2-4(狂泉の森人たち4)
遠くから聞こえて来た微かな声に、カイトは目を覚ました。
深夜だ。
時間は判らない。
誰かが話しているのだろう、声に切迫感はなかった。だが、何か異常が起こったのだとカイトはすぐに察した。
ベッドから起き上がり、身支度を整え、滑るように部屋を出る。声を頼りに進むと、ヴィトと宿の客の幾人かが廊下で話し合っていた。
「何があったの」
ヴィトが振り返る。
「奴隷が逃げた」
と、彼は告げた。
扉が開け放たれたままの部屋を覗き込むと、昼間騒ぎを起こした雇用人がベッドの脇に仰向けに倒れていた。首が通常では有り得ない方向に曲がっている。
「彼がやったの?」
「多分な」
「困りましたな」
商人がため息を落とす。慌てて起きて来たのだろう、髪はひどく乱れ、夜着のままだ。
「何故、こんなことをしたのか……」
「昼間の意趣返しだろう?」
商人が首を振る。
「そうは思えません」
「なぜだ」
「彼の荷物が見当たりません。それに、部屋が片付き過ぎています。部屋の様子からして、まず、逃げるということが先にあったように思えます。
彼を殺したのは確かに意趣返しでしょう。でもそれは、逃げるついでに殺していったのではないかという気がします」
「なるほどな」
「逃げて、どこへ行こうというのか。何をしようとしているのか」
商人が野次馬を見回す。彼以外の全員が、狂泉の森人である。
「誰か彼を捕まえて来てくれると助かるのですが」
ヴィトが鼻で笑う。
「オレらには関係ない森の外のことだ。誰も行かねぇよ。悪いけどな」
「そうですね」
商人が考え込む。
「彼を殺してしまうのは簡単なのですが……」
カイトの脳裏に奴隷の言葉が蘇る。『オレがコイツらに逆らえば、呪文を唱えられて、たちまち首が落ちるシカケさ』と言った声が。
「捕まえて来てくれとは言いません。彼がどういうつもりで逃げたか、どなたか聞いて来て下さいませんか、」謝礼は出します、と商人は言葉を続けるつもりだったが、その前に「わたしが行く」とカイトが足を踏み出した。
集落の灯りが見えなくなったところで、奴隷の男は足を止めた。集落からさほど離れていない森の中である。
追っ手の心配はしていない。彼を殺す気なら呪文を唱えれば首が落ちるし、もし猟師に追われれば、狂泉の森の中で逃げ切れるはずもなかったからだ。
動くのは陽が昇ってからと決めて、背負っていた荷物を下ろし、火を起こす準備に取り掛かる。
ガサリッとすぐ近くの茂みで何かが動いた。ぎくりと振り返り、腰のナイフに手を掛ける。
「誰だ」
「どこへ行くの」
返事は、音のした茂みとは反対側から響いた。
男が肩の力を抜く。
「嬢ちゃんか」
安堵したように呟く。
捕まる気はない。抵抗しても無駄とも判っていた。しかし--。
「……どうやら楽に死ねそうだな」
ナイフに手を掛けたまま言う。
「そんなことしない」
また別の方向から声がする。まるで回りをぐるりとカイトに囲まれているかのようだった。
「どれいのお兄さんがどこへ行こうとしているのか、何をする気なのか聞きたくて来ただけ」
「なぜ」
「判らない。でも、気になるの」
「良く判らねぇが……」
奴隷の男は笑った。
「オレは国に帰る。それだけさ」
「国?」
「ああ。この森を南に抜けたところにある国さ。洲国だ」
「そいつは国じゃねぇよな」
森から別の声が響く。
ヴィトだ。
「あんたまで来たのか」
「嬢ちゃんの付き添いでな」
と、声が応じる。
「見た目と違ってズイブンと優しいんだな」
小さく呟いてから、奴隷の男は濁った声で応えた。
「洲国は国だ」
「一応はな。だが、6つか7つかよく知らねぇが、洲国の中で幾つもの郡州に別れて、互いに争ってる。そうだろ。
お前の言う国は、洲国の中のどこだ?」
「……」
「お前が殺したヤツ。あいつが言ってたな、お前のことを。国を失くしちまった野郎と。つまり、ナソ州がお前の言う国か」
「……そうだ」
「ナソ州はもう無いよな。何年か前に、キャナに滅ぼされて」
「……」
「そうだろう?」
「ある」
奴隷が断言する。
「……」
「土地はある。残ってる。オレはそこに戻る」
奴隷の前方の茂みが鳴る。細い人影が姿を現す。カイトだと、男は察した。森の闇にあって、男から彼女の表情は見えなかった。
「戻ってどうするの?」
奴隷の昏い瞳に何かが映る。カイトが見た何かが。奴隷は彼女を見上げ、答えた。
「復讐するのさ。オレの国を滅ぼしたヤツラに。オレの一族を殺したヤツラに。オレを奴隷に売ったヤツラに。
ヤツラを殺して、奴隷に売ってやる。
そのためにオレは戻るんだ。オレの国にな」
主人である商人の名を、奴隷が口にする。
「アイツに売られた時に、時折ヤツが森に入っていることを知った。アイツと一緒ならオレも森に入れる。狂泉様の許可が得られる。森に入れば、森を南に抜ければ、洲国だ。オレの国だ。戻れるんだ。オレの国にな。
だからアイツに気に入られるように、なんでもしてきた。なんでもだ。そうだ、嬢ちゃん、何を言われても、あんなバカに理不尽に殴られても、な。
たとえ……」
奴隷が言葉を止める。
固く唇を結ぶ。
沈黙のない森に、夜気だけが霧のように流れていく。
「それがようやく」
吐息のように奴隷の男が呟く。
「報われるんだ」
「でも、呪文を唱えられれば死ぬんでしょう?」
「嬢ちゃんの言った通りさ。それがどうした。だから、何だ」
カイトを見つめて、迷いのない声で奴隷が答える。「うん」とカイトは応じた。
茂みが鳴る。
ヴィトである。表情は森の闇に紛れて、やはり見えなかった。
「納得したか?嬢ちゃん」
「うん」
「お前、弓は使えるか?」
森の影に包まれたまま、ヴィトは奴隷に訊いた。
「あんたら程じゃないけどな」
「だったら」
ヴィトが自分の弓矢を肩から外す。
「これを持って行きな」
ヴィトが弓矢を置いたことは、音で分かった。
「いいのか」
驚いて奴隷の男が問い返す。
「ここから洲国までは、そうだな。400キロはあるか。無事に着けるかどうかはお前の腕と、狂泉様の気紛れ次第、気をつけて行きな」
ヴィトが後ろに下がる。影が森に紛れる。カイトの姿もいつの間にかない。
「なぜ」
という奴隷の問いに、風に乗ってヴィトの答えが届いた。「我らが信徒だからさ。狩猟と復讐を司る、恐るべき女神様のな--」
「そうですか、国に帰ると」
カイトの話を聞いて、商人は頷いた。
「彼を殺すの?」
そろりとカイトは訊いた。
「呪文を唱えて彼の首を落とすのか、ということですか?お嬢さん」
声もなくカイトが頷く。
商人は彼女を安心させるように優しく笑った。
「そんなことはしませんよ」
「でも、あの人、殺されたでしょう?」雇用人のことだ。
「ですからですよ」
カイトにはよく判らない。
「雇用人を一人失いました。これは損失です。彼を殺すことは、確かに容易い。ですが、彼を失うと二人分の損失が出ます。
彼が私を殺しに来ないなら、いつかまた役に立ってくれることもあるやも知れません。今日のことを、恩義に感じてくれるかも知れません。
だとすれば、彼には生きていてもらった方が私には得です。
私は商人です。損得を秤にかけて、得になる方を選ぶのは当然です。
ですから安心してください」
「……よく判らない」
「こいつはただカッコつけてるだけさ、嬢ちゃん」
と、ヴィトがちゃちゃを入れた。
「さて、これを受け取っていただけますか」
カイトの手を取り、商人は彼女にコインを握らせた。銀貨である。ただし、カイトには価値が判らない。
「彼の話を聞いて来ていただいた謝礼です」
「いらない。貰う理由がない」
「貰っときな、嬢ちゃん」
ヴィトが横から口を出す。
「それは正当な報酬だ。カネの使い方を覚えるのも経験だし、お前の両親からもらったカネは使いたくないんだろう?」
コインに視線を落としてしばらく考えて、「判った」とカイトは頷いた。
「あの人、ちゃんと国に戻れるかな……」
ヴィトの操る舟に揺られながら、カイトは独り言のように呟いた。ようやく川の流れが緩くなった2日後のことである。
「さてな」
と、ヴィトが応じる。
「心配ならヤツについて行けばいいじゃねぇか。オメェなら今からでもヤツの後を追えるだろう。それに、オメェならヤツを無事に森の向こう側にも送ってやれるだろう?」
「うん……」
「だけど、そこまでしてやろうって気にはならないんだろう?だったらヤツは、嬢ちゃんにとって、ただそれだけのヤツってことさ。
放っときな」
カイトは答えない。男の昏い瞳を思い出し、彼が去っていった森に目を向ける。
『なんでもしてきた』
森の中で男は、濁った声でそう言った。
『なんでもだ。そうだ、嬢ちゃん、何を言われても、あんなバカに理不尽に殴られても、な。
たとえ……』
彼はそこで言葉を飲み込んだ。どんな言葉が続くはずだったんだろう、たとえ--、の後に。何をしてきたんだろう、あの人は。
「どれいのお兄さんの、名前も聞かなかったな」
カイトの呟きに、舟を操るヴィトは、今度は何も答えなかった。




