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23-10(竜王の国10(ハララム療養所の騒乱1))

 ハララム療養所は夕刻には業務を終了する。

 所長であるカムラ魔術師は熱心な方で、ひとり居残ることが多い。

 だが、今日は帰ってくれた。

 同僚も上司も。

 ディディはようやく落ち着いてきた胸を押さえた。昨日、作った資料。間違ってる!と騒いで、明日までに直しておきます!と上司に頭を下げて、居残ることができた。

 ディディが勤めているのはロの字型に建てられたハララム療養所の玄関側、事務棟である。

 残りは療養棟が二棟と、広い中庭を挟んで事務棟の向かいに、ハララム療養所の主要施設である処置棟がある。

 一ツ神の信徒によって学校制度が創られた時、ディディは12歳だった。それから2年間、彼女は学校に通った。彼女たちの担任になったのは雷神の元神官で、雷神が神殿の扉を閉じた際に世俗に沈み、学校が創られた時に自ら応募して教師になったとディディは聞いた。元は神官様なのに一ツ神の信徒に加担するなんて、とディディは軽蔑したが、すぐに彼が教師になった理由に気づいた。

 彼は一ツ神を否定しなかった。教師を続けるためだろう、一ツ神の信徒に求められる通り一ツ神について教えた。

 ただ元神官は、一ツ神について教えた後には必ずこう付け足すことを忘れなかった。

「神殿の扉は閉じられたが、雷神様は遠雷庭にいらっしゃる。それと君たちは竜王様の民だ。そのことを忘れないようにね」

 と。

 ディディの家は代々、下級役人として宮廷に仕えている。

 一ツ神の信徒が政権を握った後も、父は宮廷勤めを辞めなかった。ディディがハララム療養所に職を得たのも、父が宮廷に勤める役人であるという事実が大きかった。ディディは最初、宮廷に勤め続ける父に反発していたが、夕食の席で教師のことを話した時、父が食事の手を止め、しばらく考え込み、

「立派な方だ」

 と呟いたのを聞いて、自分が大きな勘違いをしていたことを知った。

「あなた方も竜王様の民でしょう!」

 たまたま買い物に出かけた東の市場で聞いた、見知らぬ、同じ年頃の女の叫び声は、ディディを打ちのめした。

 ハララム療養所で何が行われているか。

 数日前に見た担架で運ばれる遺体。シーツが掛けられていても、小さいと判る。何より、担架から落ちた手はまだ幼い子供のものだった。

 ベッドに入っても涙は止まらず、罪悪感に胸を激しくかき乱された。

 わたしは見ていた。

 見ていたのに、見ていないフリをしていた。

 わたしは、竜王様の民なのに。

 ハララム療養所で何が行われているか。

 見ていないふりをすることは、もうできなかった。

 カムラ魔術師の所長室は、ディディの勤める事務棟の3階にある。

 所長室には入ったことがある。

 鍵はない。

 ディディはどきどきと鳴る心臓の音を聞きながら、所長室の扉を開いた。

 何か当てがあった訳ではない。

 カムラ魔術師は処置棟にも自室を持っており、多くの書類はそちらにある、とディディも知っている。しかし、処置棟には警備員もいる。これまで踏み込んだことすらない処置棟に忍び込むなどということは不可能だと、ディディにも考えるまでもなく判断できた。こちらの部屋にも何かあるのではないか。ハララム療養所で何が行われているか記した書類があるのではないか。

 ディディが所長室に忍び込んだのはその何かを探すためである。

 無謀と言っていい。

 所長室には確かに鍵はかかっていない。しかし、鍵がかかっていないのは、かける必要がないからだった。

 カムラ魔術師は几帳面な方だとディディは思っている。ディディの印象通り、所長室には机と応接セットしかなく、書類の類はどこにもない。書類はすべて、所長席の後ろに設けられた、扉つきの書棚に収められている。

 ディディはまず机を調べようとして、「何をしている」と声をかけられてビクリッと身体を震わせて立ち竦んだ。心臓が喉まで跳ね上がったかと思った。

 振り返ると、顔見知りの、まだ若い警備員が二人いた。あるじのいない所長室の扉が開いたことで、警備員室の警報が鳴ったのである。

「えっと、ちょっとお届け物が」

 ディディの手には、念のためにと用意しておいた書類がある。

「見せろ」

 いつもは明るい警備員の声が寒気がするほど冷たい。

 震える手で差し出した書類を警備員が受け取り、ざっと目を通す。居残るためにわざと間違えておいたハララム療養所の予算に関する資料だ。

「なぜこんな時間に届ける必要がある?」

「あの、あ、明日までに、その、用意しておくように、言われてて……」

「所長殿に報告することか?」

「え、はい」

「本当は何をしていた」

「え」

「お前、背信者なんじゃないのか」

 警備員の言葉に、ディディの頭に血が登った。

「違うわ、わたしは背信者なんかじゃない。わたしは、雷神様の……!」

 火花が散った。

 気がつくと床に倒れていて、殴られたのだと悟るのに、しばらく時間が要った。

 ずきずきと痛む頬を押さえ、ディディは警備員を見上げた。涙に視界が歪み、下半身が恐怖に頼りなく震えた。

 名も知らない同い年ぐらいの女の--フィータの--姿をディディは思い出した。憲兵に殴られても怯むことなく、毅然と憲兵を睨み返した彼女の姿を。

「あ、あなたたちだって、竜王様の民でしょう……!」

 声はか細く、弱々しく震えた。

 それがディディは悔しかった。わたしも彼女のように毅然としていたかったのに。痛みよりも悔しさに、涙が溢れた。

 二人の警備員が冷ややかにディディを見下ろす。

「もちろんオレたちは竜王様の民だ。しかし竜王様の民である前に、オレたちは一ツ神様の信徒だ」

 絶望がディディの心を黒く塗りつぶす。警備員が伸ばしてきた手を避けるように顔を背け、悲鳴を上げてディディは逃げようとした。這いつくばったまま、思い通りにならない身体を引き摺って、頭を抱え込んだ。

 ガタッ、ガタンッと大きな音が響く。何かが倒れたような音。

 しかし、ディディは悲鳴を止めることはできず、いつまで経っても警備員の手が伸びて来ないことを不審に思って、ようやく涙に汚れた顔を上げた。

「えっ?」

 そこに立っていたはずの警備員がいない。

「えっ?」

 警備員を探す。床に何かがある。人のようなものが。

 ディディは息を呑んだ。

 咄嗟に拳を口に当てて悲鳴を抑える。

 警備員が倒れている。ぴくりとも動かない。矢だろうか、細い棒状のものが、警備員の額を貫いているように見える。

「な、な」

 ディディは周囲を見回した。誰もいない。震える自分の足をバンバンと叩く。息を乱して立ち上がる。

 逃げなきゃ、と思い、倒れた警備員を避けて所長室を出ようとして、ディディは足を止めた。

 もう一度、警備員を見る。

 死んでいる。と、ようやく認識する。

 所長席の後ろの書棚の扉に目を向ける。いまなら、と思う。心臓の音が聞こえる。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。と、心の中で彼女自身の声が繰り返す。それでもディディは書棚だけを見つめ、書棚の扉へと手を--

「止めた方がいいわよ」

 と、声が響いて、ディディはビクリッと手を止めた。

「呪がかけてあるから。死ぬわよ」


 弾かれたように振り返ると、女がいた。いつの間にか。部屋の真ん中に。赤い鮮やかな髪に目を惹かれた。

 まだ若い。若いように見える。

 だが何故か、ホントは自分よりもずっと年上じゃないか、とディディには思えた。

 女はディディの脇を通って書棚の扉の前に立った。短く呪を唱える。

 ためらうことなく女が書棚の扉を開き、「あっ」とディディは声を上げた。何も起こらない。

 女が書棚に並んだ書類に素早く視線を走らせる。

「そうね」

 女が書類に手を伸ばす。

「これと、これ。後はこれかしら」

 どさどさとディディの手に女が書類を載せていく。

「あ、あの」

「あたしが誰かは訊かないでね。

 それと、ここにたいした書類はないわ。魔術の研究に関してはね。その書類は、”患者”たちの残したものよ」

「え?」

「あたし、カムラ魔術師は嫌いだけど、彼の几帳面さは見習うべきね。

 彼、魔術研究には不要だけれど、”患者”の残した日記や手紙を廃棄することなく書類としてまとめているのよ。

 でも、彼の役にも立たない研究資料よりもこちらの方がはるかに貴重だわ。

 これをあなたのお父様か、学校で教えて貰った神官様に渡せば、きっと活用してくれるわ」

「わ、わたしのこと、知っているの?」

「あたしが知らないことはひとつもないのよ」

 女が微笑む。

「あなたはここにいなかった。あたしにも会わなかった。いいかしら」

「で、でも」

「大丈夫。あなたがここにいた筈がないって、アリバイを作ってあげるから。上手くやってね」

「えっ?」

 書類を手にしたまま、ディディの身体がストンと彼女自身の影に沈む。あっと声を上げる間もない。

 影はディディを飲み込むとすぐに所長室の外へと走り去っていった。

「フラン」

 部屋の暗がりから姿を現したのは、カイトである。

「あの人のこと、知ってるの?」

「前に言ったでしょう?一ツ神の信徒について調べているって。ハララム療養所に勤めている人も全員、調べたわ」

「そうなんだ」

「でもこれで、こっそり”患者”を逃がすという訳にはいかなくなったわねぇ」

 カイトが額を射抜いた警備員の死体を見て、フランが言う。

「”患者”って?」

「ここに捕まっている人たち。カムラ魔術師たちの方は”医師”って呼ばれているわ」

「そうなんだ」

「そうね」

 フランが短く考える。

「どうせだから、騒ぎを大きくしましょうか」

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