18-1(檻の中のカイト1)
ある日の早朝、海都クスルの貧民街にある一軒の薬屋を衛兵隊の一部隊が急襲した。
王太后を襲撃したのが”チケ寄宿舎”だという噂が広まり、放置できなくなっていたところへ、”チケ寄宿舎”のアジトの場所を記した差出人不明の手紙が届けられたのである。王太后が襲撃されたことにカザン将軍が激怒しており、先に軍が動くのではないかという憶測も、衛兵隊を動かす一因となった。
不意を突かれ、寄宿生の何人かが逮捕、もしくは殺害された。
しかし、肝心の舎監長は取り逃がした。
「陽動としては十分だろう」
海都クスルの港で、ターシャはそうクロに告げた。
衛兵隊が”チケ寄宿舎”のアジトを襲撃した同じ日の午後のことだ。
「これでしばらくは”チケ寄宿舎”も混乱するだろうが、油断はできない。貴殿たちが襲われる可能性も否定はできないから、気をつけてくれたまえ。見聞官殿」
クロの傍には、カイトとフウもいる。
ただし偽者だ。
実際には、カイトとフウに扮したメルとキノである。
マウロの脱獄騒動の間、カイトやクロが海都クスルにいなかったことにするためのアリバイ作り、兼、”チケ寄宿舎”に対する陽動の一環である。
クロたちが乗り込む巡礼船は、スティードの街から乗ったのと同じ船だ。
船長も同じ。
「よく引き受けたなぁ、あんた」
港で声をかけたクロに、威圧感の塊のような船長は不機嫌そうな渋面を向けた。
「あんたたちには借りがあるからな。
それに--」
「なんだよ?」
「もし断れば、伯爵様か死の聖女様が船に乗ることになるんだとよ」
クロは笑った。
「それは断れねぇなぁ」
船員たちもほとんど同じで、言葉とは裏腹に、船長以下、全員が詳しい事情を聞くことなく進んで協力してくれている。
「そっちこそな、伯爵様。何をしてくるか判らねぇからな、ティアって娘は」
「ターシャ様の側にはわたしがいるのよ!心配ないに決まっているでしょう!」
ターシャの隣に立ったヌーヌーが文句を言う。
リアもいる。
偽者のカイトとフウと別れを惜しむフリをしている。
「イタカ殿」
「なんですか?伯爵様」
酒臭い息を吐いて、上機嫌でイタカが答える。
クロたちは最初の寄港地で船を降りる予定だが、彼だけは本当にファロに戻ることになっている。報告が終わったので、たまたま海都クスルに観光に来ていたフウたちと一緒に帰る、という設定である。
「マウロ様はこちらでお助けしましょう。貴殿にはミユ様をよろしくお願いしたい」
訝し気にイタカがターシャを見返す。
「なぜ、そんなことを?」
「マウロ様やミユ様をトワ郡の反乱に巻き込ませない。それが多分、我が主の望みに叶うことだと思うからですよ」
酔いに赤く染まったイタカの顔が、驚きに固まる。
「……何をご存知なのですか。伯爵」
低い声で尋ねたイタカに、ターシャは軽く首を振り、「私は何も知りませんよ。ただ、推測しているだけですよ」と答えた。
クロたちの乗った巡礼船が港を離れ、ターシャは、「さて、いささか寂しくなったが、我が家に戻ろう」とヌーヌーとリアに声をかけた。
ターシャの屋敷には、巡礼船に乗ったクロだけでなく、カイトもフウもいない。
フウはペルの屋敷に身を潜めている。
弓矢や山刀を含めたカイトの荷物はペルの屋敷にある。
しかし、カイトはいない。
カイト本人は、海都クスルの郊外に築かれ、10mはあるだろう高い塀で囲まれた、マウロが囚われているゲイル刑務所に、いた。
カイトが押し込まれたのは板間の広い部屋で、背後には木で作られた格子がある。つまりは牢屋で、部屋の中には女ばかりが30人ほどいた。
目を吊り上げた女がひとり、肩をいからせてカイトに近づいて来る。
『えーと。これからどうすればいいんだっけ』
と、牢屋の入り口に立ち尽くしてカイトは思った。
事前に牢での作法は教えられている。
「若い頃は街の牢屋に入ったこともあるし、軍に入ってからも営倉に何度となくぶち込まれたからな。
牢での作法ならワシに任せておけ」
自慢にもならない自慢をして、カザン将軍はガハハハハと笑った。
「おいおい、いつまでもボーッと突っ立ってんじゃねぇよ!牢名主様に挨拶しねぇか、クソガキッ!」
『あ、挨拶か』
と思ったものの、女がカイトの肩を小突いたのが良くなかった。
気がついた時にはカイトは、女の手を取って宙に浮かしていた。あっ。と思ったがもう遅い。痛くないように腕を引いたものの、女の身体が床に叩きつけられる音が大きく響いた。
「何しやがんだ、このガキッ!」
たちまち数人がいきり立つ。
「まぁ、そうなることもあるだろうから」
と、ターシャは言ったものである。
「その場合は、全員、やってしまう方が早いだろう」
「あんたが牢名主になっちゃえばいいじゃない」
と言ったのはヌーヌーで、
「かいと、ろうなぬしなんて、かっこいい」
と言ったリアは、多分、牢名主というものが良く判っていなかったに違いない。もっとも判っていないのはカイトも一緒だ。
とにかく、
『第2案しかなくなっちゃった』
と思う。
カイトの足元にはすでに数人の女囚が低く呻いて転がっている。
誰がどこにどう手を回したのかカイトは知らないが、牢名主に渡すための金子をそれなりにカイトは持ち込んでいる。
しかし、今更これで許してくれと言っても通るはずがない。
「もう終わりなの?」
少しハッタリをかましてみる。
「そこで相手が怯むようなら」と、最後にクロが教えてくれた。
カイトは女囚たちを見回し、牢の一番奥、一段高いところで腕を組んで座っている巨漢に視線を止めた。
歳は40代か。
多分この人が、ここで一番エライひと。つまり牢名主だ。
カイトは牢名主の前に足を進めた。誰もカイトを止めようとしない。逆に道を開ける。牢名主が不敵に笑って組んでいた腕を解く。
「意表を突いて、引いてみな」
というのがクロの教えである。
カイトは両膝をつくと、深々と頭を下げた。
「--から来ました、」と、ウソの出身地を言って「イトと申します。セットウの罪でオツトメをすることにあいなりました、フツツカモノでございます。ゴシドウ、ゴべンタツのほど、よろしくお願いいたします」
こう言っとけば間違いなし。
悪戯っぽい笑みを浮かべてペルが保証した口上である。
「おい、イト。隣、いいか?」
自分がいつから弓を手にしていているか、カイトは覚えていない。
母であるサヤにも冗談で言われたことがある。「カイトは弓を持ったまま生れて来たのよ」と。
子供の頃はそれを本当だと信じていた。
弓を持たずに過ごすこと。
マウロ救出作戦におけるカイトの課題はこれだった。
マウロが囚われているゲイル刑務所に囚人として入る。もちろんそうなると、弓を持ったまま、という訳にはいかない。
「ムリ」
諦めそうになったカイトに、「大丈夫。カイトならできるよ」とフウが言った。すると何故か胸が温かくなって、できそうな気がした。
「ね」
笑顔のフウに促され、「うん」と頷いて、カイトはここにいる。
「イト。おい。聞こえてないのか?」
「あ、なに?」
もうひとつ、難しいなとカイトが思ったのがこれである。
顔を上げると、牢名主の女が苦笑を浮かべてカイトを見ていた。サク、というのが女の名だ。
「別にいいけどよ、お前が誰でも。名前を呼ばれたらちゃんと答える練習はして来なかったのかよ」
呆れたようにサクが言う。
食堂でのことだ。
同じ牢にいる30人ほどの女の中で彼女は何かが違う、とカイトは感じている。この人には負けるかも知れない、少なくとも手加減することは絶対にできない、と思っている。
「お前、何のためにここに来た?」
食事の載ったトレイをカイトの横に置きながらサクが問う。
「なんのこと?」
「とぼけんなよ。何か目的があってここに来たんだろ。協力してやるよ。話してみな」
カイトがサクの瞳の奥を探る。
この人は信じてもいい人だ、とカイトは思った。この人は、きちんと森と向き合っている人だ。
クロにも言われている。
「ひとりでマウロさんにツナギをつけるといっても難しいからな。お前が信じられると思ったヤツには協力してもらった方がいいぜ」
と。
「マウロって人に会いに来た」
「ファロのマウロさんか?」
食事をむさぼり食いながらサクが訊く。
「知ってるの?」
「知ってる。まぁ、知ってるだけだけどね」
「どうすれば会えるの?」
「イト。お前、木工はできるか?」
「料理や裁縫は苦手だけど、木工は得意。父さまに教えて貰ったから」
サクが低く笑う。
「お前の母さまの嘆きが聞こえるようだぜ」
「もう諦めてたわ。母さま」
はははは、とサクは笑った。嫌味のない、気持ちのいい笑いだった。
「じゃあ、決まりだ。お前は木工班に入れてやるよ。そうすれば会えるだろうよ。マウロさんにな」
「おい、イト。さっきはよくもやってくれたな」
牢に戻ろうとしたカイトに声をかけてきたのは、最初にカイトに投げ飛ばされた女で、自称女牢の2番手である。
フスという名の女だ。
「さっきは油断していただけだからな。そうでなきゃあ、オレがあんなカンタンにヤラれるワケがねぇ。
ちょっとツラ、貸しな。
いいですね?」
最後はサクに訊いた。
「ああ、いいよ。気が済むまでやってみな」
サクがカイトに顔を向ける。
「悪いが相手してやってくれるか、イト。卑怯なマネはしないヤツだからさ」
「判った」
「こっちに来な」
フスが顎をしゃくる。フスに続くカイトの後ろを、他にも何人かの女囚たちが、ニヤニヤ笑いながらついて来た。
いろんな人がいるな。
牢に入ったカイトの、それが率直な感想である。狂泉様の森の外がどんなところか、勉強するいい機会だぜ。クロはカイトにそう言った。
クロの言う通りだ、とカイトは思う。
まずフスが簡単に投げ飛ばされ、「ソイツは自称2番手だからな、次はあたしだ」と言った女は、なるほどフスよりは強かったが、やはりカイトの相手ではなかった。
数人を片付け、残った女たちが戦意を喪失しているのを確認し、これで終わりかな、と思ったカイトは、ふと、刺すような視線を感じた。
カイトたちがいるのは、看守の目が届きにくい、ゲイル刑務所を囲む高い塀と建物の間の裏手である。
建物の端に立ち、こちらを見つめている女がいる。興味なさそうにしていながら、痛いほどの殺気を飛ばしてきている。
カイトは牢に入ってすぐ、女囚たちがいくつかのグループに分かれていることに気づいた。
カイトからすると、いくつか群れがある、という感じである。
サクの群れが一番大きく、他の群れはサクに表向きは従っている。しかし、内心は反目している群れもあって、群れ同士の距離感は様々だった。
ただ、すべての女が群れに属している訳ではない。
自ら望んで群れに所属していないのか、もしくはどの群れにも入れてもらえなかったのかは判らなかったが、カイトに殺気を飛ばして来ていたのは、どの群れにも属していない女のうちの一人だった。
女が背中を向ける。
女は他の女囚とは少し違う雰囲気があり、強そうな人だな、と思ってサクに名を教えて貰っている。
イサという名だ。
「ねぇ」
ぎょっとイサが振り返る。
遠く離れていた筈のカイトの声が、すぐ近くで響いたからだ。
いつの間に近づいたか、ほんの数メートル先からカイトが彼女を見つめていた。
「やる気がないのなら、そんな目でわたしを見ないで。うっかり反応しちゃうかも知れないから」
「うっかりだと、テメェ……」
イサが言葉を止める。
探るようにカイトを見る。カイトの瞳の奥に何かを見て取って、イサの身体からどっと冷たい汗が噴き出す。
「あなたには手加減できないかも知れないし、ここにいる間は大人しくするように言われてるから」
イサがごくりと喉を鳴らす。しかし、口を開いたイサの声に揺らぎはなく、それだけで彼女の胆力が知れた。
「もう遅いんじゃねぇか?嬢」
カイトが首を捻る。
「そうかな?」
掠れた笑い声をイサが上げる。
「何モンだ、テメェ」
そう訊かれた時にはリアちゃんに倣えばいいんじゃないかな。とは、フウのアイディアである。
カイトは微笑んだ。
「ごめんなさい。それは言えないの」
くっくっくっとイサが笑う。
「似合わねぇよ、テメェにそれは」
これはホンキで、カイトの胸を深く抉った。