2-6(狂泉の森人たち6)
カイトが放ったものではない。
若い男の斜め前方から飛来した矢は、若い男の周りを舞う風に乗って大きく曲がり、男の喉を正確に貫いた。
更に一本、別の矢が心臓を貫く。
若い男がよろめく。
男の周りから風が消える。そこへ、さらに何本もの矢が突き刺さった。
『ひどい』
咄嗟にカイトはそう思った。
狂泉の森人は、猟をする際にはなるべく獲物を苦しませないように狩る。それが互いに死ぬ定めにある、生き物としての礼儀と考えているからだ。若い男の喉と心臓を貫いたのは、彼を苦しめないためだろう。
だが、その後の矢はまったく不要だった。
これが森に許しなく入った者に対するやり方なのか、とカイトは思った。だとしたら酷過ぎる、とも思った。
しかし、その考えが間違っていたことを、カイトはすぐに知った。
若い男が2歩、3歩と後ろに下がり、仰向けにどさりと倒れる。
赤子を抱いた女が、自分のすぐ横に倒れた男を見下ろす。
「そうなりたくなければ、すぐに森を出よ」
声は女にそう告げた。
『そのため?』
むごく男を殺し、ただし、楽に死なせた後でそう見せて、声の主は女を森から出そうとしていたのだろうか。
赤子を抱えたまま女がしゃがみ込み、赤子を抱え直して男の顔を撫でる。
意外なことに、女の顔に、笑みがあった。
「この人ね」
話し始めた女の声は、とても穏やかだった。
「とても臆病な人なの」
赤子がぐずり、よしよしと抱き直す。笑顔で赤子に何か話しかけ、スカートに皺ができないようにしながら--とても自然な動作で--男の脇に腰を下ろす。
「この人だけだったの。王宮で平原王に降伏するべきだと主張していたのは。
今度の平原王には勢いがあるって。
自在宮も押さえたし、民にも支持されているって。でも、大平原の片隅から出て来た田舎者に降伏など出来ないって意見が、王宮では大勢を占めていたわ。
わたしもそう」
後悔の響きが女の声に混じる。
「あれが最後の機会だったのかしら。
この人が言ったの。自分が平原王の降伏の使者に立つって。王太子である自分が行けば、平原王は許してくれるって。
死ぬ気だったのかしら。この人。さんざん自分を見下してきた人たちのために。
王宮が落ちたときには、この人、牢獄に入れられていたの。平原王と戦うことに反対ばかりするから。
助けてくれたのは兵士たち。
彼らは笑ってわたしたちを送り出してくれたわ。『お幸せに』とまで言って。これから自分たちが死ぬかも知れないのに。兵士たちに愛されていたのね、この人」
女がため息をつく。
「わたしたち、平原王に逆らい過ぎたわ。何とかここまで逃げて来たけど、もう行くところがないの。
この人も言ったでしょう?
大平原に戻れば、この人はきっと殺されてしまう。
多分、この子も。
わたしは殺されないかも知れないけれど、夫も子供も殺されて、一人で生きていくなんてとてもできないわ」
女が軽く肩を竦める。
「王宮以外の暮らしも、知らないしね」
「お前たちの事情なぞ知らぬ」
「わたしたちね、森に死にに来たのよ」
声を無視して女が話し続ける。
「3人で死にましょう、と言ったのはわたし。でも、この人、意気地がないから、わたしを刺すことなんてできない、と言ったの。
自分の胸を刺すことも怖くてできないと言うし、だったら首を吊りましょうと言っても、王太子としてそんな恥ずかしいことはできないって、わがままばかり。
だったらわたしがあなたを刺し殺してあげると言っても、そんなひどいこと、わたしにさせたくないって。
本当に意気地のない人。
でも、森に入ろうって言ったのは、この人なの。
狂泉様の森の猟師たちなら、楽に殺してくれるはずだって。良かった。この人が苦しむことなく逝けて」
「死ぬ気だった、と言うのか?」
姿の見えない声が動揺に揺れる。
「そうよ。迫真の演技だったでしょう?この人、魔術は熱心に勉強していたけれど、剣なんかまともに振ったこともないのに。わたし、感心したわ」
「……お前一人なら、森の外へ引き摺っていける」
女が心底おかしそうに笑う。
「わたしはこの人とは違うわ。自分の始末は自分でつけられる。だからもう少しだけ待って。
森に入ったのはね、ただ死ぬためだけじゃないの」
女が赤子の額に口づけし、そっと地面に下ろす。そのまま赤子を見下ろし、言葉を続ける。
「森に捨てられた子供を、あなたたちは森の子として育ててくれるのでしょう?そう聞いたわ。
森で死んだ者は、狂泉様の許で、ずっと暮らせるのでしょう?だとしたらわたしたち、この子をずっと見守っていられる。
この人がそう言ったの。
この子だけは助けようって。
びっくりしたわ。ただの意気地なしだって思っていたのに。
そのために森に入ろう、って言ったの。さっきだってそう。こんなに勇敢なひとだったなんて、わたしずっと知らなかった。
もっと早く、知りたかったわ」
軽い口調でそう言って、女が黙る。沈黙はしばらく続き、森に潜む猟師たちの気配すら薄くなった。
どれぐらい経っただろうか、赤子が小さな声を上げた。
「さあ」
と、赤子に促されるように女は顔を上げた。
「この人が待ちくたびれちゃう。許してもらえるかどうか判らないけれど、早く謝りに行かなくっちゃ」
女が短刀を取り出す。華美な装飾の施された柄が、女の手の中で煌めく。カイトは女が短刀を自分の胸に突き刺すのを見た。だが、『浅い』と思う。
己を傷つけることを本能的にためらったのかも知れず、刃物の扱いに慣れていなかったのかも知れない。女が胸を刺した時に、小さな音が聞こえた。もしかすると、派手な衣装に施された装身具が刃先を逸らせたのかも知れない。
短刀の上に体を預けられれば死ねただろうが、女はそれもできなかった。彼女の前には赤子がいたからだ。
苦悶の声を上げて、赤子を避けるように、女は倒れた。
女はそれでも意識も短刀も手放さなかった。
仰向けになり、震える手で短刀を持ち上げ、喉を刺そうとする。しかし、鮮血のみが飛んで、女の服を赤く染めた。
短刀が女の手から落ちる。
泥だらけになりながら女が短刀を探す。震える手で地面を探り、頭を持ち上げて視線を周囲に巡らせる。
痛いだろう。
苦しいだろう。
だが、青ざめた女の顔には、生きることそのもののような、死への強い意思のみがあった。
ガサリッと音を立てて猟師が一人、森から姿を現した。
倒れた女と同い年ぐらいの女だ。
女猟師は散歩でもしているような足取りで地面に置かれた赤子に近づくと、優しく抱き上げ、慣れた様子であやした。
「この子の名、言える?」
女猟師が問う。倒れた母親の口が動く。しかし、女が口にしたであろう赤子の名は、カイトの耳には届かなかった。
「そう。じゃあ、今、楽にしてあげるわ」
女猟師がそう言ったところで、「待って」とカイトは茂みから出た。
「わたしが楽にしてあげる」
倒れた女の脇にしゃがんで、カイトは言った。
カイトの意図を悟ったのだろう、青白い唇が僅かに笑った。女の目を左手で塞ぎ、カイトは静かに山刀を抜いた。
「あんたの名を教えてくれる?」
立ち上がったカイトに、赤子を抱いた女猟師が訊く。
「カイト。クル一族のカイト」
「北から来たの?」
女猟師を見返して、カイトは頷いた。
「この子が大人になったら、今日のことを話すわ。両親がなぜ森に入ったのか、なぜ死んだのか。誰が母親を殺したのか、あんたが、どうしてこの子の母を殺したのか。
それでもこの子があんたを殺しに行ったら、相手をしてやってね」
「うん」
フフフと女猟師が笑う。
「ありがとう、と言っておくわ」
赤子をあやしながら女猟師が森に消える。その姿を見送り、カイトは倒れた女に視線を向けた。
女の顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。
カイトは女から視線を逸らし、酔林国へと向かう道に戻った。女を殺したことに後悔はない。狂泉の森人であるカイトにとって、そもそも後悔するようなことではない。
後悔はないが、何かが、彼女の胸に残った。
3人の猟師が森から姿を現したのは、カイトの足音が遠ざかり、鳥の声が森に戻ってからである。
彼らは倒れた男に歩み寄ると、突き刺さった矢を丁寧に一本ずつ抜いてやった。大きく開いたままの目を閉じてやり、女の体を男の横に寄り添わせてやる。
最後に二人の手を取り、固く握らせてやってから、彼らもまた、後ろを振り返ることなく森の中へと消えていった。
狂泉の森に埋葬の習慣はない。遺体は狂泉の許に、森に、返す。
それだけである。




