26-9(キャナとのいくさ9(獲物を盗るのは森では大罪))
洲国との国境であるカレント河に、橋はない。
クスルクスル王国からすれば洲国からの侵略に備えて、洲国からすればクスルクスル王国からの侵略に備えて、どちらの国も橋を架けようとはしなかった。
架けるのを許さなかった。
しかし、トワ郡の騒動はキャナにとって好機となった。たった数日でキャナはカレント河に橋を架けた。
木製の仮設の橋だ。
何年も保つ橋ではない。
しかし、幅は10mを優に超え、長さは数百mもある。
橋を支える橋脚が流されないように、上流側の橋脚の手前には河の流れを弱めるための杭まで打たれている。
それだけでなく、キャナはクスルクスル王国側に、橋を守るための簡単な砦まで築いていた。
砦の前には空堀があり、無数の乱杭が砦の外へと向けて埋め込まれている。
無理に攻めることはしないか。
と、オセロは思った。
森に潜んだ彼の視線の先には、キャナが架けた仮設の橋と、橋を守る砦、砦を落とすためにパロットの街の義勇軍が造った三基の攻城櫓がある。
さして大きな攻城櫓ではない。
高さは10mを越えるか越えないかだろう。
だが、砦を攻めるには十分だ。
オム市を占拠したキャナ軍にまず届いたのは、拠点をひとつ、落とされたという報せだった。キャナ軍はカレント河からオム市までの補給路を守るために、いくつか拠点を設けていた。落とされたのは、そのうち、カレント河に一番近い小城だった。
「敵の数は如何ほどです?」
イスールの問いに、報せに来た兵士は「千人前後かと思われます」と答えた。
「千人?」
ハラが訝し気に問い返す。
廃棄されていたかつてのトワ王国の小城を修繕して利用している。千人程度の人数で落とせる拠点ではない筈だった。
詳しく聞くと、兵士は、「腹を下した兵が多く--」と、縮こまりながら答えた。
ハラはそれ以上聞くことなく、オム市から三千の兵を送り出した。
もっと多くの兵を送りたかったが、状況が許さなかった。タリ郡に集まっているクスルクスル王国軍に備える必要があったからである。
「地の利は敵にあります」
「そうだな」
と、イスールに応えたハラは、橋を落とされ、敵地で孤立することも覚悟していたのだろう。事実、パロットの街の義勇軍に占拠された小城は、今度は逆にキャナの三千の兵が来援するのを阻んでいる。
『二百、いや、三百か』
ここにいる義勇軍の兵士の数だ。
『オレひとりでも、やれるか』
と、オセロは思う。
しかし、無理をする気はない。
三百というのは、決して舐めてかかれる数ではない。
何より、オセロがここにいるのは、オム市にいてもヒマだったからである。つまりは、散歩に出てきただけである。
『嬢ちゃんはいるかな』
ふと、思った。
小城にはいなかった。
飛び交う矢を見れは明らかだった。
と、すると。
オセロの腹の奥が熱くなる。口元に笑みが浮かび、オセロは考えるより先に立ち上がっていた。
パロットの街から来た義勇軍は混成部隊だ。トトのようなならず者もいる。
だから、森から笑顔で現れたオセロが敵か味方か、義勇軍の兵士には、咄嗟には判らなかった。戸惑った。しかも、たった一人だ。
「そこにいると危ないぞ」
と、親し気にオセロが兵士に言う。足は止めない。軽く兵士の肩を叩く。兵士たちが顔を見合わせる。
オセロが攻城櫓に歩み寄り、手をかける。
「何をする気だ!」
ようやくひとりの兵士が叫んだ時には遅かった。
オセロの全身の筋肉が盛り上がる。攻城櫓が傾き、「オウッ!」と叫んで、オセロは攻城櫓を勢いよく横転させた。耳をつんざく大音響とともに、横転した攻城櫓が隣の攻城櫓を巻き込み、倒れる。
攻城櫓の上にいた兵士が投げ出され、何人もの兵士が下敷きになり、悲鳴が上がる。
義勇軍の兵士たちは、パニックになった。
『嬢ちゃんは、いないな』
と、オセロは思った。
オセロの周囲には、オセロに斬られた兵士が幾人も倒れている。
もしカイトがいれば、もう矢が飛んできているだろう。
『だが、ま、もののついで、だな』
視線を回す。
慌て、騒いでいる兵士たちの中にあって、冷静さを失うことなく怒鳴る声があった。何が起こったか知ろうとし、指揮系統を立て直そうとしている。
『あれか』
オセロが声に狙いを定める。
彼の視線の先、兵士たちの向こうにいたのは、レナンである。
「ジュニアをこっちに来させるなよ」
騒ぎが起こるとすぐに、ライは、近くにいた兵士に言った。
「好奇心のカタマリだからな、あいつは。間違いなく、ヤツを見たがるだろうよ。しかし、こっちに来たら、死ぬぞ」
オセロという名の龍翁の英雄が来たのだと、ライは判断している。
もし、義勇軍が押さえた小城をキャナ軍に抜かれたのなら、先に報せが来ている。報せが来ていないということは、オム市から派遣されたキャナの援軍ではない。
そもそも敵は軍隊ですらない。
少人数だ。
軍の一隊なら、もっと煩い。
聞こえているのは味方の兵の声だけだ。敵兵の声がない。
何より、攻城櫓を倒された。
投げ倒された。
神の力を得た者でなければ、不可能だ。
ライが声を探す。レナンの声を。
オレなら。
と、考える。
まず、頭を潰す。
それが少人数で襲う時の常道だ。
兵士たちの向こうからレナンの声がする。パニックを起こした兵士たちの間に、ライはレナンの姿を小さく捉えた。
何が起こっているか、レナンは判らなかった。
敵襲だということは判った。おそらくは龍翁様の英雄--と、彼も察した。察したが、ゴウッと風を巻いて矢が目の前を通り過ぎ、巨大な黒い影が、現れた、と思うより先に矢を躱し、レナンから飛び離れてもまだ、自分の身に何が起こっているか、レナンには判らなかった。
2矢、3矢と続く。
矢がレナンから黒い影を遠ざける。
影が身体を起こす。
男だ。
大柄で、乱れた髪を、山賊か何かのように肩に落としている。
「嬢ちゃん--、ではないな」
男が、オセロが、手にした矢に視線を落として、言う。
ここに至ってようやく、レナンは自分が狙われたのだと知った。カイトに抱かれたカン将軍の首がちらつく。復讐心に頭の奥が熱くなり、全身の血が滾った。
レナンが腰の長剣を抜く。
「オセロ公子ですね」
レナンの問いに、オセロが顔を上げる。
「もう公子ではなく、公兄、と言った方が正しいと、イタカという名の新しい神の英雄に言われたが、そうだ。
あんたは?」
「トワ王国、親衛隊長、レナンだ」
「ふむ」
オセロがレナンを値踏みする。
「悪くはないな」
と、言う。
「だが、オレの相手は、あんたの方か?」
「いや」
応じたのは、ライである。レナンの肩に手を置く。
「お前の死に場所はここじゃねぇ」
と、レナンに言う。
「おそらく、コイツ一人だ。だが、いくさ場で調べもせずに決めつけるのは命取りだからな。そちらに備えてくれ。それと、橋の方も抑えておけよ」
剣を引くことを、レナンがためらう。
「カン将軍に言われたシゴト、まだ片づけてないだろ」
「判った」
レナンが剣を引く。
後ろに下がる。「ここは、任せた」と言って、兵士に向かって、森への偵察を指示し、負傷者を助け、橋に向かって陣形を整えるべく大声で叫ぶ。
「なぁ、ここは引いてもらえないか?」
と、オセロと向かい合ったライは、意外なことを言った。
「オレの見立てだと、あんたの方がオレより上だな。だが、あんたを止めることはできるだろうよ。止めることさえできれば、レナンがあんたの首を落とす。
それは、あんたの望むところじゃないだろう?」
オセロが笑う。
「オレの望みを知ってるような言い方だな」
「カイトとやりたいんだろ?」
「……」
「カイトもだ。だからオレも、ここであんたには死んで欲しくないんだ。森では、人の獲物を盗るのは大罪だからな」
楽しそうにオセロが笑う。
「オレが獲物か」
「ああ」
「あんたらを全員殺して、嬢ちゃんともやる、って手もあるんじゃないか?」
「言ったろ。オレは強いぜ。あんたを止めることはできる」
「あんた、名前は?」
「ライだ」
「嬢ちゃんの知り合いか?」
「師匠だ」
「ん?」
「カイトは、オレの弟子だよ」
平然とライが言う。
「ウソだな」
オセロが断言する。
本当に嘘だと思った訳ではない。探りを入れている。ライもだ。為人を探っている。コイツはどんなヤツか。生真面目なのか、それとも狡いこともできるヤツか。
どんな剣を遣うのか--。
「だが、嬢ちゃんの師匠と言うのなら興味がある。試させてもらおうか」
「しょうがねぇな」
ライが槍を構える。右手は腰の辺りで槍を握り、左手を前に出し、穂先を上げる。オセロの喉に向ける。
左足を前に腰を落とす。
『なるほど』『強いというのは、ウソではないな』
構えを見ただけで判る。
右へ、オセロが動く。
穂先が追う。
左へ。
オセロを追う穂先が揺るがない。ぴたりとオセロの喉に向けられている。
オセロが後ろへ跳ぶ。
槍が伸びてきた。突然。予備動作がなかった。オセロが躱すことができたのは、勘だ。意識するより早く、身体が動いた。
つまりライの槍の動きは予想外で、予想外だっただけに、オセロは大きく跳んだ。
だが、それでも槍は追ってきた。
後ろに跳んだだけでは、逃げきれなかった。
オセロが身体を捻る。
槍が音を立ててオセロの脇を走り過ぎる。
速い。
ライは既に槍を引き戻している。まるで最初から動いていないかのように、槍はオセロの喉元に向けられている。
オセロが嗤う。
ああ。これは凄いな。
槍が何度も風を巻いて通り過ぎる。オセロが躱す。躱し続ける。ライが手を止める。ほんの一瞬。タイミングが変わる。
オセロはすでに重心を移している。
避けられ--。
ない、と思った時には、オセロは前へと突っ込んでいた。
槍がオセロの掌を貫く。
いや、貫かせた。
手で受けた。
そのまま、掌を槍の半ばまで突き入れ、握る。痛みはない。あるが、忘れている。攻城櫓を倒すほどの膂力だ。ライから易々と槍を奪い取り、オセロが前につんのめる。
体勢を崩す。
ライが槍を手放したのである。
オセロは槍を握ったライの指を引き千切るつもりだった。それほどの勢いで槍を地面に叩きつけた。
しかし、ライが手を離したがために、勢い余ってバランスを崩したのだ。
ライが既に長剣を振り上げている。
「せいっ!」
オセロが左手を上げる。
咄嗟に手を上げた。上げてしまった、と、見えた。己を守るように。
だが、そうではなかった。
オセロの左手は槍で貫かれている。邪魔だ。バランスが悪い。だからオセロは斬らせた。左手首を上にしてライに向けた。コイツなら斬ってくれると信じた。
ライの長剣がオセロの左手を、槍ごと断ち切る。
重力がオセロの左手を捕らえる。
落下を始める。
切断された自分の左手がまだ宙にあるうちに、オセロは右手で神剣を突き出した。
ライの巨体が横に流れる。
オセロは感心した。
ライの動作に無駄がない。余裕がある。易々とオセロの神剣を躱し、再び長剣を振り上げている。
金属と金属がぶつかり合う甲高い音が響く。
オセロが受け止めている。
渾身の力を籠め、十分に体重を乗せたライの長剣を。右手一本で。軽々と。撥ね上げる。掌で器用に神剣を回す。オセロが神剣を振り下ろす。
風が起こる。
撃ち合わせた二本の剣が、風を巻き起こす。
オセロはそう感じた。
ライが受け止めている。神剣を。
オセロが目を細める。
オセロは長剣ごとライを両断するつもりだった。それを止められた。
「神剣か」
ライが手にしている長剣のことだ。
刃を合わせたまま、ライが「ああ」と頷く。
「旧ロア城に転がってたんでな。そのままにしてたんじゃあ、もったいないだろ?」
「それだけじゃないな」
ライは英雄の力に負けていない。拮抗している。
「新しい神の英雄が使っていた術か?」
イタカやかかし、カエルの腕や足に描かれていた呪のことだ。だが、イタカたちと違ってライの腕はどこも白く光っていない。
描いている筈の呪も見えない。
「これを一晩で編んだとはな。イタカ殿は、優秀な術者だったんだな」
イタカの編んだ呪を見て、トロワはそう感嘆した。呪を修正する必要はほとんどなかったが、トロワは、術の発動タイミングに僅かな変更を加えた。
さらにトロワは、ライのために、もうひと工夫加えた。
魔術師になった際、トロワはフランからひとつ、祝いの品を貰った。
フランの妖魔、一体との契約書である。
あぶら汗を流して「お気持ちだけで」と断ったトロワに、「いつもうさぎくんに従わせる必要はないのよ。用がある時に呼べばいいの」とフランは言い「わざわざ契約書まで用意したのに、断ったりしたらこの子に恨まれるわよ」と、悪人顔で笑った。
ライに施した呪は、その妖魔で描いている。呪と化した妖魔をライの身体の上に這わせているのである。
妖魔で描いた理由のひとつは、呪が働く際に放たれる光を押さえるためだ。呪が発動したことを悟られないようにするためだ。
ふたつめの理由は、英雄の力に対抗するためだ。
常人よりは遥かに膂力に優れるとはいえ、ライはただの人だ。イタカの術に妖魔の力を上乗せしているのである。
「まぁな、--」
言葉を続けるフリをして、ライはオセロの腹を蹴った。
卑怯とはオセロは思わない。が、不意を突かれた。撃ち合わせていた神剣が僅かに下がる。右へ。ライがフェイントを入れる。オセロが釣られる。
いない。
ライの巨体がない。
ぞくりっ。
背後、--いや。
オセロは逆に後ろに大きく跳んだ。重く短い風切り音だけを残して、オセロがいた空間を、ライが手にした神剣が通り過ぎる。
オセロがライと距離を取る。オセロの左手。修復されている。神剣を握り直し、「やはり嘘だな」と言う。
「何が」
「嬢ちゃんの方が上手いぜ」ライのフェイントのことだ。
「優秀な弟子だったからな、カイトは」
「まだ言うか」
オセロは楽しそうに笑い、ライから視線を逸らした。キャナが架けた仮設の橋へと、いや、カレント河へと顔を向ける。
遠雷か、と思った。
違う。
と、思い直す。
何か大きな物が、河を転がって来ている。
仮設の橋が激しく揺れる。
水飛沫が上がる。
幾体ものゴーレムが河面を割って立ち上がる。
咆哮を上げる。
「やっぱり立ち上がったら、叫ばせるべきだろう、ゴーレムに」
と作戦会議の席で言ったのはライである。
「河の中を転がり始めたらオレの指示は届かないからな。そうすると予め立ち上がって叫ぶよう呪に組み込んでおく必要がある。
無駄だよ、ライ。それだけ呪が複雑になる」
「いやいや。立ち上がって叫ばないなんて、ゴーレムじゃないぞ」
「何だよ、それ」
トロワが笑う。
「演出だ、トロワ」
「え?」
『魔術も演出よ。うさぎくん』
トロワの耳に甘い声が蘇る。まだキャナにいた頃、フランによく言われた言葉だ。
「なるほど--」
それも在りか、と呟いたトロワに、
「おお、そうだ。ゴーレムが叫べば、いい合図になるじゃないか」
と、ライが言った明らかに後付けの理由は、不思議と説得力があった。
「撤収だ!撤収しろ!」
レナンが叫び、義勇軍の兵たちが一斉に撤退を始める。橋を守るために築かれた砦のキャナの兵士たちは、ゴーレムに気を取られてそれどころではない。
「これは、囮か」
攻城櫓を示しながらオセロが訊く。
カレント河からはゴーレムが橋を破壊する音が続いている。
「いや、見物用の櫓だ。コイツの上から、橋が壊されるのをみんなで酒を呑みながら見物する予定だったんだがな。
あんたがおしゃかにしちまった」
オセロが低く笑う。
「ふざけてるな」
「ふざけてなんかいねぇよ。マジだぜ、オレは。いつでも」
「いいだろう」
オセロが神剣を鞘に納める。
「守るべき物が無くなった。あんたの腕も見せてもらった。あんまりあんたがふざけるから、やる気もなくなったよ」
「だったらこれは、要らなかったか」
ライが何のことを言っているか、すぐにオセロは知った。カレント河から白く重い霧が流れ来て、ライの姿を押し包む。ライの気配が消える。
「嬢ちゃんに宜しくな!」
霧に向かってオセロが叫ぶ。
返事はない。しかしライに自分の声が届いたことを、オセロは疑わなかった。
カレント河にキャナが架けた仮設の橋を落とすために、ジュニアはカレント河に近い街を拠点とし、そこから更にカレント河に近い森の中に、前線基地として小さな拠点を設けていた。
「オセロ公子を見ておきたかった……」
ぶつぶつ文句を言うジュニアを引き摺って前線基地に戻ったところで、「待て」と、ライは足を止めた。
周囲に視線を巡らせる。
「どうした、ライ」
「誰かいる」
「え?」
トロワが視線を回す。彼には判らない。
ジュニアにもレナンにも判らなかったが、疑うより先に二人は長剣を抜いた。
「流石は、酔林国の暴君殿ですね」
女の声が響く。
空気が陽炎のように揺らめく。
揺らめきは影となり、人型となり、一人の老女の姿を結んだ。
「あ」
声を上げたのは、トロワである。
「リンリンさん!」
と、トロワは叫んだ。