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2-3(狂泉の森人たち3)

「この眉間の傷、どうすればこんな傷がつけられるのですか?」

 集落に持ち帰ったイノシシの額の傷を見てヴィトにそう尋ねたのは、イノシシを捕って来るよう依頼した客である。

 小柄な男だった。手足が短く、頭だけが妙に大きい。歳は40代半ば、といったところだろう。穏やかな風貌をしていたが、細い目の奥には抜け目のなさと犀利が深く潜んでいた。

 狂泉の森にほど近い、大平原にある街の豪商である。

 矢は既に回収済みで、商人が指し示したイノシシの額には、小さな穴だけが開いていた。

「秘密だ」

 どこか楽しそうにヴィトが応じる。

「そうですか。秘密と言うのであれば、仕方ないですねぇ」

 そう言いながら商人は改めてイノシシの額を覗き込んだ。

「この傷跡からするとイノシシの正面に立って矢を射たのですよね。かなり勇気のある方とお見受けしますが、どなたがこれを?」

「そっちの嬢ちゃんだ」

 ヴィトがカイトに向かって顎をしゃくる。二人から少し離れて立ったカイトは、二人の声が届かなかったのか、彼らを振り向くことはなかった。

「あちらのお嬢さんが」

 商人の声に驚きの響きが混じる。

「素晴らしいですね。怪我をされている様子もない。お嬢さんがどんな技を使われたか、是非お聞きしたいものです」

 商人がヴィトに笑顔を向ける。

「こちらの毛皮を森の外に持ち出すのは、やはり難しいでしょうね」

 ヴィトが薄い唇を歪める。

「あんたのことだ、商人仲間に自慢したいだけだろう?だったらダメだ。狂泉様がお許しにならねぇ」

「濫りに森の物を持ち出すな……、ですか」

 商人が呟く。

「私が衣服として使うと言っても、駄目ですか?」

「試したければ試してみなよ。気紛れな狂泉様のことだ、上手い嘘ならお許し下さるかも知れねぇ。

 仮にお気に召さなければ、ま、あんたがちょっと死ぬだけだ」

 商人がため息をつく。

「ウソは苦手です。残念ですが、諦めましょう」

「よく言うぜ」

 吐き捨てるようにヴィトが嗤う。

「酒と肉だけでガマンしな。良い酒が入ったからな」

「酔林国で造られた酒ということでしたな。どなたが造られた酒ですか?」

「あんたなら知っているだろう、ショナから来たトロワという……」

 ガツンッという低い音を耳にして、ヴィトは商人から視線を逸らした。


 イノシシを捕りに一緒に森に入った奴隷が倒れていた。殴られたのである。

 殴ったのは奴隷と同じ、商人の連れだ。ただし奴隷ではなく、商人の雇用人である。商人の護衛も兼ねているのか、ガタイのいい男だった。

 雇用人は倒れた奴隷をさらに何度か蹴りつけ、怒鳴り上げた。

「奴隷の分際で、偉そうなクチを利くんじゃねぇ!」

「いてててて」

 小さく呟いて身体を起こしながら、奴隷の男は、彼の頭の上、すぐ側に誰かが立っていることに気づいた。

 雇用人を無視して振り返る。

「よお。嬢ちゃん」と、奴隷の男は、自分を見下ろすカイトに声をかけた。殴られた後とは思えない口調の軽さだった。

「なぜ殴り返さないの?」

 不思議そうに、カイトは問うた。

 自嘲気味に奴隷が笑う。

「オレは奴隷だからな」

「宿のオジサンにもそう聞いた。でも、どれいってなに?」

 少し考えて、奴隷は自分の首を指さした。

「この首の文字、見えるか?」

「わたし、文字は読めない」

「ああ、すまねぇ、オレもだ。ま、ただの文字じゃないがな。これは呪さ。オレがコイツらに逆らえば、ちょっと呪文を唱えるだけで、たちまち首が落ちるシカケさ」

「だから何?」

「だから何、ときたか」

「あんたの方がこいつより強いでしょう?」

 奴隷を見つめたままカイトが言う。

「まあな」

「なんだとぉ」

 と、反応したのは雇用人である。

「戦争に負けて奴隷に売られたテメェが、オレより強いだとぉ。国を失くしちまった野郎が何をほざくかっ!」

「まだ国は無くなってねぇよ」

 と奴隷が呟き、

「あんたは黙ってて」

 とカイトが言った。

「ああ?」

 雇用人がカイトを血走った目で睨む。

「ガキィ。テメェ、オレに指図する……」

「やめねぇか--!」

 割って入ったのはヴィトである。ヴィトは怒鳴った訳ではない。しかし彼の低い声は地を這うように大きく響いて、踏み出そうとしていた雇用人の足を止めた。

 歩み寄ってきたヴィトに気圧されるように雇用人が後ろに下がる。

 ヴィトはしかし、彼ではなくカイトに近付くと、まるで手負いの獣と対峙するように距離を取って、彼女に話しかけた。

「嬢ちゃん、ソイツらが争うのはオレらには関係ない森の外のことだ。ソイツがオメェに何かしたか」

 ヴィトの問いに、「何も」と不承不承カイトが応じる。

「だったら山刀から手を放しな」

 ヴィトの言葉に、雇用人はカイトが腰に差した山刀に手を掛けていることにようやく気づいた。自分を見詰める静かな目に、ぞくりっと背筋が震えた。

「あなたもですよ」

 ヴィトの後ろから商人が雇用人に声をかける。

「我々は客です。お世話になっている先で、身内同士が争うなんて感心できません。客なら客らしく振る舞いなさい」

「……はい」

 主人の言葉に、不満を押し殺して雇用人が頷く。

「ここはもうよろしいですから、部屋に戻っていなさい」

「承知いたしました、旦那さま」

「あなたもですよ。しばらく用はありませんから、頭を冷やしてきなさい」

 奴隷が立ち上がり、土を払う。「はい」と頷いて、カイトをちらりと見て立ち去る。ただし雇用人とは別の方向へだ。

 商人はカイトとヴィトに顔を向け、にこりと笑った。

「お騒がせいたしました、ヴィト殿。お嬢さん」

「謝ってもらうことはねぇよ」とヴィトは応じ、カイトはカイトで「……ごめんなさい」と商人に小さく頭を下げた。

「ああ見えて、かなりの気性が激しい方のようですね、あのお嬢さんは」

 肩を落として立ち去るカイトの背中を見ながら、商人はヴィトに話しかけた。

 ヴィトが嗤う。

「この森に激情家じゃないヤツはいねぇよ。

 あんたの雇用人が言った通りさ。まだまだガキなんだよ、あの嬢ちゃんは」

 そう言ったヴィトの声は、いつも通りの悪人声である。だが、彼と付き合いの長い商人は、彼の声音に、低く愉しげに笑った。

「ヴィト殿にしては随分と優しい物言いですね。相当、あのお嬢さんがお気に入りのようだ」

 商人の言葉が意外だったのか、ふむ、と考えて、ヴィトは「乳くせぇガキに興味はねぇよ」と、彼にしては明るく答えた。


「何をへこんでるんだ」

 川岸を見下ろす建物の影に、膝を抱えて座っていたカイトに声をかけたのは奴隷の男である。

 彼が近づいていることは知っていたのだろう、「何でもない」と拗ねたようにカイトは応じた。

 はぁとため息をつく。

「さっきは助かった。ありがとうよ、嬢ちゃん」

「どれいのお兄さんに礼を言われるようなことは何もしてない」

「奴隷のお兄さん……って、まあいいか。その通りだしな。宿のオヤジに叱られてへこんでんだろ。なんでオレを助けてくれたんだ?」

「お兄さんを助けた訳じゃない。ただ、ちょっとムカついて……」


「怒りを抑える術を学べと、前にも言ったじゃろう?」

 幼いカイトに向かって、クル一族の巫女である老女は言った。

「わたしは悪くない」

 カイトが憤然と老女を睨み返す。

「悪いのはフォンの方」

 カイトにそう言われたフォンは、二人の側にうずくまって泣きじゃくっていた。

「確かに先に口を出したのはフォンかも知れん。じゃが、先に手を出したのはお前じゃろ、カイト」

 老女に断言されて、うっとカイトが言葉に詰まる。

「そうだけど、婆さま、でも、でも……!」

「言い訳なぞするな、見苦しい」

 ピシリと言われてカイトが黙る。彼女が黙ったことで、フォンの泣き声がより大きくクル一族の集落に響いた。老女の額にぴくぴくと青筋が立つ。彼女は子供の泣き声が大嫌いだった。怒りを抑える術を学べとカイトに説教していながら、老女もまた、結局は狂泉の森人の一人だった。

 元々緩い彼女の堪忍袋の緒は、5秒も持たずに切れた。

「お前もちょっとカイトに殴られたぐらいで、いつまでもピーピー泣くな!フォン!」

 老女が怒鳴り、ひっとフォンが息を呑む。そして僅かな間を置いて、フォンは老女に抗議するように、より一層大きな泣き声を張り上げた。口の端を震わせていたカイトも、フォンにつられて、耐え切れずに声を上げて泣き始めた。


 多分あれは5才か6才頃のことだ、とカイトは思った。その年頃の子供に怒りを抑える術を学べと説教するのだから、老女も随分無茶を言っていたものである。

「カタイの娘じゃからの。怒りを抑えるのは難しいか」

 カイトの手を引いて、老女は言った。泣き続けるフォンを、家まで送り届けた後のことだ。

 老女の言葉の意味が判らず、カイトは彼女を振り仰いだ。

「わたし、父さまがおこったところ見たことないよ。婆さま」

「お前にはいい格好ばかりしよるからの、あやつは」

 幼いカイトには判らない。

「慎重居士のサヤと二人で、丁度いいかと思っていたが、お前は父親似じゃの」

 笑いを含ませて、老女はカイトに言った。

 彼女の言葉の意味が、今なら判る。

 母にも言われたことがある。いつものようにフォンと喧嘩して泥だらけで家に(意気揚々と)帰った時に、「あんたはひどい怒りん坊ね」と呆れたように、それでいてどこか楽し気に、「ホント、あんたはカタイによく似ているわ」と。

 母が言うのだからそうなのだろう。

 だが、カイトにとって父は、少しばかり気取り屋ではあるものの常に落ち着いていて、とても勇敢な、理想的な猟師だった。

 いつのことだったか覚えていない。おそらくは3歳ぐらいだと思うが、もっと前かも知れず、カイト自身にもよく判らない。

「カイト」

 と、カタイに静かに声をかけられて、カイトは伸ばしかけた手を止めた。背後から近づいて来たカタイが、優しく彼女の脇にしゃがみ込む。

「それはダメだ」

 カイトが触ろうとしていたのは、抜き身の山刀である。

「まだお前には早い。危ないからね」

 ただそれだけの記憶である。

 前後の脈絡も判らない。

 しかし、厳しさを優しさでそっくりくるんだカタイの声音を、カイトははっきり覚えている。

『父さまのような猟師になりたい』

 それは今も、カイトの偽らざる願いである。

 だから彼女も、父のような落ち着きのある大人になりたかった。婆さまの言う通り、怒りを抑えられるようになりたかった。

「最近は怒りを抑えれるようになったと思ってたのに」

「なんのことだ?」

「なんでもない」

 と怒ったように答えて、カイトは奴隷の男を振り返った。

「何を隠しているの。どれいのお兄さん」

 迷いのないカイトの声に奴隷の男が怯む。

「オレは何も隠してないぜ」

「うそ」

 カイトの青味を帯びた栗色の瞳が、奴隷の男の昏い瞳を見返す。

「だったらどうして黙って殴られていたの」

「オレが奴隷だからさ」

「違う」と、カイトが断言する。奴隷の昏い瞳が暗さを増す。まるで何か大事なものを瞳の奥に仕舞い込むように。

「何か隠してる。だから黙って殴られていたんでしょう?」

 ふっと男が笑う。笑顔のまま、感情が消える。

「何にも隠してないさ。ただ、オレに意気地がないだけさ、嬢ちゃん」

 と、男は答えた。

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