。
それとも、とにかく過去を無かったことにしたかったのですか?」
「黙れ」
「それと、何故--」
「黙れっ!」
ペルは止めない。
「貴女は、貴女の母上の話を信じているのですか?」
「……!」
「なるほど、貴女は母上を殺してはいない。しかし、病で死にかけていた母上を黙って死なせた。医師に見せることもなく。死んでいくまま放置した。
それほど憎み、蔑み、母上が亡くなられて、これでようやく自由になれたとしか感じなかった貴女が、何故、自分たちはルー一族の末裔だと言った、余りにも判り切った嘘を、--その嘘だけを、信じたのですか?」
「違う!違う!違う!違う!違う!ウソじゃない!あたしは、ルー一族の末裔だ!」
「違います。貴女は、イコ。
貴女は、ルー一族の末裔ではありません」
冷たくペルが言う。
「しかし、英邁王は幸せだったかも知れません。
貴方に出会えて、夢を見られた。国民、皆に愛される王という夢を。
イコ。
あの子も王家の一員です。ですから、当然知っていたのです。ルー一族の話がでっち上げだと。貴女が、ルー一族の末裔などではあり得ないと」
「……英邁王様が、ご存知、だった……?」
「ええ」
ペルが門番を振り返る。
「牢を開けなさい」
と、命じる。
門番が頷くことなく鍵を外し、扉を開く。後ろに下がる。
「イコ。ここに閉じ込められるべきは、アマン・ルーという名の宰相です。貴女ではありません」
「なっ」
「誰も貴女がここから出て行くのを止めることはないでしょう。
貴女は、これからはルー一族の末裔としてではなく、イコという名のいち市民として生きていくのです。
その方が、貴女は幸せになれるでしょう」
ペルが背中を向ける。
「もう貴女に会うことはないでしょう。では、さようなら。イコ」
ペルに続いて、門番もまた牢の前から姿を消した。
牢の扉は開いたままだ。
「違う、わたしは、わたしは」
独り残され、ぶつぶつと呟いていたアマン・ルーは、血走った、焦点の定まらぬ瞳で、開け放たれたままの扉を見た。
「ペル様。アマン・ルー宰相が、牢で首を吊って亡くなられたそうです」
ペルに報告したのは、ララである。
「そう」
ペルが頷く。
「彼女は、彼女の嘘をつき通したのね」小さく呟く。
わたしも嘘つきとして生きていくのだろう。と、ペルは思う。いい母親だったという嘘と、決して許されることのないこの罪と共に。
「行きましょう、ララ。カザン将軍が待ちくたびれているわ」
「はい」
「姉さま」
まなざしだけでリンリンが問う。
本当に大丈夫ですか?
ペルはリンリンに向かって微笑んだ。
「大丈夫。わたしは、大丈夫よ」
足元の大地の存在がいつもよりも強く感じられる。普段なら意識することのない大地を、はっきりと踏んでいると判る。
ふと思う。
これは、わたしの罪の重さゆえか--
誰かがそっと肩に触れた気がした。励ますように。とても懐かしい手で。
「行きましょう。リンリン」
ペルが足を踏み出す。リンリンとララが続く。顔を上げ、ペルが踏み出した一歩は、彼女自身が驚くほど力強く確かだった。