19-2(騒動の後2(闇の神の望むもの))
衛兵隊の襲撃から逃れた”チケ寄宿舎”の新しいアジトは、元のアジトがあったのと同じ貧民街にあった。
ラスの良く知る建物。
彼が身を置いていた”ターフ寄宿舎”のアジトである。
寄宿生はいない。
カイトが北へと、狂泉の森へ向かっているという出所不明の情報に乗って、残った全員で後を追って行ったのである。
ラスが踏み込んだ時、舎監長はすでに死んでいた。
”ターフ寄宿舎”の舎監長が使っていた椅子に座って大きく目を見開き、額を矢で射抜かれて死んでいた。
ラダイたちの仕事だ。
奥の部屋に人の気配がある。舎監長の私室だ。一度も入ったことのない扉をラスが開けると、紅茶の匂いが漂ってきた。
椅子に座った女が顔を上げる。
「あら。ラス兄さん、お久しぶりね」
ティアはそう言って笑った。
ティアの手元には書物がある。ちらりと薬草の絵が見えた。ラスの胸が鈍く痛む。ファリファ王国でも、ティアは勉強熱心だった。
「どうしてラス兄さんがここにいるの?」
ティアが栞を挟み、書物を閉じる。
花柄の栞。
いつも通りの。
「お前を探していたんだ」
「あら。どうして?」
ティアが立ち上がる。
「何か飲む?ラス兄さん」
「いらない」
「おいしいのに。海都クスルの紅茶って。ファリファ王国で飲むのより、ずっとおいしいわよ」
「ティア」
「なに」
「逃げよう、オレと」
「どうして?」
「ファリファ王国がお前を追ってる」
ティアが紅茶を飲む。
「どうして?」
「どうしてって、本気で訊いてるのか?」
「だって、逃げなければいけないことなんて、わたしは何もしていないもの」
絶望にラスの視界が黒く染まる。
息が詰まる。
「伯父上が死んだ」
「本当に?」
「ああ」
「どうして父さまは死んだの?」
「お前が、……お前がしたことを悔いて、死んだんだ!伯父上は!」
ティアが不思議そうに首を傾げる。
「ごめんなさい。わたしは父さまが気に病むようなことは何もしていないわ。それなのに何を悔やむと言うの?」
なぜだろう。
ラスは不思議に思った。
ティアの顔が見えなかった。まるで彼女の顔だけが影に覆われているかのように。まるで、夜の闇で黒く塗りつぶされているかのように。
ただ、少しも陰りのないティアの笑みだけが見えた。
「わたしはファリファ王国に帰るわ。ラス兄さん」
ゆらゆらと揺れる視界の向こうで、ティアの穏やかな声が響く。
「でも、今はまだやらなければいけないことがあるの。それを済ませたら、ファリファ王国に帰ろうと思っているの。
だってまだ、王宮に仇が残っているもの。
父さまが亡くなられたのは、そう、きっと王宮勤めの心労が原因だわ。
ああ、可哀想な父さま。
王宮勤めなんかしていなければもっと長生きできたでしょうに。
ラス兄さんも一緒にファリファ王国に帰りましょうよ。グラム殿下と父さまの仇を討つため……」
ラスは人を救う薬師だ。伯父に教わった通り患者に寄り添い、多くの場合、感謝され、笑顔を向けられた。
ラスは人を救うことを誇りにしていた。
だが、今は違う。
人を救う方法より、人を殺す方法の方がより詳しい。
どこをどうすれば人が死ぬか。薬師としての知識もあった。今では”ターフ寄宿舎”の誰よりも詳しい。ただ知っているだけではない。人の身体を貫いた時の手応えに慄いたのは、もうずいぶん昔だ。
たった数か月前とは思えないほど。
ティアは自分が刺されてもきょとんとしていた。
ラスが手にした長剣は、正確にティアの心臓を貫いている。短い息がティアの唇から洩れて、それが最後だった。長剣をティアの身体から抜き、崩れ落ちるティアの身体を支え、横たわらせる。
長剣を鞘に収め、ラスが背中を向ける。
部屋を出ようとしたラスの耳元で、柔らかなティアの声が響いた。
「自分だけ、生き残るつもり?」
ラスは、バネ仕掛けの人形のように振り返った。
荒く息を乱し、室内を見回す。
ティアは倒れたままだ。仰向けに倒れて、瞬きしない瞳を天井へと向けている。
ティアの傍には粉々に砕けたカップがある。床に広がる紅茶が、ティアのスカートを湿らせ、汚している。
確かめるまでもない。間違いなく死んでいる。
ラスは長い息を吐いた。
肩から力が抜ける。
「いや」
ラスは再び背中を向けた。
「もちろん、そんなつもりはないさ」
ラスが歩み去り、静けさの戻った部屋に一人の少女が姿を現した。
額に描かれた三つの目。
血の色の唇。
死の聖女、ヌーヌーである。
ヌーヌーはティアの死体ではなく、誰もいない壁際に視線を向けた。
「ようやく会えたわね、ガキ」
答えはない。
ヌーヌーも答えを求めてはいない。
「ふーん」
ヌーヌーが目を細める。
「ズイブン面白い姿をしてるのね」
さして興味なさそうに言う。
「そのまま放っておいてもいいけど、公女様の許へ送ってあげる。
ああ、あんたの為じゃないから感謝しなくてもいいわ。ずっとそんなところにいられたらわたしの気分が悪いもの。
もちろん、楽には行かせてあげないから。
覚悟なさい」
ヌーヌーが手を上げる。
風もなく髪が靡く。
ゆけ。
姿の見えない獣が、歓喜の声を上げて部屋を突っ切り、何もない空間に躍りかかった。
***
ヌーヌーとメルのはしゃぐ声に合わせて、わんわんと犬の吠える声が応える。一匹ではない。二匹だ。
「カガス」
書斎の扉を少しだけ開けて、ターシャは執事を呼んだ。「なんでございましょう」と、すぐにカガスが廊下に姿を現す。
「暗くなる前にメルと二人で、クロとシロを散歩に連れて行くようにヌーヌーに言っておいてくれないか?
それと、しばらくは誰も書斎に入らないように。いいね」
「かしこまりました」
カガスが頭を下げる。
ターシャが書斎の扉を閉じる。
光が消える。
書斎には窓もある。しかし、陽光は欠片ほども残らず、閉じたばかりの扉さえどこにあるか判らなくなる。
ヌーヌーを散歩に行かせ、誰も書斎に入らないように命じたのは、不測の事態を避けるためだ。もっとも、わざわざ命じなくても誰も書斎には入れない筈だった。例え死の聖女であるヌーヌーの力をもってしても。
ターシャは振り返り、息苦しささえ感じる重い闇に向かって僅かに頭を落とした。
膝はつかない。
もし威に圧されて膝をつけば命を差し出す。
そういう約束である。
闇の中に明かりが灯る。
小さなランプがある。宙に浮いている。
「久しぶりだね。ターシャ」
ランプの横で声が響く。
声の主は、一匹の黒猫である。
小さな身体に比して耳が大きい。細長いしっぽが左右に揺れる。瞳の色はサファイアの如く青く、普通の黒猫よりも体毛に艶がある。
しかし、それは僅かな違いで、どこにでもいる普通の猫だ。
外見だけは。
閣下のお姿をそのまま現したのでは、ゲームにならないでしょう?
立会人となった彼女はそう口添えしてくれた。
「犬を飼ったんだね。ターシャ」
黒猫が落としたとは思えない、重く冷たい声が床を這う。
ターシャの身体の芯が痺れる。命の根元が震えるような恐れが腹の奥深くから湧き上がり、胃が痙攣し、吐きそうになる。
竦む足を動かし、ここから今すぐ逃れたい。
そう思い、思いながらも、ターシャの口元には笑みが浮かんでいる。自分の中で轟然と波打ち、荒れ狂う感情を楽しんでいる。
「私への嫌がらせかね?」
「いいえ」
と、ターシャは黒猫の問いに答えた。
「屋敷が急に寂しくなりましたので。ヌーヌーのために」
「随分と優しいことだね」
「誰よりも私が驚いております。我が主よ」
黒猫が笑う。
「それで、何の用だね」
「教えていただきたいことがございます」
「何をだね、ターシャ」
「主が、何をお望みなのか、です」
「私の望みか」
「はい」
「いいだろう。何かひとつ希望を叶える、というのが約束だったからね」
リアを迎えに行く際に交わした約だ。
おそらくはただの戯れなのだろう。少女を助け、次の道標に引き渡すことができれば、何かひとつ希望を叶えよう。
狂気と混乱を司る神はターシャにそう約した。
「私は雷神に訊きたいことがあるんだよ。しかし、末弟とはいえさすがに最高神だ。雷神が閉じた扉の内側には私でさえ入れない。
だから、誰かに扉を開けて貰う必要がある」
ターシャの頭がすばやく回る。
どこまで神が本当のことを言っているのかと考える。
「カイト殿が雷神様の神殿の扉を開く、ということでしょうか?」
慎重に訊く。
「雷神の神殿の扉を開けられるのは私たちの最愛の妹だけだよ」
「……」
「彼女は糸だよ」
「どういうことでございましょう」
闇の神が嗤う。
「すべてを見通すことは誰にもできないんだよ、ターシャ。たとえ、神である私たちでさえね。
だからこそ、私はすべてを知りたいと望んでいるのだよ」
「……」
「彼は北へ向かったよ」
「はい」
「やはり彼が死んだ方が面白かった。
彼女も我が許へと来た。
今回の余興はなかなか楽しかったよ、ターシャ」
***
「何があったんです?」
問われて振り返った男は、声をかけてきた若い男を見て、ぎょっと目を剥いた。
若い男の服の下、首筋から肩にかけて大きな傷跡が覗いている。諦めを湛えた蒼い瞳はまるで夜の闇のように昏い。
そして何より、若い男の服は前面、黒ずんだ血で汚れていた。
「い、いや、人が殺されててね……」
「殺されたのは、こちらの土地の方ですか?」
見た目と違って若い男の口調は丁寧で、柔らかかった。
「いや、知らない人たちだよ」
「そうですか」
若い男が頷く。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げて、北へと歩き始める。
「どこへ行くんだよ、兄ちゃん!」
若い男が足を止める。振り返ることなく軽く頭を下げて、歩み去っていく。晴れやかと言ってもいいような笑顔を、若い男は残していった。
若い男の行く先には狂泉の森がある。
狂泉の森しかない。