23-15(竜王の国15(ハララム療養所の騒乱6))
初めて狩りに連れて行ってもらった時。父はカイトに教えてくれた。命は尊ぶべきものだよ、と。
カイトの心は凪いでいる。
しかし、静かな表層意識の下、心の奥に驚きと歓びがある。
女の手が目の前まで迫った時。無意識に身体が動いた。エトーの歩法。できた。と、思った。
胴でふたつに分かれてもまだ指を動かしている巨漢の頭を、女が踏み潰す。頭蓋が粉々に砕ける。女がカイトを振り返る。歩み寄って来る。
カイトも女に歩み寄った。
さっきの。試したい。
と思う。
心が弾んでいる。と、自覚している。命のやり取りをしている。父さまに知られたら、きっと叱られるだろうな、とも思う。
だが、止められない。
試したい、という想いが強い。
『オレの歩法は相手を斬るためのものだ』
エトーの声が耳に蘇える。
『剣の長さの分、嬢とは間合いが違う。体術はからっきしだからな、オレは。どう間合いを取ればいいか、悪いが教えられねぇ。オレの歩法を使ってはいても、嬢には嬢の遣い方があるってことだ。
それは、嬢が自分で掴むしかねぇな』
女がフェイントを入れる。左。細かくステップを刻み、カイトに襲い掛かる。
今度は騙されない。躱す。前に出る。すぐに下がる。後ろに。目の前を女の手が掠める。追って来る。女が。右手。左手。左手。速い。ライよりも。躱す。捌く。力を逃がす。
捌き切れない。女に削られた髪が飛ぶ。
女の足取りが変わる。
不意を突かれる。反応が遅れる。予想外の速さで女の手が伸びる。掠める。額を。血が飛ぶ。目に入る。だが、気にしない。気にならない。
心がふたつに別れているみたいだ、と思う。
『とにかく殴り続けりゃいいんだ。それだけだぜ。間合いなんか考えたことねぇよ』
ライの話は参考にならなかった。
マクバもだ。
『間合いか。そんなの、倒れなきゃいいんだ。殴られても。ただ、前に出る。根性だよ、カイトちゃん』
『体力バカの話は、カイトには参考にならないわ。カイトは女の子なんだから』
ライとマクバを押しのけてカーラは言った。
『わたしが教えてあげてもいいけど、カイトの護身術とはちょっと違うしね。体術のことを訊くなら、まずはやっぱり軍団長よ』
『ワシにも教えられんよ、嬢ちゃんは。嬢ちゃんのようなマネは、ワシにもできんからな』
軍団長は『だが』と、言葉を続けた。『体術には戦術に通じるモンがあるよ』
どういうこと?と訊いたカイトに、
『ひと口に戦術と言っても、実際には様々な要素がある。そのうちのひとつに攻勢という考え方がある。攻勢という言い方をすると、ライは、だから殴り続けりゃいいんだろって単純に考えているが、そうではない。
簡単に言えば、主導権を渡さないということだ。
嬢ちゃんがライに負けた演武会の時の試合を思い出してみるといい。
ライはワザと隙を作って嬢ちゃんを懐に引き込んだ。嬢ちゃんは自分の意思でライの懐に飛び込んだが、実はライにそうするように仕向けられていたってことだ。
常に相手を我の意志の下に置き、行動を支配する。
それが攻勢だ。
体術の極意も同じだよ』
カイトが後ろに下がり、前へ出ると見せて、ひと呼吸分だけ遅らせる。女の攻撃がずれる。目の前を掠める女の手を見ながら、前へと踏み込む。複雑な足捌きで女の脇を通って体を入れ替える。鋭く追ってきた女の手を捌く。後ろへと下がる。カイトは受けに回っている。正しくは、女を誘っている。隙を作り、そこを狙わせ、躱している。思い通り女を動している。女に気づかれないように。一方的に攻められていると思わせて、女を支配下に置いている。
「すごいわねぇ」
フランは感嘆の声を上げた。
カイトが何をしているか、フランには判らない。
ただ、カイトが女の攻撃を躱し続けていることは判る。それが並大抵のことではないことも。
カイトが足を止める。
女も止まる。カイトに釣られて。罠か、と。警戒して。そこへ大きく踏み込み、裸の胸を軽く押した。思わず押し返してきた女の足を払って投げる。女が素早く飛び起きる前に後ろに下がって距離を取る。
女の呼吸は読みにくい。
人とは違う。
だからカイトは女の筋肉の動きを見ている。筋肉の動きで女の動作を予測している。それと、膝から下に刻まれた呪。
女が力を溜める。膝から下が白く発光する。カイトは逃げない。むしろ前へ出た。女を自分に向かってまっすぐ飛ばすために。土煙が上がる。女がカイトに迫る。だが、幾ら速くても女の軌道の予想はついている。
カイトが身体を捻り、意識して重心を引き倒しながら、地面を軽く蹴る。
女の手がカイトに迫る。ゆっくりと。寸前で躱したカイトの目の前を、女の手が通り過ぎる。女の青い目がカイトを追っている。しかし、女自身にもどうにもできない。
時間間隔が引き延ばされている。実際には、女の姿が消えたか、とも思える短い時間のことだ。
ゴウッと一陣の風となって女の身体がカイトのすぐ傍を飛び去って行く。
カイトが振り返る。
すでに弓を構えている。
この技。速すぎる。速すぎて、小回りが効いていない。効かせられない。5mほど。必ず飛んでいる。
着地し、カイトを振り返った女の額に、矢が突き刺さった。
復元できなくなるまで壊し続ければいいんだ。
カイトはそう結論を出している。
頭を破壊されても、まるで女はカイトが見えているかのように反応した。
『でも、いくら復元力を高めると言っても復元するための材料やエネルギーが要るから、そのための貯蔵庫として手足を大きくすることもある。復元のための材料とエネルギーを筋肉として貯めておくのよ』
フランはそう教えてくれた。
女に倒された巨漢。手足が若干小さくなっている。多分、復元のために使われたのだろう。
しかし、女の身体はどこも小さくなっていない。
だとしたら、どこか別のところに本当の身体があるんじゃないか。頭も含めて。どこにあるかは判らないが。
だとしたら。
いや、そうだとしても。
とにかく壊し続ければいいんだ。復元できなくなるまで。
カイトの放った矢は一本。
ただし、強烈な回転をかけている。頭蓋は砕けなくても、脳を掻き回し、破壊することはできる。
女が動きを止める。
海都クスルで戦った死んだ犬。彼らよりは復元が早い。けれど、復元に時間がかからない訳じゃない。
脳が復元される。意志が戻ってくる。女の瞳からそう判断し、動き出そうとする気配を読んで、カイトが矢を放つ。
脳を掻き回され、女が動きを止める。
女の脳が復元されるのを待つ。矢筒の矢が少ない、と気づく。
矢を三本放つ。女の頭が破裂する。胸へも矢を放ち、女を後退させる。女の頭部が泡に覆われ、修復が始まる。
ホントは見えていないんじゃないか。
と、カイトは疑っている。
頭を破壊されても女は動きを止めない。襲ってもきた。しかし、肌に感じる空気の動きや音でこちらの場所を判断しているだけかも知れない。わたしと同じで。
距離を測りながら慎重に女に歩み寄る。落ちた矢を回収する。
後ろへ下がる。
女はただ立っているだけで動かない。
カイトは女の様子を見ている。言葉にすれば、やっぱりそうか。となるだろうが、それは彼女の心の奥にある。
女の瞳に意思が戻ってくる。
弓を上げる。
カイトの首の後ろの毛が逆立つ。森で狩りをしていて、手負いの獣に感じたのと同じ、イヤな感覚だ。
カイトが矢を放つ。
矢を放つと同時に音もなく場所を移す。
矢が女の額を射抜き、女の膝から下が白く輝く。女の姿が消える。矢が飛んで来た先へと、カイトがいるだろう場所へと女が飛ぶ。
女の手が空を切る音が鋭く響き、遠くで女が方向を変える足音が聞こえた。
足音を追ってカイトが身体を、弓を回し、矢を放つ。手応えがあった。だがそれでも女は止まらない。
カイトを探している。
おそらくは視覚に頼ることなく、スピードに任せて走り回っている。遠かった足音が不規則なリズムを刻みながら次第に近づき、
ほんの少し、カイトは位置を変えた。
風を巻いて姿のない女がカイトの脇を通り過ぎ、「あ」と、カイトは声を上げた。女の走る先、姿は見えないが、そこにフランがいる筈だった。
「わっ!」
声を上げたのはおかっぱくんである。
彼の目の前がいきなり塞がれたからだ。何が起こったか、咄嗟に彼は理解できなかった。ぐしゃっと鈍い音がした。それだけだ。
「これは……肉?」
目の前に現れた何かを見て、おかっぱくんが呟く。
「運動エネルギーは質量に比例するけれど、速度の二乗にも比例するのよ。知っているでしょう?」
「え?」
「姿が見えないほどの速さですもの。運動エネルギーは相当、大きかったでしょうね」
「え?」
「これ、さっきの女よ」
おかっぱくんがごくりっと喉を鳴らす。
「……もしや、しゅ、首席の、結界……でしょうか?」
「触らない方がいいわよ、おかっぱくん。
かじられちゃうから」
伸ばそうとしていた手を、おかっぱくんが止める。「ひっ」と息を呑む。指を舐められた。何かに。
「防壁と言った方がいいかしら」
彼女の妖魔を10体、重ねて造った防壁だ。びくともしていない。女にしてみれば、大地に向かって突っ込んで行ったようなものだ。作用反作用の法則に従って、女自身の運動エネルギーが女を挽肉へと変えたのである。
『スコシ、イタかったよォ』
防壁のいちばん外側の妖魔が文句を言う。
『ダカラ、コレ、タベテいい?』
『いい子だから、ちょっと待ってもらえる?』
『えー』
「まだ動いているわね」
フランが微笑む。
「たいしたものだわ」
防壁に張り付いた肉の塊が動いている。人の形を取り戻そうとしている。張り付いた肉片はそのままに、どこからか材料が送り込まれていく。
胴体が盛り上がり、首が伸び、水面から顔を出すように頭部が現れる。銀色の短い髪が弧を描き、青い瞳が開く。右足が地面を踏み、左足が続く。防壁から引き抜くように両手が形造られ、身体を後ろに反らして女が立ち上がる。
「素晴らしい速さだわ」
フランが声を洩らす。
「こんど会ったら、ルモアを褒めてあげないといけないわね」
女が、己自身だった肉片が張り付いたフランの防壁に手を添える。透明な防壁を挟んでフランに鋭い視線を向ける。
「そんなことしてていいのかしら」
防壁越しにフランが言う。
女のいる側の音は通すが、フランの声は遮られている。
「あなたの相手をしているのは、狂泉の狩人よ」
聞こえない筈のフランの声が聞こえたかのように振り返った女の額に、カイトの放った3本の矢が吸い込まれた。
女の頭が破裂する。
膝が崩れる。両手をつく。すぐに立ち上がる。が、よろめいている。顔を上げる。泡の下から片目だけでカイトを見る。
身体を屈める。
消える。
カイトの脇を女の身体が通り過ぎ、現れたかと思うと、膝をついた。
荒い息遣いが聞こえた。
立ち上がる。
カイトは構えていた弓を下した。
女の様子がおかしい。
視線があちらこちらを彷徨っている。
さっきまではなかったものが女の顔にある。感情が、疑問がある。
ふらつきながら女がカイトを見る。
そして、カイトから視線を逸らし、夜空に顔を向けて、女は崩れ落ちた。
「待って、カイト」
誰かがカイトの腕に触れる。
いつ現れたのか、すぐ隣にフランが立っていた。フランは倒れた女に歩み寄り、膝をついた。
フランより先に、女が視線をフランに向け、何かを囁いたように、カイトには思えた。
大丈夫よ。
フランが囁き返す。
何も心配することはないわ。安心して眠って。
フランが何をしたか、カイトには判らない。フランの向こうの女の表情も、カイトには見えなかった。
ただ、女は動かなくなった。力が抜けて、そのまま死んだ。
何をしたの?
カイトはそう訊こうとして、弓を上げた。
処置棟の三階から何かが飛び降りるのが見えた。裸の男。死んだ女と同じように、銀色の髪を靡かせた表情のない男が飛び出してきた。
「あたしが片付けるわ」
動かなくなった女の脇で、フランが立ち上がる。
「危ないからちょっと後ろに、そうね、建物のところまで下がっててもらえる?カイト」
「判った」
裸の男がフランの姿を認める。
身体を屈める。
そして、男が突然フランの傍らに現れ、フランを引き裂いた。
「あっ!」とカイトが声を上げる。紙のように千々に裂けたフランの身体が霧となって消え、男の足元から巨大な土の壁が現れた。
二つの壁だ。その壁が、逃げる間を与えることなく男を挟んで、閉じた。
違う。壁じゃない。
と、カイトが思い直す。
手だ。
地面から巨大な手が突き出ている。
土で造られた手だ。男の背丈ほどもある。その手が、男を固く掴んでいる。
裸の男が必死に暴れるがびくともしない。すぐに手に続いて手首が現れ、手首は腕へと続き、カイトはポカンと口を開けた。
広場そのものが盛り上がったかのようにカイトは感じた。
腕は肩へと続き、肩には二つの緑色の瞳を輝かせた小さな頭が載っていた。小山ほどもあるずんぐりとした身体がゆっくりとカイトの視界を覆っていく。大量の土砂が滑り落ちる音が中庭に響く。ゴーレムだ。でかい。もし立ち上がればハララム療養所よりもはるかに頭が高くなるだろう巨大なゴーレムが、男を両手で掴み、肘をついて中庭にうずくまった姿でカイトの前にそそり立っていた。
ゴーレムが男を持ち上げる。
男の足元、影の中に、別の影が走り込む。影が走り込んだ影の中から、微かに血の臭いが漂ってくる。
ゴーレムの手の中の男に気を取られて、カイトは気づかない。
男の身体が硬直する。
白目をむき、がくがくと震える。
「潰して」
フランの声が響く。
カイトが視線を回すと、膝をついたゴーレムの前にフランがいた。
持ち上げられた男の身体をゴーレムが両手で捻り潰す。ごきごきと骨の折れる音が中庭に響いた。ゴーレムはまるで粘土遊びでもするように男の身体をこね回し、丸め、己の手の中に収めた。
血の一滴も、ゴーレムの手から零れることはなかった。
「ありがとう。もう帰ってもいいわよ」
フランが告げる。
肉塊となった男の身体を掴んだままゴーレムが土へと還っていく。後には、小さな土の山だけが残った。
「カイト」
「なに」
「傷は大丈夫?」
「え?」
フランがカイトに歩み寄る。血に汚れたカイトの額を確かめ、「あら?」と声を上げる。
カイトも自分の額に手をやる。
少しも痛くない。
「そう」
フランが微笑む。
「狂泉の禁忌の森の水、飲んだのね。カイト」
「あ」
「それじゃあ、あたしたちも行きましょう」
「ん」
弓を肩にかけ、「あの人はどうするの?」と、先を行くフランにカイトは尋ねた。
尻餅をついて呆然としているおかっぱくんのことである。
おかっぱくんはまだ姿を消している。だが、カイトは彼の存在にとっくに気づいている。
「大丈夫よ。ああ見えて逞しい子だから。放っておきましょう」
と、フランは答えて、抜け穴があるはずの療養棟へと足を向けた。
元”医師”は死にかけていた。死にかけてはいたが、残念ながら、まだ死ねそうになかった。
レンたちを行かせ、療養棟に残った”患者”たちを一人ずつ楽にしてやって、レンが残してくれた長剣で自分の首を切った、が、しくじった。
死ぬには傷が浅すぎ、もう一度やり直すには傷が深すぎた。
もう痛みはない。苦しさも遠ざかった。
ただ、感覚がない。
壁に背中を預け、遠くに炎の音を聞きながら、ぜいぜいと喘ぎながら、元”医師”はぼんやりと考えていた。
あの子はどうなっただろうか、と。
あの子。
いつも他の人たちを励ましていた子。
だが、最後は悲鳴を上げ--。
「どうして残ったの?」
静かな声が問う。
元”医師”はかすれた声で、「……あの子」と呟いた。
ボクを人間に戻してくれた。
あの子の悲鳴が。
泣き叫ぶ声が。
切り刻まれ、苦しみ、消えた子。まるで神々が連れ去ったかのように--。
「あの子は……生きて……」
元”医師”の前に立っていたのはフランである。
フランは、元”医師”のことは知っていたが、元”医師”の言うあの子が誰のことかは知らなかった。ただ、元”医師”がここに残った理由は察することができた。
室内に横たえられた”患者”たちの穏やかな表情から。
元”医師”の手元に落ちた長剣から。
だから、「大丈夫よ」とフランは言った。「あの子は生きているわ」と嘘を言った。
元”医師”にその声が届いたかどうか。
「心配しないで。いま、あたしが楽にしてあげるから。もう、苦しむ必要はないわ」
カイトが見ている前で、元”医師”の呼吸が止まる。唐突に。まるで、ずっと前に死んでいたかのように。
フランが立ち上がる。「行きましょう、カイト」と声をかける。「もう、ここに用はないわ」
静かだったハララム療養所から、ふと、何かが焦げる臭いが漂って来た。微かにパチパチという音も聞こえた。
王宮から呼び寄せた魔術師が、「こんな固い結界を破ることなぞ、とても……」と、弱音を吐いていた時のことだ。
「総員、ハララム療養所から、離れろ!!」
中尉の大声が、夜の街に響く。
まるで芝居の幕が落ちたかのように、結界に隠されていた本当の姿が、燃え盛るハララム療養所が、突然、現れた。
熱風が塊となって押し寄せ、「下がれ、下がれ!」と副官が叫ぶ。「火を消せ!」「火を!」という怒鳴り声を圧して、轟々と炎が燃え上がる。
中尉が何かを叫ぶ。
炎の声に遮られ兵士には届かない。手近の兵士を引き寄せ、何かを怒鳴る。兵士が頷き、走り去って行く。
副官が走り寄って来て、中尉を後ろへと下がらせる。中尉と副官が何かを話し、幾人かの兵士が呼ばれ、短い指示を受けて四方へと駆け去っていく。
混乱はしていても、軍の統率は崩れていない。
雑貨屋の窓からその様子を窺いながら、諜報員である女は、「やれやれ。またあの子にレンツェ様のところに走ってもらわなきゃあね」と夜着姿のまま嘆息し、自分も逃げるためにバタバタと走り出した。