2-8(狂泉の森人たち8)
「さて。そろそろ夕食の用意をした方がいいかな」
陽が傾き始めた頃、プリンスはそう言って荷物を下ろし、弓を手にした。カイトにも異論はない。
森の中をプリンスが見回し、一本の木の脇に向かって矢を放った。獲物の姿はどこにもない。プリンスが矢を放った後にかさりっと音がして、1羽のウサギが木の影から現れたところに、矢が突き刺さった。
『早い』
軽薄な外見と異なり、かなり上手い。
いや、カイトが知る中では一番かも知れない。
少なくとも、クル一族の誰よりも上だ。
「すぐ先に水場があるから、そこで野宿をしようか」
ウサギを回収したプリンスが、低く落ち着いた声で言う。カイトの返事を待つことなく荷物を拾い上げ、背中を向ける。
カイトの脳裏に、ヴィトの声がなぜか鮮明に蘇った。森の外から来た、客である商人を評した声が。
『こいつはただカッコつけてるだけさ、嬢ちゃん』
ヴィトの声を大事に胸に仕舞って、カイトはプリンスの後を追った。
「まだ何か納得できないみたいだね、カイトちゃん」
焚火を挟んで座ったプリンスに問われて、
「どうして大平原で、そんな大いくさなんかしているのかな」
とカイトは問い返した。
ウサギは既に二人の腹の中である。
「生きるためだろうね」
「どういうこと?」
「この森では判り難いと思うよ。
カイトちゃんは想像できるかな、もし、何ヶ月も獲物が獲れなくて、カイトちゃんの家族が飢え死にしそうになってて、森で一匹のウサギを見つけたとする。その時、同じように飢え死にしそうな家族を抱えた猟師と出会って、カイトちゃんはウサギを譲ることはできる?」
カイトが考え込む。
確かに狂泉の森で何ヶ月も獲物が獲れないという状況を想像するのは難しい。森は広く豊かで、人は少ない。
飢える、というような思いもカイトはしたことがない。
だが、
「譲れない、と思う」
と、カイトは答えた。
「森の外はね、そんなところなんだよ。
王の一番大きな責務はね、人々を食べさせることだとボクは思う。人々は、自分を食べさせてくれる人を王と認めて、権力を与える。王は与えられた権力を使って戦争を起こし、領土を広げるんだ。
なるべく多くの土地を支配して、自分を支持してくれる人々に与える為にね」
「……でも」
「なに?」
プリンスの問いに答えることなく、カイトは首を振った。
「……わたしには、よく判らない」
「理解する必要はないんだよ、カイトちゃん」
焚火の向こうからプリンスが言う。
「ただ、そういうものだと知っているだけで十分なんだよ。だってカイトちゃんは森人なんだから。
外の人々とは違うんだから。
それでいいんだよ」
「ただね、ボクは大平原でいくさが起こるのは、別の理由もあるんじゃないかと思うんだ」
沈黙を破ってプリンスが優しくカイトに話しかける。
「大平原を支配している神様は、どなただっけ」
「平原公主さま」
カイトは即答した。
動物と狩猟の神だ。雨を司る神でもある。
幼いころに聞いたことがある。森を支配する狂泉と平原公主は、神々の中でも特に仲が良い、というおとぎ話のような神話を。闇の神に襲われた国を、二柱の神は協力して救ったという。
「狂泉様と一番仲が良い神様。それがなに?」
「狂泉様と平原公主様はどちらも狩猟の女神だよね」
「うん」
「狩猟を司るだけあって、お二人とも血を好まれる。大平原で戦乱が絶えない、それも理由のひとつじゃないかとボクは思うんだ」
軽く首を落として眠るカイトに、プリンスはそっと近づいた。彼が1mほどのところまで近づいたところで、カイトは、
「それ以上、近づかないで」
と警告した。
「大丈夫、怖くないよ」
カイトの気持ちとは随分遠いところで、甘く、プリンスが囁く。
「そんな気はないの」
きっぱりと断ったが、プリンスは更にカイトに近づき、「恥ずかしがらなくていいんだよ」とまったく見当違いのことを言った。
カイトに伸ばしたプリンスの手が空を切る。
抜き身の山刀がプリンスの首筋に冷たく当たる。いつの間にか、カイトはプリンスの背後にいた。
「脅しじゃ……」
カイトは言葉を続けられなかった。
あっと思った時には天地が回って、彼女は地面に倒れていた。焚火に照らされたプリンスの笑顔が、彼女の上にあった。
「お転婆さんだね、カ……」
プリンスの声が宙に舞う。今度はプリンスの視界が回った。
「えっ」
気がつくと地面に転がされていて、プリンスは驚いて跳ね起きた。左手が痛い。カイトは、と探すと、彼から2mほど離れて立っていた。
「何をしたの」
プリンスにそう問うたカイトの顔には、怒りよりも驚きがあった。
苦笑がプリンスの顔に浮かぶ。
「それはこっちのセリフだよ。カイトちゃん、何をしたの?」
カイトが顎を引く。
カイトの視線が、僅かに、プリンスから外れる。
彼女の意識の先をプリンスは追い、カイトが、少し離れたところに置いた弓矢を取ろうとしているのだと気づいた。
「ボクを弓で射るなんてやめてね。ボクが死んだら悲しむ女の子がいっぱいいるから。もう何もしないよ」
「……」
「ホントだよ。嫌がる女の子には何もしない。カイトちゃんがホントに嫌がっているのは充分判ったから。
はい」
と、カイトに向かって差し出したプリンスの手には、カイトの山刀があった。
「信じられない」
「狂泉様に誓うよ」
カイトは警戒を解いた。彼の軽い口調とは違い、言葉の中身は重かった。神の支配する森で神に誓ったのである。誓いを破れば、神がプリンスを許さないだろう。
山刀を受け取りながら、カイトはもう一度訊いた。
「何をしたの」
「カイトちゃんがボクとお付き合いしてくれるのなら教えてあげるよ」
「だったらいい」
むすっとカイトが答える。
「ねぇ、カイトちゃん」
「なに」
「もしかして、好きな人がいるの?」
少し間が開いた。
「……いません、そんな人」
「ふーん」
悪戯っぽくプリンスが微笑する。
「いま考えた、その人のことが好きなんじゃないの、カイトちゃん?」
「な」
カイトが動揺する。ケンカ別れした、いや、ケンカしかしたことのない幼馴染の少年の顔が、なぜかちらついた。
「そ、そんなこと……!」
はははははと、プリンスは笑った。
「ホント、可愛いね、カイトちゃんは」
怒りか、戸惑いか、顔を真っ赤にして、カイトは射殺さんばかりの激しさでプリンスを睨みつけた。




