2-7(狂泉の森人たち7)
『殺そう』
カイトが咄嗟にそう思ったのも無理はない。
「どこへ行くの?」
声をかけてきたのは男の方である。
歳は20代前半か。クセのない髪に明るい笑顔。軽薄と表現するのがぴったりくる外見だったが、この人は信用できると--きちんと森と向き合っている人だと--カイトは思った。
「酔林国へ」
信用できると思うのと見知らぬ相手を警戒するのは別で、カイトは軽く山刀に手を添わせて、短く答えた。
「酔林国かぁ。紫廟山を越えないといけないなぁ」
「シビョウサンって、あれ?」
カイトが『あれ?』と指さしたのは、森の木々である。彼らがいる深い森の中では木々以外、何も見えない。ただ、随分前からカイトの左手側、南側に山岳地帯が続いていることをカイトは知っている。
山岳地帯の存在を最初にカイトに教えたのは、南から吹いて来た冷たい風だ。森の木々が切れた時に、さほど高くないなだらかな山がまず見えた。視線を上げると、幾重にも幾重にも連なった山々が見えた。
「わぁ」と、カイトは思わず声を上げた。遠く青く霞んだ峰々の間に、ひときわ高く屹立した、独立峰と見紛えそうな山があった。
カイトが『あれ?』と森の木々越しに指さしたのは、その山だ。
酔林国がどこにあるかカイトは正確には知らない。知らないまま、ただ西へ、狂泉の森人であるカイトの感覚では南へと、大平原に沿って旅をして来たのである。
「そう」
男が頷く。
「ちょうどボクの知り合いが山を越える筈だから紹介してあげるよ。ここから遠くない集落にいるから」
「ありがとう。どんな人なの、その人」
「キャナの商人でね、タルルナっていうんだ。大平原とキャナの間を何度も往復しているから大丈夫、とても逞しいオバさまだよ。
ところで、君の名前、教えてもらえる?」
「カイト。クル一族のカイト。あなたは?」
そう問い返したカイトに、
「ボクのことは、森のプリンス、と呼んでくれる?カイトちゃん」
と、男は笑って答えた。
表記を統一するという意味では、男は「王太子」、もしくは「王子」と名乗ったとするべきだろう。だが、男の口調は軽く、言葉のニュアンスとしては「プリンス」とした方がより近い。
カイトは、「プリンス」という言葉が何を意味しているかは知らなかったが、少なくとも人の名でないことは理解していた。許しなく森に入った男女、猟師の矢に射られて死んだあの若い男が、「王太子」だったはずだ。
からかわれている、とカイトは認識した。
「ふざけないで」
怒りを込めてカイトはプリンスを睨み据えた。山刀を握った手に力を入れる。
「ふざけてなんかいないよ。みんなボクのことをそう呼んでいるんだ。森のプリンスって。本当だよ、カイトちゃん」
プリンスの口調はどこまでも軽い。
「そうだとしても、わたしのことをなれなれしく呼ばないで」
「可愛い女の子はみんな、ちゃん付けで呼ぶことにしているんだ。口癖だから許してくれないかな。カイトちゃん」
ふーとカイトが息を吐く。怒っちゃダメだ、これぐらいのことで怒っちゃダメだ、と自分に言い聞かせる。
そこに、プリンスが言葉を被せた。
「もっと怒りを抑えられるようにならないとダメだよ、カイトちゃん」
カイトは山刀から手を放した。巫女である老女に叱られたような、妙な感覚があった。
「判った」
しぶしぶとそう口にする。
「判りやすいね、カイトちゃんは」
と、プリンスは、カイトの怒りを解きほぐすように、朗らかに笑った。
「それは、……じゃないかなぁ」
カイトの話を聞いて、プリンスはひとつの国の名を口にした。プリンスが口にしたのは、赤子を森人に託して死んだ、男女の故国の名である。
プリンス(王太子)ってなに?と訊いたカイトに、どうしてそんなことを訊くの?とプリンスが逆に訊き返して、話が飛んだのである。
「ちょうどカイトちゃんが彼らに会った頃に滅ぼされたはずだよ、その国。ただし、平原王自身に滅ぼされたんじゃなくて、平原王についた、すぐ隣りの国にね。
元々両国は隣国同士、とても仲が悪くて、滅ぼした方の国は平原王の歓心を買う為に王の一族を皆殺しにしたんじゃなかったかな。
意気地のない王太子がいるって聞いたけど、そうか、森に入って死んだんだ」
「うん」
カイトが曖昧に頷く。プリンスは、あまり変わらないカイトの表情の裏にある気持ちを目ざとく読んだ。
「なにか納得していないみたいだね、カイトちゃん」
「……よく判らないの。あの人たち、本当に死ぬしかなかったのかな」
「もし、カイトちゃんが彼らと同じ立場に立ったとしたら、カイトちゃんならどうしてた?」
問われて、カイトは奴隷の男のことを思い出した。首を落されることさえ気に留めず、国へと帰って行った彼のことを。
「もし死ぬと判っていても、ひとりでも多くの敵を殺してから死ぬ、と思う」
そちらの方が、カイトにはまだ理解できた。
「カイトちゃんはそうなんだ。ボクもそちらかなぁ。
でも、人には人の在り様があるし、子供だけは助けたいっていう彼らの気持ちも判る。それに、彼らが森で死んだのは、彼らの国にとっても意外と悪くない選択だったかも知れないよ」
「どういうこと?」
「平原王の支配がいつまで続くか判らないからね。王太子の子が生きているとなったら、国を取り戻す時にはいい旗印になるだろうから」
「旗印……」
カイトにはやはりよく判らない。
「死んだ王太子を高く評価している人もいるんだよ。これから会いに行くタルルナもそのうちの一人だね。
彼の本当の意図は判らないけれど、もしかすると国を取り戻すことまで考えて、子供を森人に託したのかも知れないね」
あの人は、とカイトは死んだ女のことを思い出した。自分の胸を突く前に、赤子をじっと見詰めていた母親を。
あの人はそんなこと、考えていただろうか……。
カイトにはそうは思えなかった。
「そもそもヘイゲンオウって、なに?」
「王だよ。大平原全体の」
「大平原のオウ、って意味なの?それじゃあ、オウって何?”水”のこと?」
「違うよ」
プリンスがきっぱりと、静かに否定する。
「乱暴に言っちゃえば、国の中で人を殺す権利を持った、たった一人のことだね。
森の外はね、随分、こことは違うんだ。この森では、みんな等しく命を奪うよね。命を奪うし、奪われる。同じ生き物だからね。
もちろん無駄な殺生はしないけど」
「森の外は違うの?」
「違うね。
国が何かと言えば、一族と考えてもいいと思う。運命共同体という意味で。
でも、国を一族と言うには、あまりにも人の数が多い。
だから国の中で同じ民人同士が殺し合うこともあるんだ。でも、そんなことを許していたら運命共同体として成り立たない。だから、森の外の人たちは人を殺してもいい力をひとりに集中させる。運命共同体を維持するために。
それが王。
ボクはそう思ってる。
森の外ではね、王だけが人を殺しても許される。王と、王から人を殺す権利を委任された人たちだけがね」
「プリンスは森の外に出たことがあるの?」
「あるよ。短い間だけど。外の街で暮らしたこともあるよ。それでムリと思ったね。ボクには森の方が合ってるって」
「ふーん」
「森の外もね、悪いことばかりじゃないんだ。森では弱い者は生きていけない。革ノ月で死ぬ者も多いよね。でも森の外では、弱い者でも生きていけるように助けようとする。
互いに殺し合うくせにね。
不思議なところだよ、森の外って」
「そうなんだ」
「話を戻すとね、王にはいろんな形があるんだ。
人を殺してもいい力を、権力、と言っていいと思う。
権力のあり方として、王というのが一番普通の形だけど、もっと強い、神殿組織を取り込んだ皇帝って形もある。
ここからずっと離れたショナという国には、民主主義、なんてものもあるらしい。
どんな仕組みか、ボクにはさっぱりだけど。
それで平原王だけど、大平原には何十もの国があってね、それぞれの国が互いに争ってて、まとまることがない。だけど何十年か、場合によっては何百年か毎に平原王を名乗る王が現れて、大平原をまとめるんだ。
で、しばらくしたら内部で争いが起こって、また分裂しての繰り返し。
今、大平原では、およそ百年ぶりに平原王が現れて、大平原統一の大いくさの真っ最中なんだよ」




