23-9(竜王の国9(ヨリ2))
玄関を開けて、ヨリは思わず、「どうしたの、カイトちゃん!」と叫んだ。
カイトの顔が青白い。
「ごめんなさい、ヨリさん。気分が悪いの」
トイレで吐いて、リビングで白湯を飲ませてもらい、カイトはようやく落ち着いた。
「何があったの?カイトちゃん」
「わたし、ハララム療養所に行ったの」
カイトの言葉に、ヨリが立ち竦む。
「ハララム療養所で、カムラさんが何をしているか、見て来たの」
「カイトちゃん……」
「ヨリさん。カムラさんは、ううん、あの人たちは、命を無駄にしている。あの人たちは、狂泉様の法に逆らっているわ」
「ただいま」
カムラは玄関の扉を開け、すぐに異常に気づいた。ヨリの返事がない。室内が暗い。
内側から扉に鍵を掛け、不審に思いながらリビングに行くと、ソファーにヨリがひとり、座っていた。
ヨリの前に弓矢がある。
「どうしたんだい、ヨリ。明かりもつけないで」
「カムラ」
「ん?」
「あなた、ハララム療養所で何をしているの?」
カムラが足を止める。ヨリを見返す。
「何って--」
「”古都”のために不死を研究しているって、本当?」
「え」
「どうして?」
「え?」
「どうして、そんなことをしているの?」
カムラがヨリに向き直る。口元から笑みが消えて、代わって苛立ちと怒りが額に浮かんだ。
「そんなことじゃない。これは人のためになることだよ。ヨリ」
感情を抑えた声で、カムラが言う。
「本当なのね」
「ああ」
「どうして?」
「これは人のためになることだからだよ」
「そのために人を切り刻んでいるの?」
カムラが身動ぎする。
「……見たのか?」
「カイトちゃんが教えてくれたわ」
「あの子が」
「どうして?」
「何度も言わせないでくれ。これは人のためになることだ」
イライラとカムラが答える。
「死は忌むべきものじゃないわ」
「え?」
ヨリがカムラを見上げる。
「死は敬すべきものよ」
「なんだって?」
「カムラ。出会った頃にあなたが言ってたのって、こういうことなの?
歴史に名が残るような研究がしたいって。人のためになる仕事をしたいって。そうすれば、ずっと永遠に生きるのと同じことだって」
自分が本当に言ったことか、カムラは憶えていなかった。だが、「そうだ」と彼は答えた。
その通りだ、と。
「永遠に生きるのと同じ。そうだ。それが、ボクの望みだ」
「わたし、外のことを理解しようとしたわ」
悲し気にヨリが言う。
「ここで、あなたの傍で、ずっと生きていくつもりだった。生きていけると思ってた。でも、わたしは、今でも狂泉様の森人なんだわ」
「人を殺すことが悪いと言うのか?だったらあのカイトという子は何だ。あの子のことはあれから調べた。
平原王の砦を落とし、あの子は何千人も殺している。あの子は許されるのか?
あの子に比べれば、ボクなんか可愛いものだろう」
「許すって、何?」
ヨリの静かな声にカムラが怯む。
「え?」
「わたしには判らないの。許すって何なのか。頑張って理解しようとしたけど、結局、今でも判らないのよ」
カムラが呆然と妻を見つめる。
「ヨリ。君は。……いや、君たちは」
「命を奪う。それは許したり許されたりすることではないわ。
カムラ。
わたしはあなたを理解しようとした。でも、あなたはわたしを、いいえ、わたしたちを、一度も理解しようとはしなかったのよ」
「ミィは連れて行くわ」
「なに?」
「カムラ、知ってる?ミィ、弓がとても上手なのよ。
あなたがいないときに、あの子、わたしに弓を教えて欲しいって言ってきたの。それでやらせてみたら、とても上手くてびっくりしたわ。
あなたはあの子を魔術師にしたいんでしょうけど、あの子は嫌がってるわ」
「ダメだ」
掠れた声でカムラが言う。
「だったら、あの子に訊いてみましょう」
ヨリがリビングから出て行き、ミィムを抱いて戻って来る。
「ミィ。良く聞いて。母さまと父さま、お別れすることにしたの。母さまはおうちを出て行くけれど、あなたはどうしたい?」
「おうちをでて、どこにいくの?」
「さあ」
ヨリが笑う。
「母さまにも判らないわ」
ミィムがヨリを見て、カムラを振り返り、またヨリを見て、ヨリの服をぎゅっと握る。
「ボク、かあさまといっしょがいい」
「いいの?」
「うん」
ミィムがヨリに抱きつく。
「だってとうさま、なんだか、こわい」
「そう」
ミィムにしがみつかれたまま、ヨリがテーブルに置いていた弓を肩にかける。矢筒を腰に巻き、立ち上がる。
ヨリはちらりともカムラを見ない。
ミィムは母の肩越しに父を見て、視線を逸らし、ヨリの肩に顔を埋めた。
「待て」
怒りがカムラの声に滲む。
「行かせない」
カムラに背中を向けたまま、ヨリが戸口で足を止める。
「ごめんなさい、カムラ」
「出て行くと言うのなら、二人とも殺す」
カムラが呪を唱えていると、ヨリも気づいている。
「頼む。行かないでくれ。君たちを愛している。別れたくない。頼む、ヨリ」
「無理よ」
「どうしてもか」
「あなたは、狂泉様の法に反している。もう、一緒には暮らせないわ」
「偽物の神だ」
「違うわ」
静かに、呟くように、しかし、少しの迷いもなくヨリが断言する。間違っているのはあなたの方よ。
そう口にしなかったヨリの気持ちは、カムラには届かなかった。
「君が悪いんだ!」
カムラが叫ぶ。印を結んだ手をヨリとミィムに向け、「お願い。カイトちゃん」と、ヨリは言った。
「殺さないで」
短い悲鳴が上がり、人の倒れる音が聞こえた。押し殺した呻き声も。顔を伏せたままのミィムを抱え直し、ヨリは部屋を出た。しっかりと顔を上げ、視線を前だけに向けて、後ろを振り返ることはなかった。
玄関の扉が開き、閉じる音が聞こえた。カムラは苦悶の声を漏らしながら自分の足を見た。いつの間にか右膝を矢で射抜かれている。
「あの娘……か」
歯を食いしばって呻く。憤怒に眉が吊り上がる。
「逃がすものか」
ぎりぎりと鳴る自分の歯の音が聞こえた。それが彼の怒りをさらに高ぶらせた。膝に突き刺さった矢を引き抜く。怒りが苦痛を抑え、痛みは感じなかった。傷口を縛り、息を乱して立ち上がる。足を引き摺って玄関へと向かう。
「カイトも甘いわねぇ」
ぎくりっと振り返る。
いつ現れたか、ソファーにひとりの女が座っていた。まるで我が家にでもいるかのようにくつろいだ様子で。
赤い鮮やかな髪にまず目を惹かれた。
口元には薄い笑みがある。
まるで絵で描いたかのように形の整った赤い笑みが。
肩をすっかり出した露出の多いゆったりとした服を着ている。きれいな女だ。不思議な存在感がある。カムラは王を思った。今の王ではない。子供の頃のことだ。父に連れられ、一度だけ謁見したことがある。
王はただ玉座に座っているだけだった。しかし、華美で厳めしい周囲の雰囲気もあったのだろう、ただ座っているだけで、言いようのない威圧感が王にはあった。
カムラはごくりと喉を鳴らした。
決して広いとは言えないいつものリビング。ソファーだけはいいものを買いたいと奮発したが、それも今よりもずっと報酬が少なかった頃のことで、決して高いとは言えない使い古したソファーだ。
しかし、女が座っている、ただそれだけのことで、いつものリビングが広い王宮の謁見の間に、見慣れた筈のソファーが煌びやかな装飾を施された豪華な玉座に、カムラには見えた。
「だ、誰だ」
「教えてあげない。だってあたし、あなたが嫌いだもの」
カムラの身体が震える。女はソファーに座ったままだ。しかし、頬を撫でられた。品定めをするかのように。玩ぶように。そう感じた。
「あなた、不死を研究しているのでしょう?」
逃げなければと思う。だが、動けない。恐怖と、この女が何者か知りたいという、呪いにも似た知識欲がカムラの足をその場に釘づけている。
「そ、それが、どうした」
「研究をするのはいいの。それが魔術師の本分だから。人を切り刻むのも仕方がないわ。まずは解体して詳しく調べる。それがすべての基本だから。
でも、子供を殺すひと、あたし、嫌いなの」
「な、」
「随分、殺したわね」
変わらない笑みを浮かべたまま女が言う。穏やかな声で、呆れたように。
カムラをひたと見つめる栗色の瞳。欠片ほども温かみのない瞳の奥に、冬の星の如く輝く冴えた赤い光がある。
「あなたの望みを叶えてあげるわ」
「な、なに?」
「あなたを、望み通り、不死にしてあげようと言うのよ」
「そ、そんなことが……」
できるのか?と、カムラは言葉にできなかった。
女がカムラの股間を指さす。
「まず、あなたの男性器をえぐり取るわ。それを術の媒介とするの。あなたの男性器と、あなたが殺そうとしたあなたの子供を結びつけるのよ。
あの子が、いいえ、あの子の子孫が生きている限り、あなたは死ななくなるわ。あなたが殺そうとしたあの子の死を、今よりももっと望むようにしてあげるわ」
抑揚の利いた声で楽しそうに女が言う。女の言葉には虚実が入り混じっている。が、カムラには判らない。
「もちろん対価は支払って貰うわ」
女の足元で、暗い室内にあってもはっきりと判る濃い影が蠢いている。不規則に、ざわざわと波打っている。
「あなたを不死にして、あなたをあたしの妖魔にかじらせるわ。逃げられないように、あたしの結界に封じて。
あなたが殺した子供の分だけね。
術が解けるまで。
永遠にね」
「お、お前は、ま、まさか……」
カムラが喘ぐ。
噴き出した脂汗が、凍えそうなほどの悪寒を伴ってカムラの背中を伝い落ちていく。--千の妖魔の女王。心臓が締め付けられて喉元までせり上がり、指先が震えた。
「でもね、この術、かなり複雑な術だから少し準備に時間がかかるの。その間に、その膝も手当てしてあげるわ。
随分と乱暴に引き抜いたから、元通りには治らないでしょうけど」
カムラの身体が沈む。カムラ自身の影の中に。動こうにも動けない。彼自身の影が彼の身体に固く絡みついている。
「ま、待て、待っ……!」
とぷん、と波紋を残してカムラの身体が消える。
「少し出かけて来るから、待っててね」
フランはカムラの家を出た。大通りにカイトが立っていた。
妖魔に見張らせている。
通りがかった乗合馬車にヨリとミィムを乗せ、タルルナのところへ二人だけで行かせて、カイトは残ったのだとフランは知っている。
「フラン。カムラさんは?」
「大丈夫よ。彼が追って来ることはないわ」
「そう」
カイトが短く沈黙する。
「フラン」
「なに?」
「わたし、ハララム療養所にいる人たちを助けたい」
「それで?」
「もう一度、あそこに連れて行って欲しいの」
フランが笑う。
「人使いが荒いわねぇ、あなたは。あたしが誰だか、判ってる?」
少しお道化たように、楽しそうにフランが言って、長く伸びたフランの影の中へとカイトとフランの姿が音もなく沈んだ。