幕間(ターシャのしていたこと)
ヌーヌーに落ち着きがない。彼女の前には新鮮なオレンジジュースとおやつが並べられている。キャナの家庭でよく食べられている餅菓子で、リリィがヌーヌーのために用意したものだ。ヌーヌーの大好物で、いつもならあいさつもそこそこに食べつくしているはずが手もつけていない。
屋敷のことを気にしている。
ターシャとヌーヌーがキャナの公使邸に着いてまだ30分ほどしか経っていないが、早く屋敷に帰りたがっている。
広い応接室には、ターシャとヌーヌー、それにリリィしかいない。
応接室の扉が静かにノックされる。
「入って頂戴」
扉が開き、姿を現したのは一人の若い女だった。
リリィの執事であるイフという名の女だ。細身だが動作には無駄がなく、さりげなく四方に視線を送っている。
ターシャとは顔なじみで、彼女がリリィの護衛も兼ねていることをターシャは知っている。彼女があまり自分に好意を抱いていない--むしろ、ご主人様のタチの良くない友だちと、疎ましく思っていることも知っている。
ターシャがイフを気に入っているのは、それが理由だ。
「--からです」
公使邸に務める魔術師の名を言って、イフがリリィに紙片を渡す。
「ありがとう、イフ」
イフは部屋から出ることなく、戸口近くに控えた。
リリィが紙片を開く。
「噂通りね。たいした腕だわ」
と、リリィがターシャに紙片を差し出す。
「本当だね」
紙片に視線を落とし、ターシャも頷く。
「何がでしょう?ターシャ様」
「私たちを追ってきている、フクロウを操っている術式だよ」
ヌーヌーが身動ぎする。ぐるぐると不機嫌な唸り声が床を這う。ヌーヌーの足元で一対の小さな黒い穴が渦を巻いている。
ヌーヌーの殺気に反応したのだろう、死の公女の神使である赤犬の目だ。
「大丈夫だよ。ヌーヌー」
ターシャがヌーヌーを宥めるように笑顔を向ける。ヌーヌーの殺気の裏には焦燥感がある。と、判っている。
「カイト殿や見聞官殿、ラダイ殿たちがいるからね」
膝の上に置いた手をヌーヌーがぎゅっと握る。
「--はい」
「では、私たちは失礼させて貰うよ。リリィ」
「今度はもっとゆっくりしていって欲しいものだわ」
リリィはターシャと抱擁を交わした後、膝を折ってヌーヌーに頭を下げた。
「たいしたおもてなしも出来ず、申し訳ありません。死の聖女様。私はここで失礼させていただきます」
「こちらへ。伯爵様。死の聖女様」
イフが二人を案内したのは、公邸の地下に穿たれた通路である。冷え冷えとした通路をしばらく歩いて、ようやく出たところは道を挟んだ別の屋敷の中だった。
特徴の薄い馬車に乗り込む。御者台には、イフが座った。
着いたのは、ターシャの屋敷の向かい、諜報部員たちの詰める屋敷だった。
「うちには戻らないのですか?」
不安気にヌーヌーが訊く。
「ちょっと確かめたいことがあってね」
自分の屋敷が見下ろせる3階の小部屋まで登る。詰めていた二人の諜報部員が、部屋に入って来たターシャとヌーヌーを見て、「ひっ」と息を呑んで立ち上がった。
「すまないね。ここからしばらくうちを見ていたいのだが、いいかね?」
「は、はいっ!」
ヌーヌーもいる。
諜報部員に否と言える筈がない。
「ありがとう」
窓際へと杖音を響かせてターシャが向かう。
「ああ。なるほど。ここなら良く見える」
「ど、どうぞっ!」
諜報部員のひとりが椅子を持ってくる。
「手間をかけるね。手間ついでに悪いが、ヌーヌーの分も持ってきて貰っていいかな」
「は、はいっ!」
窓際にターシャが座り、ヌーヌーは隣に座った。
外はまだ明るい。
「ヌーヌー」
「はい」
「ヌーヌーが不在になったことで、おそらく今夜、魔術師がうちを襲う」
ヌーヌーが息を呑み、目を見開いてターシャを見上げる。
「あそこに、私たちをつけていたのと同じフクロウもいるからね。まず、間違いないだろう。
だが、少し確かめたいことがある。悪いが、私がいいと言うまで、ここにいてくれるかい?」
ヌーヌーが視線を落とす。少し、手が震えている。再びターシャを見上げた唇も、微かに震えていた。
「ターシャ様」
「なんだね」
「わたしの手を、抑えていただいて、よろしいでしょうか?」
「何故だね」
「そうでなければ、自分を抑えられる自信がありません」
ターシャがヌーヌーの手を軽く抑える。
ヌーヌーは大きく息を吸い、背筋を伸ばし、軽く頭を落として、まるで外の世界を遮断するかのように目を閉じた。
やがて陽が落ち、屋敷から叫び声が聞こえ、ターシャの手の下で、ヌーヌーの手がピクリッと震えた。
カイトとクロ、それにリアを抱いたフウがリビングから駆け出してくる。
死人が依代となり、庭に土壁がそそり立つ。カイトたちが見えなくなる。ターシャの視線が遮られる。
ターシャはリリィから渡された紙片を開いた。内容は憶えている。下手な魔術師よりは魔術の心得もある。だが、間違えないようにもう一度、紙片に書かれた術式を確認し、小さな声で呪を唱える。
犬たちがカイトを押し包もうとしているのが見えた。
視野は狭い。
色もない。
しかし、夜にも関わらず細部まではっきりと見える。
術者に悟られないよう、フクロウの視覚に割り込んだのである。
フウが火の精霊の術で犬の頭を破壊するのを見、カイトが三本の矢で犬の頭蓋を砕くのを見た。
犬の動きから、術者の動揺が読めた。
カイトが三本の矢を放つ。それを狙い目と捉えたことも判った。
何かを探っている。タイミングを計っている。
まだ何かありそうだと思い、フクロウの視覚を通して、草むらにまだ犬が4匹、潜んでいることに気づいた。
『あれが奥の手か』
隠れていた犬たちが走り出す。
二匹が頭を潰され、残った二匹がカイトへと躍り掛かる。そして、フウの瞳が輝くのを、ターシャは見た。
フクロウとの接続を切る。知りたいことは判った。
「ヌーヌー。いいよ」
ターシャの手の平の下からヌーヌーの手が消える。「はい!」という返事は、窓の外から聞こえた。
長い髪をなびかせたヌーヌーの後ろ姿が、空中にあった。
狭い庭も塀も軽々と飛び越えて道路に降り立ち、鉄柵を押し開き、怒りにはちきれそうになった死の聖女が屋敷へと踏み込んで行く。
ターシャは苦笑した。
ヌーヌーはターシャの護衛だ。ターシャを守るのがいちばんの仕事だ。だが、ターシャの存在をヌーヌーはすっかり忘れている。
「邪魔したね」
と、直立したままの諜報部員たちに告げて、建物を出たところで、イフが「伯爵様」と声をかけてきた。
「なんだね?」
意識して声を抑える。自分がいつもより機嫌が良いと自覚している。ヌーヌーが自分より屋敷の皆のことを優先した。それを意外なほど好ましく感じて、心が躍っている。
「リリィ様が、事後、きっと伯爵様から何か頼まれることになるだろうから、それを果たしてから戻るようにと」
「お見通しだね」
と笑って、ターシャが手紙を取り出す。
「これを、”ターフ寄宿舎”の舎監長に届けて貰えないかな。誰にも気づかれないように、机の上にでも残して来てくれれば助かる」
「承知いたしました」
イフが手紙を受け取り、姿を消す。
「さて、ペル様へは--」
少しだけ考える。笑う。彼女たちの絆の深さは知っている。知らせるまでもないと決めて、門が大きく開かれたままの屋敷へとターシャは杖の音を響かせた。