24-4(新しい神4(遠方より訪れし者))
「これが、矢に結び付けられて城壁の上に落ちていたそうです」
ミユがクロに差し出した手紙は、触る手が穢れそうなほどの悪意の塊だった。
『スクート神官は、こちらにいます』
地図も添えてある。
クスルクスル王国軍に囲まれる前に、城壁の外の街をぶらついたこともある。漠然とではあったが、クロにも場所の見当はついた。
署名はない。
あなた方と志を同じくする者です、と記してある。
反吐が出そうになった。
手紙の主は、自分の手を汚そうとしていない。味方のフリをして、無責任な正義を押し付けて満足している。
いつものクロならすぐに破り捨てていただろう。だが、クロもまた悪意に囚われた。ミユと同じく。
彼の心を黒く塗り潰していた怒りが、悪意に縋って行き場を見つけた。
「どうしてこれがお姫様のところに?」
「他に届ける先がなかったと、届けてくれた兵士は言っていました」
トワ王国軍の誰もが、子供たちの死に、キヒコの死に衝撃を受けていた。誰もがクロのように部屋に閉じこもっていた。兵士は届け先を探し、不幸にもミユに行き会ったのである。
「スクート様にお聞きしたいことがあります」
「そうか」
クロはミユと、ミユの傍らに立つフウを見て、「カエルにも手伝ってもらうとするか--」と、言った。
西門から出て、クロとカエルは濠を泳いで渡り、フウはひとり気配を殺して高台の兵士の間ををすり抜け、三人でクスルクスル王国の陣へと忍び込んだ。眠るスクートをフウの呪でより深く眠らせて担ぎ出し、帰りは高台にいる兵士たちをひとり残らずフウの呪で眠らせてロールーズの街へと戻った。
西門を内側から開けたのはミユである。
「え?」
スクートが気の抜けた声を上げる。
「え?」
手を背中で縛られている。と、ぼんやりと悟る。しかしまだ、自分の置かれた状況を理解できない。
「ここは」
「スクート様」
呼びかけられて視線を回し、スクートはようやく知った顔に気づいた。
「ミユ」
険しい顔で自分を見下ろすミユが、獣人の後ろに立っている。フウも一緒だ。スクートは安堵した。
「ここはどこだろう」
「ロールーズだよ」
答えたのはミユでもフウでも獣人でもなく、別の男だった。視線を回すと、平べったい顔の小男が目を血走らせて彼を睨んでいた。
カエルだ。
「君は」
「お前に騙されて、危うく殺されるとこだったぜ。せんせい」
「え?」
スクートはまだ事情が飲み込めていない。
「え?」
「スクート様」
スクートがミユに視線を戻す。
「何故、あんなことをされたのですか?」
「え?」
「みんなあなたを信じていたのに。それなのに、なぜ?」
「わたしは、するべきことをしただけだよ、ミユ」
答えたスクートの声には戸惑いしかない。
「子供たちを軍に渡すことが、するべきことなのですか!あなたの、あなたの教え子だったのに!みんな、あなたを信じて、だからここを出たのに!」
「何を怒っているんだい?ミユ」
スクートは、きょとんとしている。
ミユの心に言いようのない不快さが渦巻いた。
「スクート様」
ミユの低い声には、絶望があった。
「何だい、ミユ」
「子供たちを軍に差し出す。それが神の御心に添うことだったと、あなたはおっしゃるのですか?」
「そうだよ」
少しの迷いもなく、スクートが言う。
「秩序をもたらす。それこそが、神々が望まれることだよ」
「だったら!」
ミユが叫ぶ。
「そんな神なんか、わたしは認めません!」
「ミユ……!」
スクートが顔色を変える。見苦しいほど狼狽する。
「駄目だよ、そんなことを言っては!いますぐ取り消しなさい!」
「……あなたは、なぜ、そんなことを……言えるのですか」
喘ぎながら訊いたミユに、スクートの叫び声が答えた。
「君を心配しているからだよ!君のためだよ!ミユ!」
クロの後ろでミユが沈黙する。
クロがスクートの胸元を掴んだ手に力を入れる。小さく息を吐く。
「ムダだよ、お姫様。コイツには判らねぇよ。あんたがどうして怒っているか」
無力感がクロの声に混じる。
「どうする?お姫様」
「クロさん」
「ん」
「剣を貸していただけますか?」
「え?」
スクートが驚いてミユを見上げる。
「あんたがやる必要はないんだぜ?あんたがやらなくても、オレがやる。オレがやらなくても、カエルがやるよ」
クロはスクートの胸元を掴み、彼を睨んだまま言った。
カエルがミユに顔を向け、黙って頷く。
「いいえ」
ミユは首を振った。
「これはわたしの責任です」
「そうかい」
と、頷き、クロはカエルに、
「ちょっと代わってくれ」
と声をかけた。
「おう」
カエルが後ろからスクートを押さえる。
クロが立ち上がり、右の腰の剣を鞘ごと差し出す。
ミユの顔は蒼ざめている。菫色の瞳は昏く沈んでいる。深い悲しみの裏で言葉にできない激情が渦巻いている。
『こんな時でもきれいだなぁ。お姫様は』
と、クロは思った。
彼女にはスクートの存在そのものが信じられなかっただろう。こんな人がいるのか、と思っただろう。
だけど、こんなモンだよ、とクロは思う。
多かれ少なかれ、人間なんてこんなモンだよ。と。
でも、それだけじゃねえ。お姫様もそう思ったんだろう?ロールーズの街を出るときに手を振ってくれたマイという子。あの子のことを思ったかい?キヒコの爺さんのことを思ったかい?
ひとり戻って来たカエルや、ずっと寄り添ってくれてるフウのことを、さ。
それで決めたんだよな、コイツを殺そうって。
オレなら殺しゃしねぇけどな。
こんなヤツ、舌でも抜いて、両の手でも切り落として、放り出してやればいいんだ。殺してやるよりその方が堪えるハズさ、コイツには。
きれいな手だなぁ。殺す価値もねぇこんなヤツの血で、お姫様のきれいな手を汚したくねぇなぁ。
お姫様がヤル前に、オレが殺るべきかなぁ。
いや、それは違うよな。
自分の手で始末をつけなけりゃあ、納得できねぇよな。
ああ。でも、ホント。
『こんな時でもきれいだなぁ。お姫様は』
ホントにきれいで。
悲しいねぇ。
「フウ。お姫様を手伝ってやれ」
「はい」
フウが剣を受け取り、「ミユ様」と言って、冷たいミユの手に剣を握らせる。「大丈夫です。あたしがいます」
ミユがスクートを見下ろし、小さく頷く。
クロはカエルと二人で、スクートを背後から押さえつけ、胸を突き出させた。ここに至ってようやく、スクートは自分が、理不尽に殺されようとしていることに気づいた。
「ま、待て、な、なんで」
「大丈夫だよ」
クロがスクートの耳元で囁く。
「すぐに終わるさ。それに、オレらもすぐにあんたと同じトコに行くからよ。寂しくはねぇから心配はねえよ」
「カシラがいるしな、もう」
「ああ、そうだな」
ミユが膝をつく。スクートの胸に剣先を当てる。大きく息を吸い、ぐっと体重を前にかける。フウが傍らで支えている。二人分の体重をかけられて、剣はスクートの胸の奥へと深く差し込まれた。
ミユは思わず目を閉じ、スクートの唇が動いたのは見なかった。なんで……。と、声もなくスクートは呟き、短く痙攣して、力が抜けた。
「ミユ様」
フウがミユに囁く。
「もう、手を離されても大丈夫です」
固く握った手をミユが開く。震える手を隠して立ち上がる。
「クロさん」
「なんだい。お姫様」
「スクート様のご遺体を、丁重に葬って差し上げて下さい」
「ああ、いいぜ」
文句を言おうとするカエルを制して、クロが頷く。
ミユが部屋を出て行く。足取りが覚束ない。フウがすぐ後ろに従い、「本意じゃねえが」とクロはスクートの死体を見下ろした。
「きちんと葬ってやるよ。あんたのような、人でなしにはなりたくねぇからな」
ミユはロールーズの街へと出た。スクートから少しでも遠くに離れたかった。現実から逃れたかった。
ミユの傍らにはフウがいる。
「フウ、何故なのでしょう」
フウを見ることなく、ミユは尋ねた。
「ミユ様が悪いんじゃありません」
フウの言葉にミユが首を振る。
「ロールーズの街の人々は、知っていた筈です」
あっ、とフウは思った。
「何故、こんなことができるのでしょう」
フウには返す言葉がない。
確かに彼らは知っていたのだろう。少なくとも子供たちを逃がすことを訴え出た街の古老たちはみんな、知っていた筈だ。とフウも思う。
ミユは自分がどこにいるか見失っている。
ロールーズの街を歩きながら、深い森の中にいるかのように感じている。頭上には複雑に絡み合った木々だけがある。足元は頼りなく、自分がまだ立っているのか、それとも倒れてしまっているのか、ミユには判らなくなっている。
『あの子たちのところに行きたい』
脈絡もなくミユは思った。
『わたしも、あの子たちのところへ。あの子たちのところへ行って--』
フウが彼女を支えている。
小さな明かりとなって彼女の傍らにいる。
ミユが足を止める。微かに身体を震わせる。「ああ」と、声を漏らす。
フウはミユの視線を追い、ビクリッと身体を震わせた。ミユが見つめているのは、ロールーズの街の路地の暗がりだ。
そこに、一人の女がいた。
いる筈のない人が。
だが、ミユが「生きていてくれたの……?」と震える声で呟き、「えっ」とフウは声を上げた。
女が二人に歩み寄ってくる。
二人の前で足を止め、瞬きをしない目でミユを見つめる。
唇が動く。
「私を呼んだのは、お前か?」
硬く、重い声が響く。
女の声ではない。いや、人の声ですらない。
違う。と、フウは悟った。これは、母さまじゃない。母さまと見えているのは、あたしだけだ。
これは。この方は。
ミユも悟った。この子はマイではない。カエルのように、クスルクスル王国の陣内から逃れて来たんじゃない。
何処からか来られた方だ。
わたしの呼びかけに。願いに応えて。
ミユは膝をついた。
「我が主よ」
と、ミユは新しく生まれた神に向かって頭を垂れた。