20-1(狂泉の森の旅1)
「いきなり矢が飛んできて、ぶすってことはねえよな?カイト」
木々の奥の暗がりを窺いながら、クロはカイトに尋ねた。狂泉の森を目の前にしてのことだ。
「大丈夫だと思う。多分」
「頼りねぇなぁ」
「前にわたしが見た狂泉様の許可なく森に入った人は、すぐに矢を射られるんじゃなくて、まず森から出るよう警告されていたわ。
でも--、警告なしに矢を撃ってくる一族もいるかも」
「おいおい」
「ちょっとここで待ってて」
カイトが森へと踏み込んでいく。
「誰もいないか、わたしが見てくる」
「頼むぜ」
すぐにカイトは戻ってきて、「大丈夫。誰もいない」と告げた。
狂泉の森に入るとすぐに、クロはひくひくと鼻を動かした。「これはなんだか」と周囲を見回す。
「なんと言えばいいか判らねぇが、ちょっと違うな」
マウロが続き、最後にリアの手を引いて、フウが森に入った。
「んー」
フウが大きく深呼吸する。カイトがフウを振り返る。あ。と思う。フウの笑顔がいつもより明るい。
「狂泉様の森だぁ」
フウは心底幸せそうな声を、狂泉の森に響かせた。
「気配が濃いな」
道なき道を進みながら、周囲を探るようにクロは言った。
「生き物の気配が外の森より濃い気がするぜ」
「狂泉様がいらっしゃるもの」
「なるほどなぁ」
「わたしにも感じられるよ、フウ。確かに他の森とは違うな、ここは」
「でも、マウロ様。ファロの森と少し似ていると思いませんか?」
「言われてみればそんな気がするな」
とクロが同意する。
「でしょ」
先頭を歩いていたカイトが足を止める。
「ん?」
どうした、と訊こうとして、クロは止めた。
カイトが指を口に当てたからだ。
もし、カイトとフウだけならやり過ごせただろう。クロならば上手く気配を消してくれたかも知れない。
しかし、マウロとリアがいた。
「だめ。気づかれた」
「森人か?」
「うん」
「どうする、カイト」
「わたしが話してみるわ」
カイトは敵意がないことを示すため、弓を肩に掛けたまま、待った。
がさりっと音がする。
20mほど離れた木々の向こう。
わざと音を立てたのだ。相手もまた、敵意はないと示している。
「ズイブンと、ユニークなグループね」
10mほど先に姿を現したのは中年の女だ。手にした弓には矢を番えている。ただし矢先は地面に向いている。
「森人の子が二人に、獣人と、外の親子かしら?」
「親子ではないわ」
「そう」
さして興味がなさそうに女が頷く。
「ここはフィカ一族の土地よ。何をしているの、あなたたち」
フィカ一族。聞き覚えのない一族だ。
カイトはまず、自分が名乗ることから始めた。
「わたしはカイト。クル一族のカイト。理由があって--」
「え」
女が短く驚きの声を上げる。
「クル一族の?カイト?あの?」
「知ってんのか、姉ちゃん」
カイトの後ろからクロが問う。
「だってあたしも行ったもの。平原王とのいくさにさ。
狂泉様に呼ばれはしなかったけど、そこの嬢ちゃんの噂を聞いて、これは絶対、顔を見とかなきゃって思ってさ。
ああ、本当だ。
こんなとこで会えるなんて思わなかったから判らなかったよ」
女はまだ矢を弓に番えたままだ。だが声は弾み、口元には笑みが浮かんでいる。
「……イヤな予感がする」
カイトが呟く。
「なにが?カイト」
「まさかとは思うけど、……」
女が矢を仕舞い、弓を肩に掛ける。なるほど、狂泉様の猟師だな。クロは感心した。彼らに近づいて来る女の足音が聞こえなかったからだ。
女は、カイトたちから2、3mほどのところまで近づいて足を止めた。
「ねえ。あたし、年頃の息子がいるの。あんた、あたしの娘にならない?」
「はあ?」
「ええ!?」
クロとフウの驚きの声を聞きながら、「お断りします」と、頬を引き攣らせながらカイトは即答した。
「勝ったぞー!」
一人の男が雄叫びを上げた。フィカ一族の集落でのことである。
フィカ一族はカイトのクル一族と同じ北の一族だ。だからだろう、クル一族の集落に似て、フィカ一族の集落もまた、家々は森に深く沈むように建てられていた。
狂泉の祠があるのも同じで、祠の前が広場になっているのもよく似ていた。
「さあ、やろうぜ!」
男が振り返った先にいたのはカイト一行である。
カイトが「判った」と立ち上がる。
広場にはフィカ一族の民人が全員、集まっている。
何のためかと言えば、誰が一番強いか決めるべく戦っている男たちを見物するためである。
何故そんなことをしているかと言えば、フィカ一族の集落に着くなり言い寄って来た男のあまりの多さにカイトがプチッと切れて、「わたしに勝てば、ヨメにでも何にでもなるわ!」と宣言したからである。「狂泉様に誓う!」とまで言ったもんだから収まらなくなった。
歓喜の声を上げる男たちと、彼らを射殺してしまいそうなほど怒り狂ったカイトの間に割って入ったのは、クロである。
「あー。カイトひとりで全員の相手をするっていうのは、ちょっと不公平じゃね?」
それもそうかと男たちも納得し、まずはカイトへの挑戦権を賭けて戦うことになったのである。
「大丈夫?カイト」
「うん」
心配顔のフウにカイトが頷く。
フウに宥められたこともあって、怒りはすっかり収まっている。
「あの人より、ぜんぜんライの方が強いもの」
やっかみ半分、「負けろ!」「負けろ!」と、カイトへの挑戦権を得られなかった男たちが声を揃える中、カイトは彼らの期待通り、雄叫びを上げて躍りかかって来たフィカ一族の男を、瞬殺した。
「その程度でカイトをヨメにしようなんて、カタハライタイわ!」
大見得を切っているのはフウである。
彼女の前にはフィカ一族の男たちが死屍累々、倒れて唸っている。「今度は酒の呑み比べて勝負だ!」と挑まれて、
「カイトが出るまでもないわ。あたしが引き受けてあげるから、まとめてかかってきなさい!」
とフウが立ち塞がったのである。
「頼りになるねぇ。なあ、マウロさん」
クロは機嫌よくちびちびやっている。
「確かにフウが酔って潰れたところを見たことはなかったが、まさかこんなに強いとは。いや、驚いた」
「かいともふうも、かっこいい」
「本当だね」
リアに同意して頷いたのは、白髪で頭の禿げあがった老人である。フィカ一族の”水”だという。
「よっぽど狂泉様に愛されていると見えますな、あの娘も」
クロとマウロが視線を交わす。
「あー、そのことなんだけどね。ちょっと事情があって、フウは狂泉様の信徒じゃねぇんだよ」
「えっ?」
フィカ一族の”水”がクロを見返す。
「いや、しかし--。……とてもそうは、思えないな」
老人の視線の先では、「もっと持ってこーい!」と気勢を上げるフウを、フィカ一族の若い女たちがきゃあきゃあと楽しそうに囃し立てている。
なぜか女たちの中にカイトも混じっている。
「オレもそういう気はするけどね。フウってまだ狂泉様の信徒じゃね?って。メシ食う時も海神様だけじゃなくて狂泉様にも祈ってるらしいし」
「クロ殿たちは、このあと酔林国まで行かれるのでしたな」
さすがに脱獄してトワ郡に帰るところとは言えず、クロは、リアを酔林国まで送って行く途中だということにしている。
「そうだよ」
「だったら判るかも知れないな」
「何がだい?」
「あの子がまだ、狂泉様の信徒なのかどうかが、だよ」
「もっと殺伐としているかと思ってたけど、意外と穏やかなとこだなぁ、狂泉様の森ってよ」
最後尾を歩きながら暢気な声でクロが言う。
彼らが辿っているのは、狂泉の森の南側に延びた『鉄の道』と呼ばれる主要道である。
ただし主要道とは言ってもそこは狂泉の森だ。細くなったり広くなったり、集落と集落の間になるとすっかり途切れたりしながら、それでも先頭のカイトは迷うことなく『鉄の道』を辿っていく。
クロには判らない道が、カイトには見えているかのようだった。
「それはね、クロさん。カイトがいるからよ」
クロの前を歩くフウが言う。
いつもフウの隣を歩いていたリアは、フウの前、マウロの腕の中で眠っている。
「どういう意味だ?フウ」
「狂泉様の森にも集落から追い出されて流れ者になるような人もいるにはいるけど、カイトの方が先に気づいてるから」
フウの言葉の意味を、クロはすぐに理解した。
「もしかして、何度か狙われたのか?オレら」
「ううん。
向こうがあたしたちに気づいた時には、とっくにこっちは知ってるぞってカイトがけん制してたから、そのままやり過ごすか、とっとと逃げてったわ。
だから狙われてない。
狙われる前に終わっちゃってたもの」
「うそ。だってよ、そんな気配、ぜんぜん……。あ、もしかしてフウ、お前も気づいてたの?」
「いつもカイトには遅れちゃってたけど」
クロが首を振る。
「なあ、獣人のオレが気づかないんだぜ?なんでそれを気づくんだよ。ホントはお前ら、狐か狸の獣人なんじゃね?」
くすくすとフウが笑う。
「仕方ないわ、クロさん。だってここは、狂泉様の森だもの」
「だーかーら!ちーがーうー!」
クロが宙に向かってジタバタと叫ぶ。
別の集落でのことだ。
狂泉の祠の前の広場のことで、広場には集落の民人だけでなく、隣の集落の民人も集っていた。
がやがやと和気あいあい、楽しそうにやっている。
カイトが来るまではとても互いに殺し合う寸前まで関係が悪化していたとは思えないほどだ。
「姫」「姫」と呼ばれる娘が、広場の真ん中にいる。
カイトだ。
カイトが姫と呼ばれることが、クロはどうしても受け入れられないのである。
「姫様っていうのはよう、こう、気品があってよぉ、マウロさん、あんたの娘のミユさんのような人のことなんだよぉ。
間違ってるよぉ、カイトを姫って呼ぶのはよぉ」
なかなくてもいいのに。と、思いながらリアはオレンジジュースを飲んでいる。
フウはカイトの隣に座っている。次々と勧められる酒を、カイトに代わって楽しく引き受けているのである。
「仕方ないだろう、クロさん。彼らがカイトのことを姫と呼ぶのも当然だと思うよ、わたしは」
森人に囲まれたカイトとフウの姿を見ながら、マウロはクロに応えた。
「空気がひりひりする」
集落に着く前に、先頭を歩いていたカイトが不意にそう言った。
「うん」
フウも頷いた。
「この感じ。あたし、知ってるわ」
「わたしも」
それからいくらも行かないうちに、カイトたちは数人の森人に呼び止められた。最初は不審がっていた森人たちは、カイトの名前を聞いて態度を変えた。
「君があのカイトか。会えてうれしいよ。だけどここは早く通り過ぎた方がいい。巻き込まれないうちにね」
隣の集落の一族と争いになりそうだという。
カイトとフウは顔を見合わせた。
狂泉の森で一族同士の争いを止めることはできないし、そもそも余所の一族が口出しできることでもない。
二人とも判っている。
しかし、できれば止めたかった。
交渉したのはクロである。
「こっちはまだ小さい子もいてよ、休ませて欲しいんだ。とりあえずでいいからよ、弓を収めてくれねぇか?」
「できる訳ないだろう」
と言う民人に、
「それじゃあ、わたしと弓の勝負をしてくれる?もしわたしが勝ったら弓を収めて。
双方とも」
弓の勝負を挑まれて逃げる森人はいない。
猛らない森人もだ。
クロとマウロの二人で、両方の一族の”水”とも話した。カイトとフウの一族が争い、フウの一族が滅んだことも。
両方の一族の”水”は納得し、カイトが弓の勝負に勝てば争いを止めると、狂泉に誓って約束した。
「あの娘の噂は我々も聞いている。おそらくこれは、狂泉様のご意志でもあるのだろう」
と。
彼らの好意にカイトは持てる技量の全てを尽くして応えた。
カイトが示したあまりの技量の差に両一族とも悔しがるよりも呆れ果て、そして彼らは、カイトを「姫」と呼び始めたのである。
「今後両一族は、狂泉様に誓って決して争わないこと。
いい?」
「もちろんだとも!仲良くするに決まってるじゃないか!姫」
先刻までの殺気はどこへやら民人が機嫌よく応じる。
「うんうん。殺し合いなんかするもんか」
「本当に?」
「もちろんだよ!ひめ!」
カイトの問いに、両集落の民人が声を揃えて大きく頷く。
「それから」
「なんだい、姫」
「わたしは姫じゃない。姫だなんて、呼ばないで」
「それはできないよ!」
と、両集落の民人は再び声を揃えた。
嫌がるカイトを面白がって集落の女たちまでカイトのことを「ひめさま」と呼び始め、うんざりした気分のカイトを先頭に、一行は集落を後にした。
それが起こったのは、それから数日後、そろそろ次の集落があるかと思われた、深い森の中でのことである。




