24-5(新しい神5(たとえ、神々の敵となろうとも1))
ミユとフウの前に立った存在は、自らを神とは名乗っていない。
しかし、ミユもフウも、二人それぞれが違った姿に見えているそれが、新しく生まれた神であることを疑わなかった。疑わないことを、不思議とも思わなかった。
ひやりとした空気がミユとフウを包んでいる。
二人の前に立った女には、影がなかった。足元だけでなく、顔にも身体にもひとつも陰影がなく、一見すると女はただの絵の様にも見えた。
周囲を照らし出すほどではなく、光を纏っているかのように、女が淡く輝いている。
女が人ならざる存在なのは間違いない。
新しい神は、人の絶望によって生まれる。そう言われている。
ミユもフウも知っている。
だから二人が女を新しい神と信じたかと言うと、それだけではない。
狂泉の森に生まれたフウは、森に漂う神の気配を常に感じていた。ミユにしても、神殿に満ちた神の気配には慣れ親しんでいた。心臓の下、こぶし二つ分下に、重く確かな畏怖がある。それが二人に、己の前に立つ存在が新しく生まれた神なのだと、明瞭に教えていた。
「私を呼んだ者よ」
ミユにとっては死んだマイの姿で、マイとは似ても似つかぬ太い声で、新しい神はミユに声をかけた。
「はい」
頭を垂れたままミユが応える。
「お前の望みは、何だ」
「わたしの望み」
ミユが呟く。
菫色のミユの瞳が深く沈む。
怖いような沈黙が続く。だが、迷っているんじゃない。と、フウは悟った。ミユ様は怒りに囚われている。胸の奥で渦巻く怒りが余りに大きすぎて喉につかえ、言葉になっていないだけだ。
「わたしの望みは……」と言いかけたミユの低い声を、「ダメです!」とフウは鋭く遮った。
「え?」
ミユがフウに顔を向ける。
「ダメです!ミユ様!それは、絶対にダメです!」
ロールーズの街の古老たちに、死を。ミユ様はそう言おうとしている。と、フウは察した。
しかし、その願いはミユ様自身を壊してしまう。
とも、思った。
「フウ」
フウの栗色の瞳を、ミユの菫色の瞳が訝し気に見返す。
ミユの口元に笑みが浮かんだ。
なぜフウが止めるのか。ミユは正しく理解した。
「そうですね。これは、望んではいけない望みですね」
「はい」
必死に頷くフウに、ミユが「ありがとう、フウ」と微笑む。
「我が主よ」
ミユが再び頭を下げる。
「わたしに力をお与えください」
「どんな力を望む」
応じた新しい神の声は、無機質で、平坦であり、不思議なことに深い優しさがあった。
「トワ王国の民が幸せになれるための力を。そのために、郡主様を、ザカラ様を討つことのできる力を、望みます」
「ここに--」
小さくミユが呟く。新しい神に向けられた視線が宙を彷徨う。道が見えた気がした。とても細い、けれども確かな道が。
視線を落とす。膝をついたまま、自分の両手を見る。
王の手とはとても思えないゴツゴツした手だ。ファロの人々とともにずっと働いてきた手だ。
傍らで見守るフウに、ミユの呟きの意味は判らない。
新しい神の言葉は、彼女には聞こえていない。
けれど、ミユが顔を上げ、自分に視線を向けたとき、フウは『あ』と思った。
『いつものミユ様だ』
と、思った。
オム市で再会してから、ミユはずっと張り詰めていた。フウと二人だけになっても緊張は解け切らず、今にも責任の重さに押し潰されそうに見えた。
トワ王国の王。
という芝居をやめられないでいる。
フウはそう感じていた。
まだファロにいた頃。カイトが訪れるより前のことだ。
郡庁からの税が厳しさを増した時に、対策を話し合うために集まったファロの有力者たちに向かって、「田畑を開きましょう」とミユは笑顔で提案した。「新しく。郡庁には報告が遅れるかも知れませんが、神は許して下さいます、きっと」
隠田を造ろうと言っているのだと最初に気づいたのはマウロで、あっけにとられて沈黙した後、声を上げて大笑した。
フウも笑い、難しい顔をしていたファロの有力者たちも笑った。
郡庁には知られないよう、ファロの山野のさらに奥に新しく田畑を開いた。
ミユは楽しそうだった。いつも笑って、民人の先頭に立って木を切り倒し、鍬を振るい、水路を造った。
自分を見つめるミユの笑みに陰りはない。みんなで一緒に働いていた時のように。何か覚悟を決めた笑みだ。フウはそう察した。
だから、ミユが「フウ」と言った声に被せるように、フウは「イヤです」と、強い口調で答えた。
ミユが驚いて口をつぐみ、苦笑する。
「まだ何も言ってませんよ」
「間違ってますか」
「ええ。間違っています」
何をと、主語を飛ばして二人が言う。
「あたし、言ったはずです。オム市で。ミユ様は大丈夫ですって。あたしたちが、……ううん、あたしがいるから大丈夫ですって」
「そうでしたね」
「だから。イヤです」
「フウ」
フウが息を吸う。
「あたしはずっと、ミユ様と一緒に、います」
フウの言葉が、一陣の風となってミユの身体を通り過ぎる。まるで目の前で数えきれないほどの木の葉が舞ったかのように、ミユはフウの姿を一瞬、見失った。
ミユがまばたきする。
心の内にフウの言葉だけが残っている。
今のは--。
と、不思議に思う。
しかし、一心に自分を見返すフウの栗色の瞳に、ミユは疑問を忘れた。
「そうですか」
「はい」
「判りました」
諦めたように頷いたが、菫色の瞳の奥で閃いた何かを隠して、ミユは微笑んだ。
「これからどうされるのですか?」
「そうですね」
フウの問いに、短くミユが考える。
「まずはイタカ先生に、ご相談することにいたしましょう」
ロールーズの街を築いたのは、トワ王国イダ朝の4代目の王である。
イダ朝の中興の祖と称えられる王で、王はロールーズの街を拠点として、積極的に東にも領土を拡げていった。現在のトワ郡の郡域からすればロールーズの街は東の外れになるが、当時は国のほぼ中央に位置した街だったのである。
サッシャたちトワ王国軍は、ロールーズの街が王都だった頃の王宮--トワ郡の郡支所だった建物--を仮の王宮として利用していた。
イタカの私室も、元王宮であり、仮の王宮でもある元郡支所の一角にあった。
「わたしは新しい神に、姫巫女としてお仕えすることにしました。イタカ先生」
イタカの私室で、ミユはそう切り出した。
「新しい神?」
酔っていた。いつもよりも。だからイタカは咄嗟には、ミユが何を言っているか、判らなかった。
「スクート様を、殺めました」
「え?」
「ですからわたしはもう、海神様の信徒ではありません」
「え?」
助けを求めてイタカはフウに視線を向けた。フウがこくりと頷く。イタカの頭が少し回った。
血の気が引いた。
「スクート殿を、殺した?」
「はい」
ミユが頷く。
「こちらにいらっしゃるのが、我が主です」
ポカンとイタカが口を開ける。さっきまで誰もいなかった筈のミユとフウの後ろに、細身で背の高い男の姿があった。
「……三代様」
呆然とイタカが呟く。
「我が主です。イタカ先生」
「馬鹿な!」
イタカが叫ぶ。
「自分が何を言っているか、判っているのか!」
我を忘れて立ち上がる。
「郡主様を討ちます」
静かにミユが言う。
「え?」
予想外の言葉に、イタカの怒りが行き場を失う。
「我が主のお力で、わたしには、どこに郡主様がいらっしゃるか判ります。
郡主様は、ここに、ロールーズの街の外の、クスルクスル王国軍の陣内にいらっしゃいます」
「ここに?」
ミユが頷く。
「もう、後戻りはできません」
イタカは、ミユを見、フウを見、新しい神を見た。
「なんてことだ」
絞り出すように言って、腰を落とし、顔を伏せる。
「イタカ先生」
「なんだ」
「今日までありがとうございました」
イタカが顔を上げると、ミユの口元に笑みがあった。
イタカは悟った。
旧ロア城にひとりで乗り込んで行ったことを思い出すまでもない。ミユのことは子供の頃からよく知っている。
「また二人だけで行く気か」
「はい」
ミユが頷く。フウも。
「サッシャ様にご報告してから、にはなりますが」
「ダメだ」
「申し訳ありません。イタカ先生」
「オレも行く」
言ってからイタカは、自分の言葉に自分で驚いた。しかし、驚きはすぐに身体中が痺れるような理解に変わった。
そうか。オレはこのために生きていたのか。
と、腑に落ちた。
「それはいけません、イタカ先生!」
ミユの声に動揺が混じる。
イタカは苦笑した。
「自分は良くて、人はダメか?ミユ」
「イタカ先生まで……!」
「死ぬ必要はない、か?」
「はい」
懸命にミユが頷く。
「ザカラの首を取れれば、オレも本望だよ」
イタカは立ち上がった。忘れていた酔いが眩暈となって、「あ。急に立ったら気分が」と頼りなく呟く。自分を支えようとしてくれたミユとフウの手を軽く押し返し、椅子を脇に避ける。膝をつく。人ならざる者に向かって頭を垂れる。
「我が主よ。わたしにも主のお力をお与え下さい。ミユを、主の姫巫女を守ることのできる力を」
新しい神がイタカに視線を向ける。
「知る者よ」
知る者と呼ばれたイタカの身体がびくりっと震える。
「果てまで進む覚悟は、あるか?」
イタカの心臓深くに言葉が落ちた。突き刺さった。
「はい」
短くイタカが応じる。
「よかろう」
と言った新しい神の声に感情はない。
「では、汝に力を授けよう。我が姫巫女を守るための力を。
英雄の力を」