26-13(キャナとのいくさ13(キャナとのいくさ3))
クスルクスル王国軍の前に、同じ規模の軍が展開している。ハラとイスール率いるキャナ軍の本隊である。
「流石だなぁ」
ジュニアが感嘆する。
「まったく見事なものだな」
カザンも頷く。
キャナ軍は静まり返っている。乱れがない。恐れもない。司令官の威令が隅々まで行き渡っているのが判る。
「だが、こちらも劣るものではないぞ」
「ええ」
クスルクスル王国軍もまた、静まっている。
冷たい水のようなペルの威令が、クスルクスル王国軍を濃密に柔らかく満たしている。
物見の報告では、キャナ軍はクスルクスル王国軍とほぼ同数だ。北へ回り込んだ別動隊が予想外に多い。
「ああ、やはり燃やしたか」
キャナ軍の背後で火の手が上がる。糧食を燃やしているのだ。後には引けないことを兵士に示すために。
彼らが生きるには、食べるためには、前へと進むしかない。
「ハラ殿とイスール殿には、洲国でのいくさの有り様を、一度ゆっくりと伺いたいものです。
きっと楽しいでしょう」
「早く戦いたいか?ジュニア」
「いいえ」
穏やかな声でジュニアが否定する。
「もし叶うことなら、いま直ぐにでもあちらの陣に赴き、このいくさを止めるべく交渉したいと思いますよ、父上。
旨い酒でも呑みながら。
そうすれば、兵が無益に死なずにすむ」
「そうはいかないだろうな」
キャナ軍はギシギシと音が聞こえそうなほど張りつめている。さながら引き絞られた弓だ。今にも放たれようとしている一群の無数の矢だ。
「はい」
キャナ軍の背後で立ち上る煙を見ながらジュニアが頷く。
「始めるとしましょう」
ジュニアとカザンが後ろを、ペルを振り返る。ペルが浅く頷き、ジュニアは本陣から、将兵たちの前へと進んだ。
将兵たちの視線がジュニアに集まる。
古くから知っている者もいる。タリ郡で初めて会った者もいる。
だが今は、すべての将兵の顔と名前をジュニアは知っている。知るべく努めてきた。ためらうことなく死地へと赴いてもらうために。死んでもらうために、だ。
短く息を吸う。
「クスルクスル王国の兵士たちよ!まず、本当のことを言おう!」
と、叫ぶ。
「キャナの軍は10年、戦い続けている!実戦を経験している!特にいま、目の前にいる軍は、洲国では負けを知らない!キャナ最強の軍だ!
だが!」
少し間を開ける。居並ぶ将兵たちを見回す。
「彼らはまだ、我らと戦ったことがない!だからこその不敗だ!
彼らはいつわりを言った!
洲国を討てば、軍を止めると!
なぜか!
我らを恐れたからだ!だからこそ、彼らはいつわりを口にしたのだ!
彼らは恥も知らぬ!
トワの姫のことは、諸君も知っているだろう!旧ロア城にたった200の兵で籠る彼らを、キャナは2万もの大軍で攻めた!たったひとりの女人を討つ、それだけの為にだ!
これを恥知らずと言わずして何と言おう!
クスルクスル王国の兵士たちよ!
平気でいつわりを口にし、恥を知らぬ彼らが、いま、我らが土地を犯している!我らの子を、未来を奪おうとしている!
クスルクスル王国の兵士たちよ!
我らの土地を、子を、守るために、背信者どもを打ち倒すのだ!」
兵士が喚声を上げる。
ジュニアも喉も裂けよとばかりに叫び声で応じる。
ペルが立ち上がる。
ジュニアが脇に下がる。
「クスルクスル王国の兵士たちよ!」
空気が震える。凛とした声が響き渡る。
「いざ、戦え!進め!我らが土地を、子を、守るために!」
クスルクスルの兵士が応じる。鬨の声を上げる。
キャナの軍からも鬨の声が上がり、人のではない、獣の甲高い叫び声が続く。飛竜が、キャナの竜騎兵がキャナ軍の背後から舞い上がり、それら全てを圧して、クスルクスル王国軍の背後、空の彼方から、太い叫び声が雷鳴となって世界を満たした。
「あれは」
キャナ軍の本陣で空に視線を向けて、呆然とハラが呟く。
クスルクスル王国軍の背後に暗雲がある。
稲光が走り、暗雲の中に潜む巨大な何かの姿を照らし出す。
青く輝く瞳が竜騎兵を睨んでいる。
「雷竜か……!」
舞い上がった飛竜たちはパニックになった。ぎゃあぎゃあと泣き喚き、戦場から遁走していく。
飛竜から振り落とされた兵士の悲鳴が長く尾を引き、消える。
クスルクスル王国軍の兵は誰も背後を振り返らない。
長弓が空に向かって掲げられる。
「放て!」
と、ジュニアは叫んだ。
***
城門の上まで飛び上がって来た”古都”の製品をライの槍が叩き伏せる。他の兵が群がり、斬りつけ、首を落とし、動きが止まったところをライが掴む。城門の内側に掘られた深い穴めがけて投げ飛ばす。
「お。今度は上手くいったな」
”古都”の製品が穴の中へと消え、すぐに油が流し込まれ、火がつけられる。投網で穴が塞がれる。穴の中から悲鳴が上がる。
キャナ軍の様子を伺い、ライは城門から降り、水を飲んだ。
「どうだ、ライ」
トロワの問いに、ライが首を振る。
「不味いな。カイトがいねぇ。ラダイたちにも何かあった。”古都”の製品さえいなければ何とかなるが、このまま援護がないと難しいな」」
ライの声は落ち着いている。冷静に状況を伝えている。
「そうか」
「何か、ガツンとヤツラをやっつける術、ないのかよ?」
そんなものがあればとっくにやっているとライも判っている。ただの軽口だ。だが、ライに応えようとしたトロワの脳裡で、
『手を貸してあげましょうか?うさぎくん?』
と、女の声が響いた。
トロワが立ち竦む。『師匠!』心の中で叫ぶ。
『違います、ごめんなさい、フラン姉さまじゃありません!』
と、女の声が慌てて応えた。
『こう言えって、フラン姉さまが--。その、ごめんなさい!』
声の慌てぶりに、逆にトロワは落ち着きを取り戻した。
『君は--』
『マルタといいます。フラン姉さまの妹です』
『妹って、じゃあ』
娘たち。
『はい』
『師匠は--』
『あの、そのまま言います。怒らないで聞いてください。
助けて欲しかったら手を貸すわよ、うさぎくん。この子に、あの、わたしのことです、この子に続いて、呪を唱えてみなさい--って。えーと。あの、下手をすれば、みんな死ぬけどね。この術。
ええっ?!』
『ああ……』
師匠らしいとトロワは思った。
この子はウソを言っていない。フランは本気で、下手をすればみんな死んでしまうような術を、初見でトロワに唱えさせようとしている。
トロワを試している。
変わらないな、師匠は--。と、不思議な安堵と共に、トロワはさほど迷うことなく腹を括った。
『判りました、って伝えて貰えるかな。それと--』
マルタとトロワのやり取りは、短い時間のことだ。ほんのひと呼吸ほどの時間しか経っていない。
「ライ」
城門に戻ろうとしたライをトロワが呼び止める。
「ん?なんだ?」
「10分、時間を作ってくれ」
ライが不敵に笑う。理由は聞かない。
「判った」
槍を手に城門へと戻って行く。レナンに何か叫ぶ。レナンがトロワを振り返り、ライに叫び返す。
『では、頼むよ』
『はい』
マルタの”声”に続いてトロワが詠唱を始める。
下手すればみんな死ぬけどね。それは、良く考えろという意味だ、とトロワは思った。ただ単に、マルタの呪を追うだけではなく。
風の精霊を呼び出す。フランの代理として。かなり上位の精霊。いや、極めて上位の風の精霊だ。最上位と言ってもいい。多くの尊称と複数の名。精霊よりもむしろ神に近い存在だ。
火の精霊も呼ぶ。
こちらは風の精霊ほど上位の精霊ではない。だが、数が多い。
風の精霊も火の精霊も、呼び出したのはここではない。
何故か。
場所はここだが、もっと上。
ずっと、上の方だ。
空の上と言った方がいい--。
そこでトロワは、自分が唱えている呪の正体に気づいた。下手すればみんな死ぬけどね。と言ったフランの言葉の意味を悟った。
『師匠--!』
思わず叫んだトロワの心の傍らで、うんうんと、マルタが頷いていた。
まだ見習いになったばかりの頃のことだ。「師匠、ひとつ教えて貰いたいことがあるんですが」と、トロワはフランに尋ねたことがある。
ショナの首都、デアでのことだ。
「何かしら。うさぎくん」
怠惰な姿でソファーに寛いだまま、フランが問い返す。
フランが手にしているのは、最近手に入れた、とても古い魔術書だ。
「太陽神さまが火の精霊を眷属としているのは判りますが、何故、氷雪の女神さまも火の精霊を従えているのか、理由が判らなくて。
どうしてなのか教えて頂けますか?」
トロワが魔術を習っているのは、酒造りのためだ。彼の造る酒は、気温が高いと問題が多い。その関係で、彼が習っているのは氷雪に関する術が中心だ。
だから、気温を下げる術を習っていて、ふと疑問に思ったのである。
何故、氷雪の女神が火の精霊を従えているのか。
「リンリンに、人に訊く前に自分で調べる様にって言われてるでしょう?調べてみた?」
「調べてはみたんですが」
申し訳なさそうにトロワが言葉を濁す。
トロワの真面目さは知っている。トロワが彼なりに調べられるだけ調べてから自分のところに来たことを、フランは疑わなかった。
「そうね。何故、とは、あまり思わないかも知れないわね。当たり前すぎて」
フランが魔術書を置く。
「太陽神様と氷雪の女神様が火の精霊を従えているのはね、火の精霊の本質が、熱の移動にあるからよ」
「熱の移動、ですか」
「ええ。火の精霊と言うと、物質を燃焼させることが本質だと思っちゃうけど、そうじゃないわ。本質は熱を移動させることなの。だから、熱が高い方から低い方へ移動するのが冷やすことだとしたら、氷雪の女神様が火の精霊を従えているのも当然でしょう?」
「むしろ、熱する方が無理がある、ということですか?」
「外からエネルギーを与える必要がある、という意味で言えばね。ねぇ、うさぎくん、この部屋、どうしてこんなに涼しいと思う?」
季節は真夏だ。しかし、二人のいる室内は快適な温度に保たれている。
「それは、師匠の術で--」
問われているのはそういうことじゃないと思いながら、トロワが答えを探る。
「もちろん魔術だけれど、それだけじゃないわ。
ひとつは気化熱、それと、断熱圧縮と断熱膨張を利用して、風の精霊に無理なく遊んでもらって、涼しくしているのよ」
トロワが首を捻る。
「どういうことでしょう?」
「暑い日に水を撒くと涼しくなるのは、気化熱が奪われるから、というのは知っているでしょう?
断熱圧縮と断熱膨張は、見てもらった方が良いわね」
フランが何かを呟く。フランの影から妖魔が滑り出て、何かを持ってくる。
一方が閉じた細いガラス状の筒だ。
「ありがとう」フランがガラス状の筒を受け取り、「これ、紙片ね」と、トロワに示し、筒に入れる。「で、」筒と同じ直径のピストンを筒に差し込む。「このピストンを押し下げるとどうなると思う?うさぎくん」
「え。えーと。別に何か--、すみません、判りません」
「こうなるのよ」
フランがピストンを一気に押し下げると、筒の底にあった紙片がぱっと燃え上がった。
「ええ?!」
「これが断熱圧縮よ」
「……それ、魔術じゃないんですか?」
「違うわ。呪を唱える必要はないし、誰がやっても同じ結果になるわよ。
空気を急激に圧縮することで、内部の温度が紙の発火温度を越えるのよ。断熱膨張はこの逆。
面白いでしょう?」
「はい」
瞳を輝かせてトロワが頷く。
「こうした物理的な力も利用した方が精霊たちも無理をしなくていいから、楽なの。この部屋はそうやって涼しくしているのよ。
判ってもらえた?」
「はい。いや、ホントにスゴイな」
フランから手渡された筒とピストンをまじまじとトロワが見る。
「冷蔵庫って、氷を使って低温を維持しているでしょう?」氷の塊を箱の上部に納め、氷の冷気で食品を冷やす冷蔵庫のことだ。「でも、この部屋と同じ原理で冷やすことも出来るわ。
氷を使うんじゃなくて、逆に冷蔵庫で氷を作ることだってできるわよ。
もちろん、火の精霊、風の精霊、水の精霊に協力してもらって、氷を作ることも出来るし、その方がただ単に氷を作るだけなら早いけど。
でも、氷を作るだけなら、もっと手っ取り早い方法があるわね」
「どうするんです?」
「簡単なことよ。
水が凍るぐらい冷たい空気を持ってくればいいのよ」
「北の国々からですか?でも、遠いですよ、持ってくるには」
「違うわよ、うさぎくん。方向が」
「え?」
フランが指をさす。
「ほんの10キロほど先に、とても涼しい空気があるでしょ」
そう言ったフランが指さしていたのは、上、である。
気温は、さまざまな条件によって違いはあるが、垂直方向に100mにつき、0.6度下がる。つまり、10キロ上空だと、地上より、60度マイナスになる。
トロワがフランの代理として呼び出した上位の精霊は、10キロほど上空にいる。
そこにいて、冷たい空気を集めている。遊んでいる。雪玉を転がすように。風の精霊だ。空気自体が動いているのと同じだが、今、風の精霊が行っているのは、断熱圧縮だ。それをまた、周囲の空気を使って冷やしている。火の精霊の力を使って、効率よく。冷やして、懐に抱え込んでいる。
準備は終わりかけている。
冷たい空気の塊を抱えて、風の精霊が地上に降りて来る準備は。
トロワの唱えている呪のほとんどは、空気の壁を造るためのものだ。何の為に?断熱の為だ。断熱の為の何重もの厚い厚い壁だ。
トロワはぞっとした。
寒気がした。
すでに精霊は下降を始めている。
地上まで降りて来て、次に風の精霊が行うのは、”背伸び”だ。風の精霊にとってはただそれだけのことだ。
だが、それは断熱膨張になる筈だった。
風の精霊の抱えた、元々気温の低い空気が、さらに一段と冷やされる。
一気に。
おそらく、北と南にある極地よりもさらに低く。
とても人が生きられない温度まで。
マルタが唱える呪文の先を読み、詠唱に別の詠唱をトロワは重ねた。
空気を通す細い道を作る。
声を届けるための筒、伝声管だ。
空気で作った伝声管を、城門の上にいるライの耳元まで伸ばす。
「オレのところまで、全員を下がらせろ!」
鋭く叫ぶ。
トロワの声が耳元で響いても、ライは驚かなかった。何故とも問わなかった。「全員、下がれ!」と叫び、矢を放ち、「降りろ!トロワのところまで、下がれ!」と、自分も階段へと走る。
レナンも察した。迷わなかった。
「全員、下がれ!早く!」
レナンが空を振り仰ぐ。
寒気を感じた。
音を聞いた。
細い風の音が、空から落ちて来ていた。
トロワがカーテンを下ろすように空気の壁を引き降ろす。視界が白く染まる。ドンドンと城門が叩かれていた音が止まる。城門の上へと飛び上がった”古都”の製品の喚声がぷつりと途切れる。
キャナ軍内でも、ソトがふと、空を振り仰いだ。
彼が苦しむことはなかった。
何が起こったか知ることなく、彼は死んだ。
いつも通りまったく意識することなく呼吸をし、肺が凍って、裂けた。即死した。意識を失い、倒れる前に涙が、眼球が凍り、身体が白い霜に覆われた。
ソトだけではない。
賑やかだった洲国の兵士たちも、一人残らず沈黙した。
”古都”の製品も同様だ。
意識を失くし、倒れ、修復が行われ、死に続けた。死に続け、やがて材料とエネルギーが尽きて、本当に死んだ。
精霊の姿は見えない。
余程上位の精霊でなければ。
白い壁の遥か上空に、しかしトロワは、精霊の姿を見た。
雲の中に霧を見た。見た、と思った。
輪郭も定かではない風の精霊は、笑みを浮かべていた。思いっきり遊んで、満足した子供の笑顔だと、トロワは思った。
『上出来よ、うさぎくん』
マルタの声がトロワの脳裡で響く。
『こう言えって、その、ごめんなさい!失礼します!』
声が消える。
気配が遠ざかる。
「トロワ」
「無事か。ライ」
ライの姿を認めてトロワがほっと胸をなでおろす。
「ああ」
「逃げ遅れた者は、いないか?」
「大丈夫だ」
トロワは長い息を吐いた。
「良かった」
「すげえな、これ」
冷気を纏い、そそり立った白い壁をライが見上げる。
「二度とやりたくはないな。--できれば」
トロワの表情からライが何かを察する。
「向こう側はどうなってる?」
「生きている者はいないだろうな。人だけじゃない。草も木もすべて凍りついている筈だ。
この壁の向こうにあるのは、死の世界だよ」
風の精霊がどれほどの空気を抱えて降りてきたか、トロワにも判らない。死の世界がどこまで続いているか判らない。
キャナ軍を全滅させた。
それは確かで、それだけで終わらなかったことも、確かだ。
「ふむ」
トロワの言う通り、白い壁の向こうには生きている者の気配がない。微かに遠く風の音が聞こえるだけだ。
「だったら、カイトの様子を見に行こうぜ。トロワ」
と、ライは曲輪へと続く道に足を向けた。




