27-1(旧ロア城の戦いの裏で1)
「レナン!」
ライが振り返り、太鼓の音にも負けない大声で叫ぶ。
「勝鬨だ!」
「あ」
レナンが我に返る。周囲を見回す。キャナの兵が武器を捨てている。「おお」と頷き、改めて、レナンは自分を見つめる味方の兵士を、ラダイたちを見返した。
右手を突き上げる。
レナンたちの勝鬨に、他のクスルクスル王国軍の兵士の応える勝鬨が、いくさの開始を告げた雷竜の咆哮よりも大きく、天を覆った。
カイトはレナンたちから離れている。フウと二人で。そこへ、「フウ」と、知らない声が響いた。
カイトが驚いて振り返る。
気配がなかった。声をかけられる寸前まで、誰かが近づいてきていることに、気づかなかった。
「だれ」
「マルタ姉さまよ、カイト」
カイトの問いに答えたのは、フウである。
「え」
「もちろん本当の姉さまじゃないけど」
カイトの疑問を読み取って、フウが先回りする。
「どういうこと?」
「それは、フラン姉さまに説明してもらった方がいいと思うわ、フウ」
「はい、マルタ姉さま」
「フラン?」
「うん」
フウが頷く。
「フラン姉さま」
「えーと」
カイトは混乱している。
「フランが、フウを助けてくれたの?」
マルタは正直な娘だった。
フランや他の姉たちのように、シレッと、「そうよ」とは、まだ言えなかった。だから「そうね」と言葉を濁した。
結果的にウソではない。
だが、フランは最初、フウを助けようとしたのではない。新しい神を抑えるための人柱として、フウを捕らえようとしていたのである。
旧ロア城での戦いの日に、話は戻る。
マルタはフランと共に、旧ロア城近くの森の中にいた。フウをミユやクロから引き離したのは、フランだった。魔術でちょっとした幻をフウに見せたのである。ダウニは--気の毒なダウニは--、何故かフウが他の者と別行動を取ったために、フウを逃がさないよう、自分で始末しようとフウを追ったのである。
白い霧が森を漂っている。
魔術の霧だ。
ダウニが呼んだ霧だったが、フランは、「そう言えば、あの子、魔術の心得があったわね」と言った。
フランの声を聞きながら、マルタは、訝し気に顔を上げた。
「どうかしたの?」
「あ、いえ」
力を感じた。
一瞬。
それも、とても強い力を。
自分よりも強い。
遥かに。
だが、近くには、自分とフラン以外、娘たちは、いない筈だ--。
「今--」
「来たわよ、マルタ」
白い霧の中から、フウが現れる。マルタは眉をひそめた。フウの足元が定まっていない。栗色の瞳も、どこか焦点を失っている。
フウに声をかけようとして、フランは止めた。
違和感を感じた。
フウがフランを見る。
焦点が定まる。
栗色の瞳の奥で、赤い光が、強く輝く。
「フラン姉さま!」
マルタがフランに飛びつく。
心の内で叫ぶ。
この子、娘たちです!しかも、わたしより、ずっと力が強い!目覚めたばかりで!力の制御ができていません!
マルタがフランを引き倒す。力を放つ。フウの放った力を反らす。上へ。まともに正面から受けるには、力の差があり過ぎた。縺れ合ったままフランとマルタの身体がフランの影の中へと落ちる。マルタに飛びつかれて、フランも知った。力によって伝えられた情報は、瞬時に彼女のものとなっている。マルタに押し倒されるまま、マルタを連れて、フランは影の中へと逃げた。更に奥の影へと、更にその下へと、逃げる。
元はフランの影だった影が5つに分かれ、逃げる。
フウの前から。
それぞれ異なる方向へ。
そのうちのひとつが地面ごと弾け飛び、「ギャン!」と、妖魔が悲鳴を上げ、千々に引き裂かれた。
フウが周囲を見回す。
息が荒い。
激しい頭痛に顔をしかめ、頭を右手で押さえる。
ふらふらと身体を揺らしながら、フウは歩き始めた。自分がどこにいるか、どこに向かっているか。それさえ、フウは判っていなかった。
「マルタ、大丈夫?」
影から出て、フランは訊いた。
「はい。フラン姉さま」
息を乱してマルタが答える。
「あの子がどこにいるか、判る?」
フランの問いにマルタが顔を上げる。「ここから500mほど南にいます。思考が乱れていて、混乱しています。まだ、力に慣れていない。
強すぎる。
フラン姉さま、このままだと、あの子、壊れてしまいます!」
「遠いけれど」
フランの視線が南へと向かう。
呪を唱える。
眠りの縁にあるものを、より深い眠りへと沈める術だ。妖魔に場所を探らせ、フウの位置を特定し、--だが、「駄目だわ。興奮し過ぎてる」と、言う。
マルタが縋るようにフランを見つめている。
彼女の気持ちは、フランにも痛いほど判った。力がある。それは、フウが妹だということだ。
「このこと、知っていたわね。狂泉」
フランが呟く。
囮になっていた妖魔が逃げ戻ってくる。だが、多い。フランのではない妖魔が、2体いる。キュンキュンと悲し気に泣いて、フランにすり寄って来る。
「あら」
ダウニが使役していた妖魔である。
「あの子にやられたの?」
フランの問いに、フランにしか判らない言葉で妖魔が答える。
「いいわ。あたしの影の中にいなさい」
妖魔が飛び跳ねるようにフランの影に飛び込む。
『この為だったのかしら』
と、フランは思う。
『マルタが来たのは』
マルタは旧大陸の出だ。他国から隔絶された平原で狩猟を主として暮らしている一族の出だ。国らしい国はなく狂泉の森人と違って農耕すら行っていない人々の出だ。
狂泉の森人と違うのは、マルタたちが狩りで使うのが、弓ではないことだ。
「マルタ。あの子を眠らせることできる?あなたの吹き矢で」
「はい」
と、マルタは浅く力強く頷いた。
「もし、あなたがあの子に殺されたら、あたしがあの子を殺すわ」
と、フランは言った。
「だから、あたしに、一度に妹を二人も亡くさせるようなことをしないで。気をつけてね、マルタ」
と。
マルタは気配を殺し、フウを追った。
狩りを生活の生業としている。狂泉の森人と同じく、気配を消すのは、マルタにとって息をするより簡単なことだった。
マルタは下帯姿だ。
他には何も身に纏っていない、裸だ。
獲物を追うには、彼女には、衣服は邪魔でしかなかった。素足で大地を感じ、素肌で風を感じ、五感のすべてを使って周囲の状況を読み取り、獲物を追う。
自然と一体となる。
彼女の生まれ故郷ではみんなそうだ。
マルタが他の人々と異なっていたのは、そうと知る前に、娘たちの力を使っていたことだ。
マルタは獲物の心に忍び込み、獲物の視覚を、獲物の聴覚を、獲物の嗅覚を通じて、獲物の動きを読んだ。
それは、カイトが呼吸を読むのに似ていた。似てはいたが、カイトが外側から相手の心の動きを追うのと異なり、マルタは、内側から獲物の動きを追うのである。
いまもマルタは、フウの心を読んで忍び寄っている。
娘たちの力はフウの方が強い。
だが、力の使い方はマルタの方がよく知っている。経験がある。マルタはフウの乱れた心の下に潜んでいる。
マルタが足を止める。
フウが近づいて来るのを待つ。
マルタが愛用の吹き矢を構えた時、彼女はフウから1mしか離れていない茂みに潜んでいた。膝までしか高さがない茂みに巧みに隠れていた。
フウは気づかない。
狂泉の森人でありながら。
心が乱れ、思考が混乱しているからではなく、マルタが気づかせない。
マルタが鋭く吹き矢を飛ばす。
フウの首筋にマルタの吹き矢が刺さる。
やはりフウは気づかない。マルタが、フウの心の中にあって、首筋に突き刺さった吹き矢からフウの意識を逸らせている。
眠り薬の分量も確かだ。
フウがふらつく足取りで、数歩、歩く。
膝から崩れ落ちる。
マルタが支える。力を使って。そっとフウを横たえる。
フウの心からマルタは自分の心を抜いた。もう、フウには何も見えていない。眠っていると確信して。
だが、立ち上がり、歩み寄ったマルタを、フウが見た。
フウは瞼を閉じたままだ、しかし、マルタは見られたと思った。それも、上から。巨大なふたつの目に見下ろされた。ぞっと首筋の後ろの毛が逆立った。
「ギャンッ!」
フウとマルタの間に素早く滑り込んだ妖魔が、悲鳴を上げる。
マルタが後ろに引き倒される。フランがマルタの影の中に潜ませていた妖魔だ。マルタ自身の影の中へとマルタが落ちる。
どきどきと鳴る心臓の音を聞きながら、影の中に潜んで、マルタはフウの心を慎重に探った。何もない。今度こそ、完全にフウは眠っている。意識を失っている。
力も、感じない。
「ありがとう。もう、大丈夫」
影の中から浮き上がるようにマルタが現れる。
『大丈夫です。フラン姉さま』と、フランに心の中で報告する。
「大丈夫だった?マルタ」すぐにフランが森から現れ、マルタに声をかける。
「はい。フラン姉さまの妖魔に助けてもらいました」
「そう」
フランはフウの様子を確かめ、小さく呪を唱えた。乱れていたフウの息が鎮まっていく。さらに深く眠りの中に沈める。
「この子、どうするんですか?フラン姉さま」
「ショナに連れて行くわ。まだ力が不安定だから、しばらくはお母さまの手許に置いていた方が良いから」
「でも--」
ショナは遠い。
「まず、狂泉の森まで運ぶわ」
フランが呪を唱える。空気が揺らめく。獣の臭いが辺りを覆う。飛竜だ。マルタを見下ろして喉の奥で唸る。マルタがフウを追っている間にフランが呼んだ飛竜である。
「狂泉の森まで運んで、後は狂泉にショナまで連れて行って貰うわ。この子のこと、あたしにも黙っていたんだから責任を取って貰わないとね。
少しここで待っててもらえるかしら」
すぐに戻るわ。
と、フランはフウを己の影の中に仕舞い、慣れた様子で飛竜を舞い上がらせた。
フランの操る飛竜のすぐ横に狂泉が現れたのは、狂泉の森が眼下に広がり始めた辺りである。
「何を急いでおるのじゃ?フラン」
と、狂泉は素知らぬ顔で尋ねた。
「知っていたわね。狂泉」
軽い怒りを込めたフランの問いに、「むろん。我が信徒じゃからな」と、狂泉は答えた。
「それよりも、フラン。お前が我が信徒を余りに深く眠らせすぎたが故に、新しく生まれた小僧が見境なく暴れておるぞ。
姫巫女を見失ってな」
「あら」
「その娘をわらわに寄こせ。姫巫女はここにおると教えてやろう」
フランの影から妖魔が大事にフウを抱き上げ、狂泉に渡す。愛おしむように狂泉がフウを抱きかかえ、南へと視線を向ける。「やはりまだ、若いの。--気づくのが遅いわ」と、笑う。
「この者は、母上のところへ連れて行けば良いのじゃな」
「ええ。お願いするわ」
「何の。久しぶりに母上にお会いできる口実ができたからの。楽しみじゃ」
フウを抱いた狂泉の姿が消える。
戻ったフランを出迎えたマルタは、腕の中に何かを抱いていた。
「まあ」
フランが目を細める。
マルタの腕の中で、まだ幼い子トラが、ニャーと鳴いた。新しい神である。
「どうしてここにいらっしゃるのですか?」
「あのカイトという森の子に射られて、わたしのところに逃げて来られたようです」
新しい神に代わってマルタが答える。
子トラ姿の新しい神はフランに喉を撫でられてゴロゴロと甘えている。
「怖いもの知らずねぇ、カイトも」
フランはふと、新しい神の額に、何か小さなものが刺さっていることに気づいた。
「ちょっと我慢して下さいね」
フランの影から妖魔の手が新しい神の額に伸びる。幾つもの目が妖魔の手に開く。数えきれないほどの目で妖魔が新しい神の額を凝視する。妖魔の手が伸びる先から、更に小さい手が伸びる。そこから更に小さい手がふたつ伸び、新しい神の額に刺さった小さなトゲを慎重に掴み、素早く抜く。
妖魔が掴んだトゲは、妖魔に抜かれると、ボンッと、大きな2本の矢に変わった。
「カイトの矢ね。後で返しておきましょう。それまで大事に仕舞っておいて貰える?」
矢を手にしたまま、妖魔が頷き、フランの影へと戻る。
「フラン姉さま、フウは?」
「狂泉に預けて来たわ。もう、ショナに、お母さまのところに着いている筈よ」
「あの、それと」
「なに?どうかしたの?」
「おそらく、この方が」腕の中の新しい神のことだ。「いらっしゃるからかと思いますが、声が聞こえます。多分、とても遠くから。本来なら、わたしの力では聞こえないぐらい遠くから」
「誰の?」
マルタが首を振る。
「判りません。ですが、フラン姉さまを呼んでいます」
「聞かせてもらえるかしら」
「はい」
フランがマルタの腕に触れる。
声がフランの心で響く。なるほど、遠い。声だと辛うじて判る。かたちになっていない。深い嘆きだ。哀しみだ。フランを呼んでいるということだったが、正確ではない。意識してフランを呼んでいるのではない。おそらくは無意識下で助けを求めている。誰かに。その誰かが、フランだ。
「--ペルね」
「ペル姉さま、ですか?」
ペルが家を出たのは何十年も前のことで、マルタはペルに会ったことはない。だが、名前だけは知っている。
「ええ」
フランはしばらく考えてから、マルタに向かって「平原。聞こえてる?」と言った。マルタは平原公主の信徒だ。信徒を通じて話しかけた。すぐにマルタの背後から、「何か用か?フラン」と、声が響いた。
ぎくりっとマルタが背筋を伸ばし、慌てて脇に避け、膝を折る。彼女の主に、平原公主の前に跪く。マルタの腕の中で、新しい神が、しゃーと声を上げる。平原公主が首を回し、三つの瞳で新しい神を睨み、がおっと一言、吠えた。
「しばらく会っていない妹が、あたしに助けを求めているわ」と、フランは言った。「悪いけれど、海都クスルまで、あたしたちを連れて行ってもらえないかしら?」
***
「我が信徒が気がつきましたぞ、母上」
低く太い声が響き、フウが薄く目を開く。見たことのない部屋。天井は低く、さほど広い部屋ではない。窓から陽の光が優しく差し込んでいる。
見知らぬ老女がフウを覗き込む。
「頭は痛くない、フウ?」
年経たしゃがれ声で老女が問う。いつかのペルのように。優しく微笑んで。
涙がフウの頬を伝う。
理由はない。
彼女の中の力が教えた。老女が何者か。
「お母さま……」
と、柔らかい枕に頭をうずめたまま、フウは囁いた。