25-1(空を射る1)
「ミユ様を頼む!」
レナンの声を背中に聞きながら、クロは「行くぜ、お姫様!」と、ミユの手を取って逃げた。しかし、逃げた先にも次々とキャナの兵士が現れ、「逃げろ!」とミユを先に行かせ、三人の兵士を斬り倒したところで、鈍い音をクロは聞いた。
何度も聞いたことがある音だ。
人が酷く殴られた音だ。
振り返ると、十数人のキャナの兵士がミユの行く手に立ち塞がり、ミユがゆっくりと崩れ落ちていた。
声にならない叫び声が上がった。
兵士が振り返る。ミユを殴り倒しただろう兵士の首が、クロが手にした二本の剣に飛ばされる。
更に一人。
二人。
喉を裂かれ、心臓を突かれて兵士が崩れ落ちる。
怒号が上がる。
仲間を殺されたキャナの兵士の上げた怒号が、獣の叫びを圧して、森に響き渡った。
「ミユ様!クロさん!」
フウの声に応える者はいない。彼女の周囲には、白い霧しかない。いつの間にか他のみんなと逸れていた。
ただの霧じゃない、と思う。魔術の霧だ。
「誰もいませんよ。森人のお嬢さん」
フウが矢を放つ。
声に向かって。
しかし、手応えがない。
白い霧のに吸い込まれるように矢が消える。
ぷつり。
弦が切れる。
「え」
フウの手元を何かが掠めた。まるで影のような何かが。それが弦を切ったのである。
「あなた方の弓は、危険ですからねぇ」
媚びるような声が響く。
「誰?」
問いながら、フウは弓を捨てた。フウは山刀を持っていない。代わりに矢を握った。呪を唱える。気配を探る。
「答えても、あなたは知りませんよ」
フウがすばやく振り返る。印を向ける。火球が、白い霧の向こうで弾ける。
「残念」
フウの左手奥で声が響く。霧が形を成し、人影となる。クスルクスル王国の巡察使であるダウニが白い霧を纏って現れる。
ダウニの足元で、生きているかのように影がザワザワと蠢いている。
「それは幻ですよ。お嬢さん」
ダウニの足元から飛び出した影が、2体の妖魔が、フウに躍りかかった。
身体が揺れる気配に、ニスは意識を取り戻した。
誰かに支えられて歩いている。
顔を横に向ける。
弟だ。
「よお。生きていたか」
弟は答えない。ニスは笑った。
「なんだ。泣いているのか、お前」
「来たぞ!」
近くにいた、弟ではない別の誰かが叫び、「伏せるんだ!兄貴!」と、弟に引き倒されるようにニスは伏せた。
耳が馬鹿になったかと思った。
龍翁の英雄に城壁が壊された時の比ではない、轟音が世界を満たした。何か重い物が鈍い音と共に次々と降り注ぐ。
「な」
白い板に空が覆われている。いや、違う、とニスは頭上を飛び去って行くそれを目で追った。
「腕……?」
拳を固く握った腕、とニスには見えた。細い。子供か、女の腕だ。ニスは女の腕だと思った。白く、長い、しなやかな女の腕だ。どこかで見た気のする女の腕がニスの頭上を飛び去って行く。
ニスの胸で得体の知れない不快さが渦巻く。
「何があった……!」
ニスの問いに、唇を震わせたまま弟は答えなかった。
カイトにはただの嵐と見えた。
ただ、嵐にしては雲が低すぎ、風の方向があまりに定まっていなかった。右から、左から、正面からも狂ったような暴風が塊となって走り過ぎて行く。木が圧し折られ、風に攫われて空へと舞い上がっていく。まるで、巨人に持ち上げられ、投げ捨てられてでもいるかのように。
いや、木だけではない。
人もだ。
キャナの兵士たちの上げる悲鳴が、空の向こうへと遠ざかって行く。
破裂音が轟く。
視線を回すと、旧ロア城の城壁が、斜面ごと何かに打ち砕かれたかのように飛び散っていた。
「何が起こっているの!」
風の音に負けまいと声も限りに怒鳴ってカイトが訊く。マウロの視線の先。カイトには見えないそこに、何かがいる。
「新しい神だ」
轟々と鳴る風の中、マウロの呟きは、何故かはっきりと聞こえた。
「新しい神が、そこにいる」
マウロが指をさす。
「信者の祈りから解き放たれた……、神が」
マウロには最初、それは木と見えた。
見たこともないほど大きな木だと。
銀色に輝く幹は太く、幹はすぐにふたつに枝分かれして、豊かな葉を茂らせている。いや、葉ではない。人の髪よりも細い糸だ。鮮やかな何色もの明るい糸だ。紅紫を基調として、緑、黄色、青と様々な色の糸が生い茂った葉のように幹を覆っている。
糸の間には銀色の枝が見えた。生物ではあり得ない幾何学的な直線を描いて、上へ、下へと不規則に伸びている。
高さは判らない。高すぎて見当がつかない。
光が、それの内側から光が溢れている。溢れた光が柱となって黒雲まで届き、夜のように暗くなった世界で、巨木の如きそれだけが、明るく輝いている。
『まるで空を支えているみたいだ』
と、マウロは思った。
神々しいと言えなくもないそれのずいぶん上に、人の身体があった。
女の上半身だ。
女の顔を、マウロは良く知っていた。
それは、ミユの顔をしていた。
それ、いや、ミユの顔をした新しい神は、瞼を閉じ、顔を下に向けていた。口元には、見慣れた笑みがある。
新しい神の胸の辺りに、別の顔がある。鈴なりになっている。そちらもマウロの知っている顔だ。名前も知っている。全員の名前を。ロールーズの街で殺された、ファロの子供たちの顔だ。それが鍋の中のあぶくのように、極彩色の糸に囲まれて花開いている。
風の音はマウロには聞こえなかった。
代わりに、彼は声を聞いた。
新しい神の声を。
「痛い」「痛い」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い」
「助けて!」「助けて!」「助けて!」
聞く者の肺腑を抉る子供たちの泣き叫ぶ声が、深い水の中にいるかのように辺りを満たしている。
子供たちの泣き叫ぶ声に混じって、微かに歌声が聞こえた。
やはり、聞き覚えのある声。
フウの声だ。
声は、新しい神の反対側から響いてきていた。おそらくミユの顔の反対側に、もうひとつ顔がある。
新しい神の周囲に腕が浮いている。
細い腕が幾つも。子供の腕とも見え、女の腕とも見えた。殺された子供たちの、ミユとフウの腕だとマウロは思った。その腕が木を掴み、キャナの兵士を掴み、握り潰し、投げ捨てている。
旧ロア城の城壁を打ち砕き、山を削っている。
レナンが膝を落とす。
「ミユ様……」
食いしばった歯の間から声が漏れる。
「どういうこと?」
カイトがマウロに問う。
「どうして、ミユさんとフウが死んだと思うの?」
「そこに、新しい神がいる」
諭すように、マウロが言う。
「信者の祈りから解き放たれた神が。
これが、キャナの知りたかった答えだ。信者の祈りから解き放たれた神は、抑えが利かない。だから、--」
「わたしには見えないわ」
「え?」
カイトがマウロから視線を外す。
マウロやレナンが向けていた視線の先へと顔を向ける。
「あれは、ただの嵐だわ」
カイトの声は静かだった。
「でも」
と言って、嵐にしか見えない新しい神に向かって、カイトが歩き始める。
「何をする気だ!」
カイトが振り返る。
森の静けさを湛えた瞳でマウロを見返す。
唇が動く。
風に遮られて、カイトの声は、マウロには届かなかった。
カイトが周囲を見回す。カイトが見ていたのは、次々と空に舞い上げられる兵士たちだ。キャナの兵士だけではない。味方の兵士も攫われている。
見境がない。
新しい神がそこにいることをカイトは疑っていない。ミユの背後に感じていた気配が、カイトを押し潰さんばかりにそそり立っている。
カイトが足を止める。視線を上げる。
矢筒に手を回す。指が矢に触れる。何かに導かれるかのように。
ロロの矢。
躊躇うことなく矢を引き抜き、弓に番える。
空に矢先を向ける。
革ノ月から戻り、酔林国に旅立ってからずっと伸ばしている髪が、激しく風に煽られ、カイトの視界を遮る。
止まる。風が。カイトの視界が開ける。
音も消えた。
いつ自分が指を離したか、カイトは判らなかった。
まるで矢そのものに意志があるかのように、弓から放たれたロロの矢は、勢いよく空へと駆け上がって行った。