3-1(紫廟山を越える1)
「おはよう。よく眠れた?」
明るく声をかけて来たプリンスを見て、カイトは『この人はどういう人なんだろう』と不思議に思った。
昨夜のことがまるでなかったような態度である。
カイトの方はよく眠れたどころではない。プリンスの言った『いま考えた、その人のこと』が頭の中をぐるぐると回ってカイトはほとんど眠れなかったのである。
「……おはようございます」
「朝ごはんを食べたら出発しようか。タルルナが酔林国に向けて出発しちゃってたら意味がないからね」
「……」
カイトは不機嫌なまま答えない。しかしプリンスは彼女のそんな様子をまったく気にすることなく、朝食の支度に取り掛かっていた。何が楽しいのか、鼻歌まで歌っている。
怒っていることが馬鹿馬鹿しくなって、「手伝います」と、まだ眉を吊り上げたままではあったが、カイトは彼に歩み寄った。
「酔林国まで連れて行ってもらうのに、何か手土産があった方がいいかな」
プリンスがそう言いだしたのは、昼過ぎのことである。
「……ウサギでもいい?」
足を止め、荷物を置きながらカイトが問う。
「いいと思うよ」
「ここで余所者が狩りをしても問題ない?」
「ボクはいつでも狩りをしてもいいって許可をもらってるからね。ボクといっしょだからカイトちゃんも狩りをしても大丈夫だよ」
「判った」
弓に矢を番え、森の中をカイトが見回す。
ウサギの気配がする。ただし、姿は見えない。やはり同じ気配を感じたのだろう、プリンスがカイトの視線を追う。
「いるね。でも、ちょっと遠いかな。あれはボクでも……」
プリンスが言い終える前に、カイトは矢を放っていた。
木の影からウサギが現れる。しかしウサギはすぐに跳ねて別の木の影へと消えた。姿を見せたのはほんの一瞬である。
プリンスの弓の腕は、カイトが知る中では一番かも知れない。少なくとも、クル一族の誰よりも上だ。
ただし、カイト自身を除けば、だが。
カイトの放った矢は、弧を描くように大きく曲がって、ウサギを追った。
矢で頭を貫かれたウサギを回収し、
「このままでいいかな」
と、カイトはプリンスに訊いた。皮を剥いだ方がいいかという意味だ。
黙って見守っていたプリンスが、喉の奥で低く笑う。
「負けず嫌いなんだね、カイトちゃん」
「ん」
他のことはともかく、弓では誰にも負ける気のないカイトは、小さく頷いた。
集落に到着し、住民にタルルナの所在を教えてもらい、歩いて行った先で、カイトとプリンスは人の言い争う声を聞いた。モメていたのは4人。ひとりがこちらに背中を向けて、3人の男と対峙していた。
3人の男は弓矢を持っており、森人だろうと推測がついた。
つまり、背中を向けているのがタルルナだろう。
細身だ。身長はカイトよりも高い。背後からだが、タルルナの立ち姿を見て、まるで鋼のような人だ、とカイトは思った。
3人の男を相手に、怯む様子がまるでない。男の怒声にも関わらず、低い声で何かを静かに応えている。
「あんたが話を聞いてくれねえって言うのなら、オレたちはこの仕事を降りてもいいんだぜ!?タルルナ!」
森人のひとり、禿頭の男がすごむ。
「なにかあったの、タルルナ」
プリンスが暢気な声を響かせる。
タルルナが振り返り、笑顔を浮かべた。
彼女のことをプリンスは、『とても逞しいオバさま』と表現したが、カイトには、彼女がすでにオバさまという歳はとっくに越えていると思われた。肩まで落としたタルルナの短い髪は、ほとんどが白い。
「おや、プリンス。とっくにこの辺りにはいないと思っていたよ。何か忘れ物かい」
親しげにプリンスに話しかけたタルルナとは対照的に、禿頭の男は忌々しげに舌を鳴らした。男が小さく「ゴートか」と呟くのを、カイトは聞き逃さなかった。
ゴート。
おそらくそれが、プリンスの本名なのだろう。
「タルルナにちょっと頼みたいことがあってね。モメ事?」
「この人たちと酔林国までの護衛の約束をしていたんだけどね、もうひとり、酔林国から来るはずのバカがこなくてさ、ソイツの分の賃金を上乗せして欲しいって主張しているのさ。ひとり減る分、仕事が増えるからってね」
「ふーん」
プリンスが3人の男を順々に見る。
「だったらちょうどいいかな。この子が酔林国に行きたいって言うから、タルルナに一緒に連れてってもらえないかってお願いしたかったんだけど」
「その子?」
プリンスの横に立つカイトに、タルルナが視線を向ける。
「さっき、ソイツ、仕事を降りてもいいって言ってたよね。
そうしたら?その方がいいと思うよ。だってこの子ひとりの方がソイツら3人より役に立つから」
「なんだとぉ」
と禿頭の男がすごむのを、後ろに立った男が「やめとけ」と制す。禿頭の男の後ろに立った二人は、プリンスが現れた時からすでに及び腰だった。
「この子、ボクより弓の腕は上だよ」
「あんたより上?」
訝しげにタルルナが問う。
「ホントだよ。ねえ、カイトちゃん」
プリンスに問われて、迷うことなくとカイトはこくりと頷いた。タルルナの瞳に、カイトに対する興味が湧いた。
タルルナはカイトに歩み寄ると、
「手、見せて貰っていい?」
と優しく訊いた。
ためらうことなく差し出したカイトの掌を、タルルナの固い、皺だらけの手が何かを確かめるように撫でる。
「良い手だね」
タルルナがカイトに微笑む。
「ちなみにこれが、あんたへの手土産にって、カイトちゃんが仕留めたウサギ」
プリンスが差し出したウサギを受け取ると、タルルナは傷口を見た。
「うん。いい腕だ」
タルルナが3人の森人を振り返る。
「護衛はこの子にお願いすることにする。
ありがとう、あんたらはもういいよ。今日までの手間賃はきちんと払うから、それを受け取ったら引き上げてくれるかい?」
「そんなことできるか!」
禿頭の男が怒鳴り、プリンスがタルルナの前に出た。
「文句があるならボクが聞くよ」
軽い口調でそう言って、プリンスはにこやかに笑った。




