17-17(海神の立つ街17(死人の襲撃3))
「何。これ」
ヌーヌーが呟く。怒りに髪が逆立ち、膨らんでいる。
「何事よ、これは!」
庭にはクロがいる。彼のすぐ傍には、ついさっきまでクロを襲っていた死人が、ぐたりと倒れて動かなくなっている。
ヌーヌーの出現によって死人と術者との繋がりが断ち切られたのである。
クロ以外にも、ラダイたちもリビングから逃れ出てきている。そのラダイたちを追って、死人の一群もリビングから溢れていた。
「……死人なの?」
ぶるりっとクロは身体を震わせた。気のせいではない。瘴気にも似た、凍えそうなほどの冷気がヌーヌーの足元から漂って来ている。
ヌーヌーが足を踏み出す。
死人に向かって歩く。
ヌーヌーの歩いた跡が白くなっている。
芝が枯れ、凍っている。
リビングから溢れた死人たちは動かない。老婆が操作しなくても予め動くものを攻撃するよう簡単な術が施されている筈が、がくりがくりと機能不全を起こしている。老婆の術に逆らって逃げようとしている。
ヌーヌーの髪が、風もなく激しく靡く。
手を上げ、死人を指さす。
ゆけ。
目には見えない何かの群れが庭を突っ切った。芝生を蹴って死人たちに襲い掛かった獣の姿が、一瞬、夜の闇に浮かんだ。
死人たちが喉を食い破られ、床に叩きつけられる。死人たちに命はない。彼らはただ術者に動かされる人形に過ぎない。しかし、見えない何かに食い千切られる度に、「アー」という弱々しい声を死人たちは上げた。
「アー」「アー」「アー」
リビングに敷いた絨毯から細い煙が上がる。
死人の臭いよりも強烈な、繊維が酸に溶ける臭いが辺りに漂う。
ヌーヌーは視線をリビングからラダイへと転じた。
「リアは、どこ」
ヌーヌーの問いに、「あー。多分その向こうだよ。ヌーヌーちゃん」と、ラダイは庭にそそり立った土壁を指さした。
いつの間に登ったのか、土壁の上にクロがいる。
「カイトッ!フウッ!」
叫んだクロの声が壁の向こうへと消える。
ヌーヌーは壁に歩み寄り、右手を添えた。手を当てたまま壁に沿って歩く。
彼女が足を止めたのは、術の依り代となった2体の死人が立っていたところである。
ヌーヌーが顎を引く。
風に溶けるように、ぼろぼろと、壁が崩れていく。
人が一人通れるほどの隙間が開き、ヌーヌーは土壁の向こう側へと踏み込んだ。
「フウッ!フウッ!」
叫んでいるのはカイトだ。
リアもいる。リアが怪我をしている様子はない。ホッとしたが、背中を向けたクロの向こうにフウが倒れているのを見て、ヌーヌーの青い瞳が怒りに暗く沈んだ。
庭に6匹の犬がいる。
死人の術で操られていた犬たちだ。
ヌーヌーは固まったままの犬たちに近づき、ぎょろりと眼球だけを動かした。
「行け」
氷のように冷たい声が塊となって落ちる。
「お前たちのあるじを、殺せ」
固まっていた犬たちが一度ヌーヌーを見上げてから、まるで彼女に服従するかのように頭を下げ、姿を消した。
「なんで。なんでよ。死の聖女は出掛けたはずよ」
老婆も確認している。フクロウに追わせた。ターシャとヌーヌーを乗せた馬車は確かに屋敷を離れた。
馬車が戻ってくればすぐに逃げられるように、見張らせてもいた。
老婆は、死人や犬との繋がりを必死になって切ろうとしている。
呪を唱えながら編み物を解いてゆく。焦りから手元が狂う。悪態をつく。必死に自分を落ち着かせ、ようやくほぐし終わった編み物を、老婆は急いで小さな鉄製のストーブに放り込んだ。
暖を取るためではなく、術を解くために用意しているストーブである。
老婆はほっとため息をついた。
「やれやれ。これであんし……」
低い唸り声が響いた。ストーブからだ。燃える火の中に瞳がある。ひとつではない。全部で六つ。犬の瞳だ。
それが、老婆のひざ程度の高さしかない小さなストーブに詰まっている。
老婆はひっと息を呑み、絶望の悲鳴を迸らせた。
倒れたフウを見て、カイトはすぐに走り寄ってフウの傍らに膝をついた。息をしているか確かめる。少し早い。乱れている。だが、呼吸はしている。
ほっと安堵し、そこで、思考が止まった。
フウが倒れている。
その事実に打ちのめされた。
呼吸を確かめるためにフウに伸ばした手が震えた。フウの姿に、大平原に倒れたクル一族の民人の姿が重なった。腕のない死体。足のない死体。槍で貫かれた死体。何本も打ちこまれた矢。見ていない筈の死体。首のない、父の--。
「カイトッ!フウッ!」
クロの声。
駆け寄ってくる。
「何があった」
「判らない」
答えるカイトの声が揺れる。
「気がついたら倒れてて……」
「怪我はしてねぇな」
クロの声は落ち着いている。いつもよりも。
それがカイトの張り詰めた心を緩ませた。「うん」と頷いてから、カイトは両手をつき、「フウッ!フウッ!」と叫んだ。
クロがフウに鼻を近づける。ひくひくと鼻を動かす。フウの身体の中にも外にも異常な臭いはない。いくら耳を澄ましても、呼吸は乱れているものの、フウの身体から聞こえる音に異常はない。
ただ気を失っているだけのように、クロには思えた。
「大丈夫だ、カイト」確信のないまま、確信があるようにクロが言う。「フウは気を失っているだけだ」
「本当?」
「ああ」
と頷いてからクロはカイトの袖を軽く引いた。振り返ったカイトに、顎をしゃくって見せる。
クロが示したのはリアである。
あ、とカイトは思った。
リアは、倒れたフウから少し離れてぺたりと腰を落としていた。少し口を開き、視線はフウに向いているものの、青い瞳が何かを映しているようには見えなかった。
何が起こっているか理解できていない。
呆然としている。
リアはたくさんの死を見てきている。
海賊船に襲われた時、それまで彼女を守っていた人々は全員が死んだという。
幼い子供は死を理解できない。
森にいた頃、カイトは、父親が死んだ子が、何度も「とうさまはいつかえってくるの?」と母親に尋ねていると聞いたことがある。「父さまは森に帰ったの。死んじゃったの」と教えると「そうなんだ」と頷くが、翌日になるとまた、「とうさまはいつかえってくるの?」と尋ねてくると。
死がどういうものか、リアの歳ではまだ理解できないかも知れない。理解はできないかも知れないが、彼女の小さな胸に深く刻まれている。
カイトと同じように。
それは確かだ。
カイトは、自分がまだ矢を手にしていることに気づき、矢を仕舞い、弓を肩にかけて立ち上がった。
リアの隣に座り、彼女の小さな身体にそっと腕を回す。
「大丈夫よ、リアちゃん」
カイトもまた、確信のないまま、確信があるかのように言った。
「フウは少し、眠っているだけ。だから安心して」
強張っていたリアの身体が微かに動く。
「ほんとうに?」
「うん」
リアが息を吐く。
花が開くように笑顔が広がる。カイトの言葉を微塵も疑っていない。そう思わせる笑顔だった。
「よかった」
カイトがリアの身体に回した腕に、少しだけ力を入れる。
「ヌーヌー」
リアの身体に腕を回したままカイトはヌーヌーを振り返った。クロに袖を引かれた時に、ヌーヌーが戻って来ていることには気づいている。固まったままの犬たちにヌーヌーが命じる声も聞いた。
「ありがとう。助かった」
ヌーヌーがフンッと鼻を鳴らす。
「あんたに礼を言われるほど、たいしたことじゃないわ」
杖を突く聞き慣れた足音に、ヌーヌーは振り返った。
ターシャがちょうど、ヌーヌーが土壁に開けた隙間を通り抜けるところだった。
「ターシャ様!」
駆け寄ったヌーヌーの頭をターシャが優しく叩く。「すまなかったね。ヌーヌー」と声をかける。
ヌーヌーが首を振る。
「みんな無事です」
「そうか」
「はい」
ヌーヌーの声が弾んでいる。
「それでは悪いが、死人に汚された屋敷を清めてきてくれるかい?」
「はい」
笑顔で頷いて、ヌーヌーが軽やかな足取りで駆けて行く。土壁の向こうへとヌーヌーの姿が消えるのを見届けてから、ターシャはクロに顔を向けた。
「見聞官殿。フウ殿はどんな具合かね」
「オレの見たところ、気を失っているだけだよ」
「では、フウ殿をベッドに運ぼう」
「大丈夫なのか?」
「屋敷が、という意味なら問題はない。消せない火も術師が死ねばただの火だ。皆で消すよう言っておいたよ。
フウ殿については、私にも確とは判らないが、すぐに来ていただけるだろう」
「すぐに来るって、医師か?」
「いや、」
ターシャはクロの問いに答えようとして、屋敷の外に顔を向けた。遠くから響いてきた馬の駆ける音に気づいたのである。
ターシャの屋敷の庭先まで馬で乗り込んで、土壁の隙間を抜けて現れたのは、息を切らせたペルである。
急いで来たのが判る。髪は乱れ、部屋着のままだ。
まるでフウがそこに倒れていることを知っていたかのように、迷うことなくフウに向かって歩く。フウの傍らに膝をつき、額に手を当てる。すぐに安堵の表情を浮かべ、何かを確かめるようにペルはフウの髪を撫でた。
「大丈夫よ、カイト」
心配そうに自分を見つめるカイトに、ペルは笑顔を向けた。
「フウは、そうね、急なことで身体がちょっと驚いただけだから。でも、もう少し休ませてあげましょう」
ペルがフウに視線を戻す。
唇が動く。
ペルが唱える呪にカイトは聞き覚えがあった。
ここ数日、ペルの屋敷でずっとフウが練習している呪だ。眠りの縁にある者をより深い眠りへと沈ませる呪だと、カイトは聞いている。
フウの息が鎮まり、上下していた胸が規則正しく落ち着いたように感じて、カイトはホッと安堵のため息をついた。
クロも短く息を吐いた。
「クロさん、フウをベッドに運んでいただけますか?」
「あとで旨い酒、呑ませて貰えますかね?」ぐったりとしたままのフウを抱き上げながらクロは訊いた。
「うちから届けさせましょう」
「できればメシも。これからって時に晩メシを邪魔されたんで。オレはいいんですけどね、みんな腹が減って暴れ出すかも知れねえ」
クロの軽口に、ペルが微笑む。
「承知しました」
「フウ殿だったのですね」
クロやカイトを見送りながら、ターシャはペルに話しかけた。
ペルがターシャを振り返る。
微かに赤い光を瞬かせた栗色の瞳が、ターシャの琥珀色の瞳を覗き込む。
「どこまでご存知なのですか?伯爵様」
「キャナ王国では外務を担当していましたし、同じ神の信徒でもある。”古都”の委員のほとんどは顔なじみですよ」
「だから姉をご存知なのですか?」
「いいえ」
ターシャが笑みを浮かべる。
「若い頃に私を我が主に引き合わせてくれたのは、フランです」
「まあ」
「フランは私の最も親しい友人のひとりですよ」
「それは」
ターシャの言葉に、ペルは楽しそうに笑った。
「随分と、お気の毒なことね」
老婆の死体は、人の形を留めないほど酷く引き裂かれていた。信じられぬとでも言いたげに見開かれた目はひとつしか残されていない。
老婆を引き裂いた犬たちは部屋の隅に並んで座っている。
こちらもすべて死体だ。
並んで座った犬たちのうちの一匹の首がぐらりと傾き、どさりと落ちる。
別の部屋には等身大の人形が二体、倒れている。
二人いた筈の女の姿はどこにもない。
飛び散った老婆の血で天井まで赤く染まった室内には、粉々に砕け散ったストーブの破片が散らばっている。
飛び散った火は小さい。
小さいが消えることなく、ちらちらと燃え続けている。
次第に大きくなっていく火の傍で、どこかからか風が吹き込んでいるのか、窓のカーテンがゆらゆらと揺れていた。