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24-17(新しい神17(旧ロア城の戦い1))

 戦いたくないのう--


 と、いうのがカン将軍の本音である。

 情報が足りない。

 ハラやイスール以下の将兵のことが何も判っていない。

 キャナ軍の実力が判らない。

 敵を知らずにいくさに臨むなど、無策のまま谷底に向かって飛び込むようなものだと、カン将軍は知っている。

 もちろん、そのためにハラは輜重部隊も伴わずに軍を急がせたのだ。こちらに備える時間を与えないために。

 本来であれば、試しに一戦交えて敵方の力量を量っておきたい。

 もっとも、現在の兵数からすると、それも難しい。

 戦いたくない、というよりも、


『戦うべきではない』


 と、カン将軍は思う。

『籠城、というのも良くない』

 援軍の見込みもなしに籠城をしても負けは目に見えている。

 輜重部隊がいない、ということは、キャナの糧食が尽きるのを待てる、ということではある。2万というのは大軍だ。大軍に過ぎる。たちまち糧食は尽きるだろう。一方で必死にもなる。飢えが兵たちを駆り立てる。糧食はある。旧ロア城に。つまり、食べるためには、城を落とせばよい。

 士気の低い兵の士気を無理に高めるには、悪くないやり方だ。

『何より』

 オセロをはじめとする龍翁の英雄が問題だった。

 いったいどれほどの戦力なのか。こちらにいる英雄、イタカたちとどの程度差があるのか。イタカの言う工夫で埋められる差なのか。

 何も判っていない。

『このいくさ、本来ならば戦うべきではない』

 と、考えれば考えるほど確信する。

 だが、避けられない戦いだ。だとしたらどこまでやれるか。

 己を試す良い機会よ。と、奮い立つ自分がいることも、カン将軍は自覚している。

 何より、

『このいくさ、すでに我らの勝ちじゃ』

 とも、カン将軍は確信していた。


 まだ夜が明けきらないうちにカン将軍は起きだし、軽い朝食をとった。酒を一杯だけ呑み、兵士たちに冗談を言った。

「彼奴らは雨の中、野宿じゃ。気の毒にのう」

 と、笑った。

 だが、本心では、多少の疲れは、2万という数で押せば何とでもなろうな。と、思っている。

 白湯を飲んでいるところへ、レナンが姿を現した。

「雨はあがったようです」

 カン将軍より早く起きて、旧ロア城の周囲を見回って来たのだろう、「ですが、カン将軍の言われた通り、土がぬかるんでいます。裏側の斜面を登るのは、かなり苦労するでしょう」と、レナンは報告した。

「イタカ殿はどうじゃ?預かり物は」

 レナンの報告に頷くことなく、カン将軍は尋ねた。

「受け取りました。今朝、早くに」

「伝令は、彼奴らの囲みを抜けたかのぉ」

 昨夜、キヒコの部下だった元山賊をふたり、伝令に出した。クスルクスル王国軍とトワ王国軍に、キャナの襲来を伝えるために。

 援軍を期待してのことではない。

 ただ、伝えることが目的だ。

 兵士を使わなかったのは、キヒコに率いられて巣くっていただけあって、元山賊の方が旧ロア城周辺の地理に詳しかったからだ。

 レナンが首を振る。

「判りません。キャナの陣に騒ぎが起こった様子はない、それだけです」

「よい。十分じゃ。

 それでレナン。昨夜の話は飲み込めたか?」

「--カン将軍の言われることは判ります。しかし」

 レナンの声には苦悩がある。

「あまり深く考えるな。備えは必要じゃ。ただ、それだけのことじゃ」

「--はい」

「頼むぞ」

 レナンの肩を軽く叩き、カン将軍は正門前の城壁に登った。



 空に晴れ間はなかった。

 千切れて飛ぶ黒い雲の上に、白い雲がある。唸るような低い風音が、はるか上空から響いている。

 先に来ていたイタカに、カン将軍は「芝居を見て泣くなど、初めてでしたわ」と首を振った。「ミユ様には参りましたなぁ」

 イタカは、城壁の外の森へと視線を向けたまま、

「わたしもミユが演じる以上の芝居を、まだ見たことがありません。もっとも、長くファロにいましたから、それほど芝居を見た訳ではありませんが」

 と、応じた。

「海神様もさぞかしお嘆きでしょうな」

 カン将軍の言葉に、イタカは笑った。

 海を支配する海神は、演劇と舞踏の守護者でもある。確かに、ミユを失ったことは、海神にとっても痛恨事だっただろう。

「そうですね」

 カン将軍がイタカの手に視線を落とす。

「それが、昨夜言われていた工夫ですかな。イタカ隊長」

「ええ」

 イタカが右手を上げる。イタカの手の甲に呪らしきものが描かれ、袖の下にまで続いている。

「カン将軍は、カイトが迷宮大都で戦ったという”古都”の製品のことはお聞きになりましたか?」

「いや。知りませんな」

「両肘から先と、膝から下に呪を彫り込んでいたそうです。

 おそらく筋肉の働きを底上げする呪だったのでしょう、人の--、いや、カイトの目でも追えないほど速く動き、人を紙きれのように引き裂いたとか。

 同じものではないかも知れないが、これでも魔術師の端くれです。彼らが何をしたかは想像がつく。そこで、今から呪を彫るのは難しいが、呪を描きました。肘から先、膝から下と、背中にも。

 自分で言うことではないが、英雄というものはたいしたものです。眠らずとも少しも疲れない。

 かかしとカエルにも協力してもらって、一晩かかって何とか使えるものには仕上げられましたよ」

「では、かかしとカエルも」

「ええ」

「それは頼もしいことですなぁ」

「イタカさん、カンさん」

 いつ現れたか、カイトが二人の話に割り込んだ。視線を鋭く、旧ロア城の正門前の広場に向けている。

「来たわ」

 兵士の姿はまだない。しかし、カイトの声に遅れて、旧ロア城を押し包むように四囲の森から喚声が上がった。

 激しく打ち鳴らされる鐘の音や太鼓の音が天まで響く。

 兵の士気を高めるために。仕掛けられているかも知れない魔術を破るために。

「来おったぞ!励めよ、皆!」

 と、歳に似合わぬ大声をカン将軍は張り上げた。



 ハラは旧ロア城を睨み上げている。

 彼らが陣を置いているのは、旧ロア城から離れた街道沿いの高台だ。周囲の木々を切り倒し、旧ロア城を遠くに見上げている。

「落ち着かないですか?」

 傍に控えたイスールが問う。

「こんなところにいては、な」

 眉間にしわを寄せたまま、不機嫌な声でハラが応じる。

「懲りない方ですね」

 と、イスールは笑った。

 半年ほど前の戦いで、最前線にいたハラは危うく死にかけた。少数の部隊と共に敵兵の中に取り残されたのである。死地に陥るのは初めてのことではなかったが、彼を助けるために兵士が何人か死んだ。イスールは密かにモルドに報告し、モルドから直々に、最前線に出るのは控えるように、という指示を貰った。

 モルド自身が常に最前線で戦っていることを知らない者はキャナ軍にはいない。ハラは、「モルド執政にだけは言われたくない」と不満を述べたものの、己を助けるために兵士を死なせてしまったことを悔いて、ここにいる。

「ここでは戦況が読めん」

 文句を言う。

「我が軍の伝令は優秀です。ここにいても十分、指揮は執れるでしょう」

 イスールがそう応じたところへ、ちょうどひとりの伝令が駆けて来た。腕に巻いている印は白。旧ロア城の正門を攻撃している部隊の伝令だ。

「どんな具合ですか?」

「は、はっ」

 伝令が口ごもる。何かを告げようとして、ごくりっと喉を鳴らす。唇が震え、顔が青ざめている。

 ハラとイスールは訝し気に視線を交わした。

「何事です」

「わ、我が軍は、先に進めておりません。す、少しも、先に進めません」

 伝令の声が上ずっている。

 報告になっていない。

 伝令の顔を、イスールは憶えている。歴戦の兵士だ。どんな時でも正確に、主観を交えずに報告を伝えてきた兵だ。その兵士が怯えている、とイスールには見えた。

「城壁に取り付けないのですか?」

「は、はい」

「状況を簡潔に。報告を」

 ごくりと、伝令が再び喉を鳴らす。

「右翼の部隊は、城壁の前に掘られた落とし穴に嵌まり、そこで多くの死傷者が出ています。城壁には弓兵が連なり、我が軍に矢を次々と射ております。

 左翼は--」

 伝令が言葉を切る。再び口を開いた伝令の声は震えていた。

「一人、ただ、一人、弓兵が、いえ、森人の娘が、あ、あれは……」

「森人の娘がどうしたのですか?」

「あ、あれは、ば、化け物です……!と、とても、こ、この世の者とは思えません……!」

 伝令の身体が震えている。

 パニックを起こしかけているのを、必死で抑えている。

「どういうことですか?」

 語気を強めて訊いたイスールに、

「左翼の部隊はほぼ全滅、ということだよ。イスール殿」

 と、低く心地よい声が答えた。

 イスールが顔を上げる。

 膝をついた伝令の後ろに大柄な人物が姿を現す。男の口元には楽しくて仕方がないと言いたげな笑みがある。

 ザワ州の元公子、オセロである。

 ハラが表情を消し、身体を起こす。不快の念を押し隠し、唇を固く閉じる。

 そうしたことを気に留める様子もなく、もしくはあえて無視して、オセロはイスールに向かって言葉を続けた。

「もはや我が軍の兵士は、指揮官がいくら声を張り上げても、誰も前には進もうとしないよ。それも無理はないがな。

 左翼に弓兵は嬢ちゃんしかいない。

 落とし穴も何もない。

 だが、それが罠だな。兵を引き寄せるための。

 右翼の落とし穴を避けて左翼に回り込もうとした兵も含めて、左翼から攻めた兵は全員死んだよ。

 左翼は兵士の死体が山となっている。

 いや、死体の壁だ。

 嬢ちゃんが引いた一線を誰も越えられない。一矢で殺されている。

 あれはなかなか見モノだぞ、イスール殿」

「見てこられたのですか?」

「嬢ちゃんが矢を射るところを、ゾマ市では見られなかったからな。見逃すには惜しい見世物だ」

「森人の娘は、本当に、一人きりなのですか?」

「弓兵としては、そうだ。

 こちらに圧力をかけるためだろうな、左翼の城壁には、嬢ちゃん一人が、わざわざ姿を晒してこちらに矢を向けている。

 他にも兵はいるが、皆、ただの盾でしかない」

「盾、とは?」

「文字通り、ただの盾だよ。

 流石はハラ司令とイスール殿の部下だ。嬢ちゃんに臆することなく矢を雨あられと降らせたが、他の兵たちが盾を手に嬢ちゃんを守っている。こちらの矢はすべて、嬢ちゃん以外の兵が防いでいる。

 しかもだ、イスール殿。

 オレは自分の目を疑ったぞ。

 こちらの矢を防ぐために他の兵たちが盾を立て、頭上にかざし、嬢ちゃんの姿が全く見えなくなっているというのに、嬢ちゃんの矢は、まるで盾をすり抜けたかのように飛んで来るのだぞ。

 盾に覆われて嬢ちゃんの姿が見えなくなったと突撃した兵士が、正確に、喉を、額を射抜かれて悉く殺されてしまった。

 いや、なるほど、これならば、人が溢れてとても矢を通す隙間などないようなゾマ市の西の広場で、オレの背後にいた賊のふくらはぎを射抜けるのも不思議はないと、オレは感心したよ」

「感心した、だと」

 ハラが低く怒りを含んだ声を上げる。

「我が兵が殺されるのを、あなたは、黙って見ていたのか」

「手を出すなとあなたに言われたからな」

 オセロがからかうように言う。

「正攻法で落とすのは無理だとも、昨夜、申し上げたハズだが?」

 イスールが素早くハラとオセロの間に割って入る。ハラがオセロに斬りかからないように、つまり、オセロから、ハラを守るために。

「では、オセロ公子。あなたの方の案を進めていただけますか?」

「よろしいのか?」

 イスールの後ろのハラを伺いながらオセロが訊く。

「よろしいですね」

 柔らかな声で、イスールがハラに確認する。

 イスールとは長い付き合いだ。ハラも愚かではない。イスールの声に含まれた意志と意図を、正確に理解した。

「お願いする。オセロ公子」

 ぎりぎりと奥歯を鳴らしながらハラが答える。

 オセロが笑う。

 顎を引き、口角だけを上げて。

 オセロの青い瞳が光を飲み込んだかのように、深く、昏く沈む。

 イスールの腹の底が冷える。

 イスールにしても長くハラの横で戦場を経巡っている。死線も幾つも潜り抜けてきた。暴力がどういうものか、本質も使い方も知っている。

 しかしそれでも、イスールはオセロの笑いに理解し難い原初的な恐怖を感じた。

「承知いたしました」

 歩み去るオセロを見送り、イスールは伝令に必要な指示を与えた。

「決して無理をしないように」

 と、彼は最後に言った。

「新しい神の信徒たちを城から追い出す。その仕事は、あの方たちにお任せしましょう。わたしたちの仕事は、ただの人であるわたしたちにできる仕事は、その後です」

 いいですね。

 と、念を押してから、怒りに震えるハラを落ち着かせ、兵の配置を変える相談をするために、イスールは後ろを振り返った。



 降らねば良いがのう--、とカン将軍は空を見上げた。

 キャナの兵を疲れさせるという意味では、むしろ雨が降った方がいい。雨は体力だけでなく、気持ちまで削ぐ。

 本来ならば、雨が降ることを願うところだ。

 しかし、龍翁の英雄がいる。

 龍翁は雷神を長とする水を司る神々の一柱だ。雨があちらの英雄に力を与えるのではないか。雨を司るのは平原公主で、根拠のない考えだとは判っている。だが、胸の内の不安を拭い去ることができない。

 キャナががなり立てていた鐘や太鼓は止まっている。

 しばらく前に、前線から駆け戻る兵の姿に気づき、カン将軍は「あの者の行く先に、頭がおる筈じゃ」と、カイトに告げた。

 黙って頷いたカイトが放った矢は遠く木々の間に消えた。

 それからずっと、キャナの陣は静まっている。

「兵が動いています」

 イタカの言葉に、カン将軍は目を細めた。

 木々に隠れて判り難いが、確かにキャナの陣が大きく動いている。

「兵の配置を変えておるようですな」

 カイトの弓に怯み、先に進めなくなった兵を後ろに下がらせているのだろう、旧ロア城の正門前に陣を張っていた兵のほとんどを入れ替えている、とカン将軍には見えた。

「誰か来ました」

 イタカが指をさす。

 旧ロア城の正門前には、狭いが木々のない広場が--通路がある。そこを一人の男が旧ロア城に向かって歩いて来ていた。背の高い細身の男だ。いくさ場にいるとは思えない、さわやかな笑みを浮かべている。

「カイト、待て」

 男を射るつもりだったのだろう、弓に矢を番えたカイトを、カン将軍が止める。

「ご相談したいことがあるのだが、よろしいか!」

 正門前で足を止め、男が声を張り上げる。

「尻尾を巻いて逃げたい、と言うのならば後は追わん!相談には及ばんから、とっとと迷宮大都まで逃げ帰るがよい!」

 カン将軍の悪口を同意と受け取ったか、

「兵を回収させていただきたい!負傷者の手当てもしたい!そちらもお疲れだろう!しばし休戦といきましょう!」

 と、男は叫んだ。

「負傷者のみ連れ帰るがよい!死んだ者に罪はない!きちんと弔ってやるから回収するには及ばんぞ!」

「そちらのお手を煩わせては申し訳ない!こちらでやりますよ!」

 男が手を上げる。

 キャナの兵が一斉に駆け出してくる。多い。数百人はいる。全員が丸腰だ。素手だ。盾も持っていなければ、鎧も身に着けていない軽装だ。手際よく負傷者を助け、死体を後方へと運んでいく。

 カン将軍が鼻を鳴らす。

「まだまだ兵はおる、ということかの」

 カン将軍が、カイトの盾を務める兵たちに向き直る。

「こちらも負傷者の手当てを。壊れた盾があれば交換しておけ。それと、カイトの矢を切らさないよう補充を忘れるなよ。しばしの休憩じゃ。身体をしっかり休ませよ。ただし、まだ、あちらの英雄が姿を見せておらん。

 気は抜くなよ」

 兵たちが「おうっ!」と応え、正門を挟んだ反対側の城壁へと伝令が走る。

「スゲェな、こりゃ!」

 城壁の外で、野卑た大声が響いた。

 カン将軍が目をやると、大柄な男が、矢で射られた死体を運ぼうともせず、興味深そうにじろじろと見ていた。

「これ、お前がやったのか!」

 城壁を振り仰ぎ、カイトに問う。カイトの返事を待つことなく、

「いい腕だなぁ!気に入ったぜ!お前はオレが殺してやるよ、楽にな!だから、そこで大人しく待ってろよ!」

 と言って、死体のひとつを軽々と担いで去って行った。

「洲国の兵のようですね」

 イタカの問いに、カン将軍が頷く。

「洲国の兵で押し出してくるつもりかのう」

 龍翁様の英雄が来るな。と、思いながらカン将軍が言う。表情には出さないが、主導権を握られているな、と思う。

「意外と、決着は、早いかのぉ」

「来ますか」

 カン将軍の言葉の意味を察して、イタカが問う。

「イタカ隊長も、皆も、抜かりなきよう。各々のやるべきことを、忘れぬように」

「ええ」

 イタカの視線の先に、最初に現れた細身の男がいる。何かを点検するかのように、血の跡だけが残った正門前を歩いている。

「助かりました!では!」

 城壁の上に向かって、男が笑顔で片手を上げる。

 森の奥へと歩み去る男と入れ替わるように、ばらばらとキャナの兵が現れた。盾を持った兵士たちが、旧ロア城の正門前に続く通路に駆け出して来て陣形を組んだ。最前列の兵は盾を前方へと構え、後ろに続く兵は盾を頭上に掲げ、側面も堅く盾で塞いで、5人が横に並んだ。それが20列ぐらい続いている。

「おう!」

 と、声を揃え、盾で周りを固めたままキャナの兵士が前へと進み始める。

 じりじりと正門に近づいて来る。

『何か変だ』

 と、カイトは思った。

 兵士たちから殺気が感じられない。

 狂泉の森でハルと出会った時に見た若い狼を思い出す。革ノ月でのことだ。仲間がハルを襲う間にハルの注意を引くために囮となった狼のことだ。

「あれ、囮かも」

「フム」

 カン将軍が目を細める。

「イタカ殿。魔術の気配はありますかな?」

「いえ」

 イタカが感覚を研ぎ澄ませる。大気の臭いを嗅ぎ、精霊の気配を探る。短く呪を口にする。

 手応えがない。

 誰かが魔術を使っていれば独特の抵抗がある。

 それがない。

「わたしに判る限りでは、彼らが魔術を使っている気配はありません」

「やはり、囮か」

 カン将軍が頷く。

「だが、放っておく、という訳にはいかぬの」

「あの人たちの盾をわたしが何とかする」

「判った。後はこちらでやろう」

 伝令を呼ぶ。

 正門を挟んだ城壁の上にいる弓兵への指示を与える。

 カイトが弓を構える。

 弦を引く。

 カイトが狙ったのは、慎重に進んではいたものの、僅かに覗いている最前列の兵たちの足先である。足先を射抜けば隊列が乱れる。そうして少しでも盾と盾の間に隙間ができれば矢を通すには十分だ。

 一人が倒れれば、両側が開く。後ろの兵も射抜ける。

 とにかくまず最前列の兵を倒し、あとはカンさんたちに任せれば--。

 耳が機能不全を起こす。投げ飛ばされる。何かの欠片がパラパラと身体の上に落ちてくる。

 カイトは素早く跳ね起きて視線を回した。

 30mほど先で城壁が切れている。

 崩れている。

「おのれ」

 カン将軍が歯ぎしりしながら叫ぶ声が、機能不全を起こした耳に、遠く聞こえた。

「城門ではなく、城壁そのものを壊しおったか!」

 キャナの兵士たちの喚声が聞こえた。

 正門に近づいていた兵士が盾を投げ出し、林からも多くの兵士が駆け出し、破壊された城壁を目指して走っている。

 奇声を上げながら先頭を走っているのは、先程カイトに向かって、お前はオレが殺してやるよ、と叫んだ洲国の男だ。

「おらおら!オレが一番乗り--!」

 男の声が途切れ、野卑た笑みを口元に残したまま激しく転倒する。

 カイトが男の頭を射抜いたのである。

 他の兵たちも次々と屍となる。盾を手にしたままの兵は足を射抜いた。殺さない。いや、止めを刺す間がない。

 仲間につまずき、何人もの兵が倒れる。

 だが、兵たちは止まらない。仲間を踏みつけ、先へ進もうとする。

「イタカ殿!」

 カイトの背後でカン将軍が叫ぶ。

「承知いたしました」

 イタカが城内へ飛び降りるのを、カイトは背中で感じた。

「もう、この城はダメじゃ!」

 矢を射続けるカイトに、カン将軍が叫ぶ。

「ワシなら……」

 爆発音がカン将軍の声を遮る。

 正門を挟んだ反対側の城壁の一部が消し飛んだのである。

「……もう一ヶ所、開けると言いたかったのじゃが。言うまでもなかったか」

 カン将軍がカイトを振り返る。

「最早、この城ではミユ様をお守りすることは出来……」

 再びカン将軍の声が途切れる。城壁が破壊されたのではない。長剣が一閃し、カン将軍の首を飛ばしたのである。

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