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18-5(檻の中のカイト5(騒々しい脱出))

「巨竜は人の争いには関わらない。そうではなかったのかね?」

 まだキャナにいた頃のことだ。久しぶりに訪ねて来た友人に、ターシャは前置きもなく尋ねた。

「イート沖海戦のことね」

 友人が頷く。

 大敗したにしては人的被害が少ない。

 立ち込めた濃密な霧の中、巨大な竜が海に落ちたクスルクスル王国の兵士たちを助けたという噂がターシャの耳にも届いていた。

「娘たちの中でもあの子ほど巨竜たちに愛された子を、あたしは知らないわ」

 と、友人は笑って答えた。



 最初はバチッと静電気が飛んだような小さな音がひとつ響いただけだった。

 バチッと同じ音が続き、バチッバチッとたくさんの音が上空で響いた。カイトが夜空を振り仰ぐと、刑務所の塀に沿うように上空で幾つもの緑色の火花が散っていた。

 すぐにぎゃあぎゃあという鳴き声が雨が降るように聞こえて来た。

 鳥にしては大きな体。太い足と尻尾。腕と一体になった巨大な翼。粉うことなき飛竜が、暗い空を数え切れないほど舞っていた。

「飛竜だぁ!」

 恐怖に満ちた声が建物の向こうで響く。

「さて。今のうちに結界を解いてしまいましょうか」

「ペル様」

 どこか浮かれた声でカイトが訊く。

「なに?」

「飛竜に乗せてもらって塀を越えればいいんじゃないかな?『王妃の黒いローブ』みたいに」

「飛竜に乗りたいの?カイト」

「うん」

 カイトの横ではフウも目を輝かせている。

「そうしたいところだけれど、まだ結界が生きているから、飛竜たちは平気でもわたしたちは死んじゃうわ」

「えー!」

 大きな声で叫んだのはヌーヌーである。カイトとフウは少し遅れた。

「死の聖女様もお乗りになりたかったのですか?」

 笑顔でペルに問われて、わたわたとヌーヌーは手を振った。

「わ、わたしはカイトやフウみたいなガキじゃないわ!」

「判りました。少しお待ちください。死の聖女様の本意ではないかも知れませんが、結界を解いて、皆で飛竜に乗ってとっととここを……、あら?」

 ペルがヌーヌーに顔を向ける。

「申し訳ありません、死の聖女様」

「なによ」

「飛竜を呼ぶのは久しぶりなのですが、わたしの呼びかけが懐かしくて、お呼びしていない方たちまで来て下さったようです」

 カイトが空へ視線を向ける。

 彼女の知らない異様な気配を感じたのである。飛竜に似ている。似てはいるが、まったく別物だ。

 圧迫感が尋常ではない。

 息苦しさを感じるほど空気が重くなる。

「紳士淑女のみなさん」

 おどけた声でペルが言う。

「吹き飛ばされないよう、頭を抱えて--、伏せて下さい」

 星がない。

 何か巨大なものが、空から舞い降りて来る。

「来ます」


 それは着地する前に大きく翼をひと振りして減速し、太いふたつの足を勢いよく地面に、ゲイル刑務所の塀に叩きつけて粉々に破壊した。

 腹に響く重い咆哮が、大気をびりびりと震わせる。その声は海都クスルの隅々にまで轟いたと、後でカイトは聞いた。

 ゲイル刑務所をすっぽりと覆ってしまいそうなほど巨大な翼。太い四肢。黒にも似た深紅の巨体。頭部は幾つものツノに覆われ、小さな赤い瞳には深い叡智が宿り、顎の下に生えたツノはまるで賢者の豊かな髭のようだ。

「……炎竜?」

 呆然とマウロが呟く。

 カイトとフウ、それにヌーヌーの3人は、新しいおもちゃを見るかのようにきらきらと瞳を輝かせて炎竜の巨体を見上げている。

「今のうちに行きましょう」

 ペルの言葉に、マウロがはっと我に返る。

 結界を解くまでもない。ゲイル刑務所の塀はすでに破壊されている。

「あれには乗れないのかしら?」

 ペルの後を追いながら、どこか気取ってヌーヌーが訊く。

「炎竜様はとても気高い方ですから。死の聖女様と同じで。ですからそれは難しいでしょうね」

 炎竜の足元に向かって歩きながらペルが答える。

「えー!」

「ペル様、さっき、お呼びしていない方たち、とおっしゃいましたか?」

「ええ」

 マウロの問いにペルが頷く。

「方たち、です」

「いったい誰が……」

「ちょうどいらっしゃったようですわ」

 マウロからは建物が邪魔になって姿が見えなかったが、激しく水飛沫が上がる音を、マウロは聞いた。

 巻き上げられた水飛沫が滝のように降り注ぐ。

「--これは、海水?」

 飛沫を舐めたマウロが呟く。

「巨海竜様ですよ。マウロ様」

 炎竜にも負けない甲高い声が、海都クスルに響き渡った。


 カザン将軍は呆然とゲイル刑務所を見つめていた。

 もっと正確に言えば、ゲイル刑務所に降り立った炎竜と、炎竜の向こうに持ち上がった二つの巨大な頭を。

 細長い二本の首がゆらゆらと揺れる。

 それぞれの頭に一対ずつ傷の如く細く長い目がある。身体は浅瀬の透明な青から光が届かない深海の濃紺までまだらに染まっている。カザンも聞いたことがある。ひとつの身体にふたつの首を持つ深海に潜む竜のことを。

「今度は……、巨海竜って……」

 ゴロゴロと雷が鳴る。

 はっと気がつくと晴れていたはずの夜空がいつの間にか暗雲に覆われていた。

 稲光が走り、雲の中に潜む巨大な何かの姿を照らし出す。

 雲の中を高速で飛び回る何かがいる。

「雷竜……?」

 炎竜が咆哮を轟かせ、カザンはハッとゲイル刑務所に視線を戻した。

 いくつかの人影が彼の方へ向かって走って来ていた。

「ええい。今は逃げるが先か」

 若い頃のようには動かない足に舌打ちしながら、彼は人影へ向かって駆け出した。

「ご苦労様です。カザン将軍」

 カイトとフウに両脇を支えられるように駆けて来たペルが明るくカザンに声をかける。

「いろいろお聞きしたいことがありますが、馬車はこちらです!」

「はい」

 ペルが笑顔で頷く。

「とにかく早く!」

 駆けて行った先で、馬の怯えたいななきと、馬を宥める声が聞こえてきた。

「良く待っていてくれた!」

「お早く、将軍!」

 手綱を握って叫び返したのはララである。

 カザンが馬車の扉を開き、予定よりも多い人数を押し込める。

 ヌーヌーが「狭いわね!」と文句を言うのも構わず叩きつけるように扉を閉じると、カザンは御者台に登り、「行け!」と命じた。

 馬車が走り出し、しばらく御者台で不機嫌に黙り込んでいたカザンが、不意に、「洲国の王ですと!」と叫んだ。「あ、何でもない、独り言だ」と、訝し気にちらりと視線を向けたララに言って浮かした腰を下ろす。

「……承知いたしました。ですが、いささかやり過ぎですぞ……」

 抑えようにも抑えきれなかった。ため息交じりに落としたカザンの呟きは、ララにはそう聞こえた。


 炎竜と巨海竜の咆哮は、建物ごと女牢を震わせた。

 キャーといくつも悲鳴が上がる。

「サクさん」

 声を潜めてサクに話しかけたのはイサである。

「なんだい」

「逃げた方がいいんじゃないか、これ」

「そうだねぇ」

「それに、みんなで逃げれば、一人ぐらいいなくなっても誰にも気づかれねぇんじゃないかな」

 サクがイサを見返す。

「もうすぐ刑期が終わるだろ、イサ。いいのかい?」

「戻ってくれば問題ないさ。それに、もしかすると良く戻ったって刑期を短くしてくれるかも知れないし」

 大地を打つ大きな音が響いてぐらぐらと床が揺れる。

 サクは嗤った。

「フス」

 すぐにフスが駆け寄ってくる。

「なんでしょう、姉御」

「ここから逃げるよ。鍵、開けておくれ」

 ニヤリと笑って頷き、フスが扉に取りつく。

 サクは女囚たちに向かって叫んだ。

「何か大ごとが起こってる!扉を開けるから、逃げたいヤツは逃げな!下手すりゃあオツトメが長くなっちまうから、そこはそれぞれが良く考えな!」

「開きましたぜ!姉御!」

 どこかに雷でも落ちたか、激しい雷鳴の後、ドオンッと空気が震えた。

「一人ずつだ!慌てず、急ぎな!」


 青銅の彫像の倒れた独居房の扉が、外から開かれる。

「ロナ様!」

 ロナが顔を上げると、見知った若い看守の顔があった。刑務所に入れられてからずっとロナに好意的に接してくれている看守だ。

「助けに来ました!早くお逃げください!」

「ありがとう。だが、わたしは逃げる訳には--」

「炎竜です!」

「え?」

 看守の顔が青ざめている。

「他に巨海竜も!暢気なことを言っているヒマはありません!皆、パニックです!他の囚人たちも解き放たれています!

 ぐずくずしていたら死んでしまいます!」

 建物が揺れて、パラパラと埃が落ちてくる。

「炎竜に、巨海竜?」

 事態が飲み込めず、ロナが看守に問い返す。

「早く!」

 看守がロナの手を取る。

 引き摺られるように刑務所の中庭まで出て、ロナはそこで刑務所の北と南にそそり立った炎竜と巨海竜の威容を見た。

 わあわあと人々の上げる声を塗り潰すように二頭の巨竜が咆哮を轟かせる。鼓膜が破れそうなほどの大音量に、ロナの耳が瞬時、機能不全を起こす。

「これは!」

 ロナは声を弾ませて叫んだ。

 誰もが大きく開け放たれた門に向かって懸命に走っている。我先にと走っている人々の中にあって、何人かが踏み止まっている。

「慌てるな!」「急げ!」「人を押しのけるんじゃねぇ!」

 門に人が詰まって滞らないよう叫んでいるのは、幾人かの看守と囚人たちだ。女囚もいる。ロナは知らなかったが、サクやイサたちだ。

「混乱の極みじゃないか!」

 数日前、惑乱の君の御名を口にして死んだ女がいることはロナも知っている。それがロナにひとつのひらめきを与えた。

「惑乱の君がさぞかしお喜びだろう、この騒動は!」



「私としてはもう少し、騒動を大きくしたかったのだけれどね」

 と、惑乱の君の信徒であるターシャは、残念そうに言った。

 ガタガタと揺れる馬車の中だ。

 彼の隣にはヌーヌーが座り、向かいの席にはパルルがいる。御者台に座っているのは料理人のバンドである。

 ゲイル刑務所から逃れたペルたちと路上で落ち合い、ヌーヌーとパルルだけが乗り移ったのである。

「申し訳ありませんが、やはり、止めさせていただくことにします。伯爵様」

 馬車の扉を閉じる前に、ペルはターシャにそう告げた。

 アマン・ルー宰相を排除すべく、まさに今夜、軍の一部が集結していることをターシャは知っている。それを止める、とペルは言ったのである。

「王太后様が望まれるのなら仕方がない」

「騒動に乗じて、英邁王様にもご退場いただこうと考えていたのかい?ターシャ」

 と、パルルが訊く。

「私にとってはそれが一番いい結果だったんだがね」

「騒動を起こすために、私をゲイル刑務所に残しておいたんだね」

「ヌーヌーが忍んで行っても君なら間違いなく看守に見つかってくれるからね」

 パルルが肩を竦める。

「おかげで私は慣れない作業をやらされて大変だったよ」

「いい暇つぶしにはなっただろう?」

「珍しく憂い顔だね、ターシャ」

「ああ」

 若い友人の言葉に、ターシャは素直に頷いた。

「よりお辛い道をペル様に選ばせてしまったな、と思ってね。判ってはいたことなんだが--」

 ヌーヌーがターシャを見上げる。

「さてと」

 ターシャはヌーヌーに笑顔を向けた。

「しかしこれで、しばらくは手が空くことになったよ、ヌーヌー。屋敷も人が減って寂しくなったし、犬でも飼おうかと思うんだが、何か希望はあるかい?」

 ヌーヌーの青い瞳が明るく輝く。喜色に満ちたヌーヌーの様子に、喉元まで出かかっていた『犬ならいっぱいいるんじゃないか?』という軽口を、パルルは飲み込んだ。『ま、あれは、飼い犬にするにはちょっと怖いか』と思う。

「それなら、ターシャ様……!」

 遠くに響く巨竜の咆哮も、寂しさも忘れて、ヌーヌーは声を弾ませた。

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