23-5(竜王の国5(フィータ))
今にも風に溶けて消えてしまいそうな人だな。
と、カイトは思った。
カイトの知らない女だ。
歳は20才にはなっているだろう。
栗色の髪を短く刈り、細い首をすっかり出しているのが良く似合っている。
女が笑顔をカイトに向ける。
どこか儚げな外見と異なり、意外と存在感のある笑みだった。
「わたしはフィータ。あなたは?」
「カイト」
警戒しながらカイトが答える。
フィータが給仕を呼び、ビールを注文する。慣れた様子でつまみもいくつか頼む。
「ねえ、あなた、知ってる?」
「何を?」
「カリナ姫のこと」
「誰、それ」
「キャナ王家のお姫様よ。2、3日前に、クスルクスル王国のエイマイオウ様のところに嫁いで行かれた方」
エイナイオウ様と言ったフィータの声に軽侮があった。
「気の強いお方でね。今まで3度嫁いで、3度とも離縁されて戻って来られた方。
キャナの王家よ。
誰もが竜王様の血筋を欲しがってるっていうのに、3度も。どれだけ気が強いのかって思うよね」
「それが何?」
「エイマイオウ様は判ってるのかしら」
フィータがビールをごくごくと喉に流し込む。
「自分を愛してくれてる奥さんを離縁して、自分を愛してもいない人を迎えるなんて。わたしには信じられないわ。
カリナ姫もカリナ姫ね。
20歳以上も年上のおばかさんのところに嫁ぐなんて。
もっとご自分を大切にすればいいのに」
「ねえ」
「なに?」
フィータが給仕にビールを追加注文する。
「わたしに何か用があるの?」
「そうね」
フィータがごくごくとビールを喉に落とし、「あー、おいしい」と声を上げる。ジョッキを置き、つまみを口に運びながら、
「わたし、殺したい人がいるの」
と、フィータは言った。
「わたし、兄がひとりいたの。歳が離れた。
わたし大好きだったわ、兄が。父さまや母さまよりも。小さい頃はいつも兄の後ばかり追いかけてた気がする。兄も、いつもわたしと遊んでくれたわ」
「死んだの?」
フィータが頷く。
「兄はね、とても--、とっても生真面目な人だったの。ホントにバカなんじゃないかって思うぐらい。
だからね、兄には許せなかったの。口では耳触りの良いことばかり言って、キャナの人々をいくさ場に送って殺し続けている一ツ神の信徒たちが。
兄は東の市場でずっと訴えてたわ。
間違っている。一ツ神の信徒のやっていることは、とても大事なところで、何かが間違っているって。
わたし、止めた方がいいよ、って何度も言ったのよ。
父さまも母さまも、兄の友だちもみんな。
でも、兄は一ツ神の信徒を否定することを止めなくて、とうとう一ツ神の存在も否定し始めて、憲兵に捕まっちゃったわ」
「どうして?」
「何が?」
「どうして、一ツ神の存在を否定すると捕まるの?だって、キャナではどんな神でも自由に信じていいって、わたし聞いたわ。一ツ神の信徒がそう決めたって」
「どんな神を信じてもいい、その通りよ。
でも、どんな神を信じてもいいけど、一ツ神の存在を否定することは、法律で禁じられているのよ」
「狂泉様や雷神様は否定しているのに?」
「不公平でしょ」
フィータがグイッとビールを呷る。
「一ツ神の存在を否定するとね、特別な裁判にかけられるの。一審制で、弁護人なし、非公開の裁判にね。
兄はそこで有罪を言い渡されて、その日のうちに処刑されたわ」
カイトには判らない。
サイバン、イッシンセイ、そもそも言葉の意味が判らない。
ただ、フィータの兄が、一ツ神の存在を否定しただけで殺された、ということだけは理解できた。
「百神国と洲国が攻めて来た時、兄も一ツ神の信徒と一緒に戦ったわ。棒っきれの先に包丁を括りつけて、即席の槍にして。
モルドと並んで、先頭に立って百神国の兵士の中に突っ込んで行ったって。
最初の頃は兄も一ツ神の信徒のすることを支持していたの。王が支配するんじゃない、平等な時代がきたって。
でも、狂泉様の森を攻めることになった時に、一ツ神の信徒たちは間違ってるって、考えを変えたの」
「……」
「裁判の判事がね、名前を口にするのも忌々しいけど、ライスというクソ野郎でね、百神国と洲国が攻め込んで来た時には絶対に降伏するべきだって主張していたヤツなの。抵抗するだけムダだって。
でも、百神国と洲国を打ち破って市民が迷宮大都に帰って来た時には、いつの間にかその中心にいたわ。
降伏するべきだって主張していたことなんかなかったみたいに。
コイツがわたしの兄だけじゃなくて、意味もなくたくさんの人を殺しているの。兄のように一ツ神を否定したから。ただ、自分の考えを主張したから。
わたしが殺したいのはね、このクソよ」
カイトが夕食を口に運ぶ。
「わたしには関係ないわ」
冷たく告げる。
フィータがにこやかに笑う。
「カイトちゃんは狂泉様の信徒でしょう?
わたしは兄の仇を討ちたいの。復讐をしたいの。狂泉様の信徒なら、きっと助けてくれると思ったのに」
「ウソ」
カイトが断言する。
「え?」
「フィータさん、わたしに助けて欲しいなんて思ってない。だって、自分で仇を討つ。そう決めてるもの」
フィータがジョッキを握ったまま驚いたように動きを止める。
居酒屋の喧騒が二人を包む。
フィータの細い唇に、苦笑が浮かんだ。
「さすが、狂泉様の信徒ね」
ジョッキを置き、手の平を上にして、フィータが自分とカイトの間に手をかざす。
何かを呟く。
呪だ。
フィータの白い手の平の上に、小さな火が浮かんだ。
「ずっと練習してたの。やっと出来るようになったわ。後は実行するだけって思って、兄が逮捕された東の市場に行って、カイトちゃんを見かけたわ。
ああ、これは狂泉様のお導きだって思った。
うん。カイトちゃんの言う通りよ。
カイトちゃんに助けて欲しいなんて思ってない。ただ、聞いて欲しかっただけ。カイトちゃんに、じゃなくて、誰かに。それだけよ」
フィータが微笑む。
「でも、聞いてもらったのがカイトちゃんで良かった」
「何をする気なの」
立ち上がろうとしたフィータにカイトが訊く。
フィータがカイトを見返し、軽く笑って首を傾げる。
「東の市場でビラを撒くわ。一ツ神なんていないってビラをね。そうすればわたしも兄のように捕まえられる。憲兵に。そうすれば彼らが連れて行ってくれる。
裁判所に、ライスの前に。
そこで殺すわ」
「魔術で?」
「ええ」
立ち上がりながら、「最後まで聞いてくれてありがとう、カイトちゃん」とフィータが微笑む。
「それじゃあね。おやすみなさい」
居酒屋から出て行くフィータの姿が夕闇に紛れる。
姿が消える。
それはまるで、本当にフィータが風に溶けて消えたかのように、カイトには見えた。
「一ツ神という神は存在しません!」
ビラを撒き、フィータが叫ぶ。
「彼らがキャナ王国を救った!それは事実です!けれどいま、彼らは民を殺し続けています!無益ないくさで!
百神国を攻め、洲国を攻め、キャナにいったい何の益があるのでしょう!
しかも今度は、さらにクスルクスル王国に攻め込もうとしている!
ただいたずらに人を殺し続けている!
こんな非道が許されていい筈がありません!」
人々が足を止め、フィータを責めるように、気の毒そうに視線を送り、そそくさと歩き去って行く。すぐに口汚くフィータを罵る者が現れ、「黙れ!」と叫び、「こっちだ!」と憲兵が呼ばれ、駆けつけた憲兵はフィータを殴り飛ばし、引き摺り起こし、もう二発殴った。
切れた唇の血を拭うことなく、フィータが憲兵を睨み返す。
「あなたたちも竜王様の民でしょう!」
憲兵が怯み、不安そうに顔を見合わせ、両側からフィータの腕を取り、「いいから来い!」と引っ張っていった。
同じ日の昼過ぎには、フィータは裁判所にいた。
頭が禿げ、口をへの字に曲げた中年の男が裁判長席に座っている。
ライスである。
ライスはフィータを「売女」と呼び、「低能」と罵り、「犬にも劣る下衆」と蔑んだ。フィータの罪を並べたて、「何か弁明はあるか?」と問う。
大きく息を吸い、フィータが切れたままの細い唇を開く。顔のあちらこちらに殴打痕がある。両手は固く縛められ、腰にも縄が巻かれている。
しかし、フィータの視線はしっかりとライスに向けられていた。
挑むでもなく。憎むでもなく。ただ、まっすぐ。
「……」
声が出ない。
フィータのすぐ傍らに立った憲兵にも、嗄れ声が、微かにしか聞こえない。
喉を潰されている。
いやらしくライスが笑う。
「弁明はないようだな!では、神聖なる一ツ神様の御名において、判決を下す!」
ライスのキンキン声が裁判所内に響く。
裁判所内には、ライスとフィータ以外には、検察官と速記者と憲兵しかいない。検察官はフィータを睨み、速記者は手元に視線を落とし、憲兵は腰縄を握ってフィータの様子を窺っている。
だから、ライスを見ていたのは、フィータだけだった。ライスは判決を言い渡すためだろう大きく口を開け、不意に仰け反り、背もたれに身体を預けた。
ギシギシッとライスの座る椅子が軋む。
『何をしているのかしら』
と、フィータは不思議に思った。判決を下すのに必要なことなのかしら。
『だとしたら、おかしな儀式ね』
検察官がライスの沈黙を不思議に思い、フィータから視線を逸らし、裁判長席に視線を回して、「裁判長殿!」と叫んだ。
慌ててライスに駆け寄り、呆然と立ち尽くす。
「……何事だ?」
フィータの隣で憲兵が訝し気に呟く。
その時になってようやく、フィータは何か異常が起こったのだと悟った。
「裁判は中止だ!その女を連れて行け!」
憲兵がフィータの腕を取る。
速記者が「何事です?」と訊く声が背中越しに聞こえ、扉が開かれる音に混じって「裁判長殿が殺されている」と検察官が答え、速記者の息を呑む音は、憲兵とフィータの靴音に紛れた。
「何か言ったか?」
廊下を歩きながら憲兵がフィータに訊く。
フィータは首を振り、出ない声で、いいえ、と答えた。笑みを浮かべ、満足よって言っただけ、と答えたが、その声もまた、声にはならなかった。
「嬢ちゃん、ここ、いいか?」
タルルナ宅の居酒屋で、キャナの名物だという見たことのない料理と格闘していたカイトに声をかけたのは、タガイィである。
「うん」
カイトが頷き、カイトの前にタガイィが座る。
「今日、裁判官がひとり、殺されたよ」
「ふーん」
興味なさそうにカイトが応じる。
「裁判官と検察官と速記者、それに被告と憲兵しかいない、窓もない裁判所で、どうやったか判らないが、矢で射られてね」
「えーと。ヒコク、という人がやったの?」
「両手を縛られていたし、無理だよ」
「ああ、そうだね」
タガイィが苦笑する。
「裁判官を射抜いた矢は大事な証拠だ。持ち主が判れば逮捕できるだろうが、間抜けなことに、裁判官を射抜いた矢は紛失したらしい」
「失くなったの?」
「ああ」
タガイィがビールを頼む。
「アイツはオレも大っ嫌いだったんだ。嫌いなヤツが死んだからって祝うというのは良くないが、今日は久しぶりに呑んでもいいだろう」
「ねえ、ダガイィさん」
「なんだい、嬢ちゃん」
「前にタガイィさん、『誰が敵なのか判らない』ってわたしに言ったけど、誰が味方なのかも判らない、ということなのかな」
ジョッキを手に、タガイィが「そうかもな」と頷く。ゴクゴクとビールを喉に流し込み、「あー、うめぇ!」と、タガイィはしみじみと声を上げた。