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2-2(狂泉の森人たち2)

 翌早朝、カイトを含めた10人ほどで森に入った。森に入った昼近くに、獲物の足跡を見つけた。他の猟師たちに続いてカイトも足跡を見て、「これがただのイノシシ?」とヴィトに尋ねた。

 ただのイノシシにしては、随分と足跡が深く、大きい。

「イノシシはイノシシだろ」

 悪びれることなくヴィトが答え、カイトは改めて足跡を見て、「そうね」と応じて身体を起こした。


 一行の中に、一人だけ雰囲気の異なる男がいた。

 狂泉の森の民は総じて小柄だ。

 20代だろう若い男は、頭一つは他の者より背が高く、猟師とは明らかに異なる筋肉の付き方をしていた。

 森に慣れていないのだろう、歩き方もひどく雑で、騒がしいほどに煩かった。

「あれは誰?」

「奴隷だ」

 簡潔にヴィトが答える。

「ウチに泊まっている外からの客のな。イノシシを狩るのはその客の要望で、力はあるからって寄越したのさ」

「どれい?どれいって何?」

「知らねぇのか、嬢ちゃん。森の外じゃあ、人をカネで売り買いするんだ」

「……どういうこと?」

 ヴィトが声もなく笑う。

「森の中しか知らない嬢ちゃんには判らないだろうよ。今すぐ理解しようっていうのは、ま、諦めな」

 カイトは奴隷という男に視線を向けた。男の首にぐるりと、何かが描かれているように見えた。

 視線に気づいたか、男がカイトを振り返る。訝しげな表情が、一瞬、男の浅黒い顔をよぎる。だが男はすぐに、興味を失ったようにカイトから視線を逸らした。

 集落で集まった時から、男は一言も声を発していない。

 カイトは不意に、そのことに気づいた。


 犬たちがけたたましく吠える声が、突然、森に響いた。

 猟師たちが素早く目配せをする。誰も声は出さない。ただ指で、目で、彼らは会話をし、森の中へと消えていった。

 まだ若いと侮っているのだろう、カイトには誰も目もくれなかった。

「どうする、嬢ちゃん」

「ん」

 ヴィトの問いにはすぐに答えず、カイトは、犬の声に耳を澄まし、猟師たちの気配を追った。

「……ここにいた方がいい気がする」

「そうだな」

 と、ヴィトは頷き、彼は彼で犬の声を追って森に消えた。

「おい」

 カイトと共に取り残された奴隷の男が、不意にカイトに声をかけた。外見よりも随分と歳を経た、濁った声だった。

「なに?」

 周囲に注意を払いながらカイトが応じる。

「オレにも小刀でいい。何か貸してくれ」

 カイトは男を見た。カイトを見返す男の瞳は昏い。だが。

 カイトは腰の山刀を鞘ごと抜いた。

「友達からもらったものだから、大事に使って」

 カイトが男に背中を向け、犬の声を追いながら森へと歩いて行く。カイトが山刀を渡すとは思っていなかったのだろう、男の頬に驚きが浮かんだ。右へ、左へと男が素早く首を回す。

 受け取った山刀の柄に手をかけて、男はカイトの背中を睨み据えた。山刀の柄を固く握り直し、足を踏み出す。

 男の踏んだ小枝が折れた。微かな音。カイトは振り返らない。しかしその音が、男の張り詰めた心に響き、彼の心に隙間を作った。

 ふっと息を吐き、男は柄から手を離した。森に消えるカイトを黙って見送り、犬の声に注意を向ける。森に不慣れな男には、犬の声がどこから聞こえて来るのか、どれぐらい遠いかも判らなかった。

 木の影から様子を窺っていたヴィトが森に消え、カイトもまた、男に背を向けると同時に番えていた矢を弓から外したことに、男が気づくことはなかった。


「逃げたっ!」「逃げたぞっ!」

 猟師の大声が響き、遠かった犬の声が急に近づいて来て、奴隷の男は慌てて山刀を抜いた。低く身構え、辺りを見回す。

 男の左手の茂みを突いて、イノシシの巨体がいきなり飛び出して来た。

 逃げろ逃げろという声が、男の脳裏で反響する。でかい。身を屈めた彼と、さして体高が変わらない。硬い岩のようなイノシシの背中には、猟師たちの放った矢が何本も突き刺さっていた。

 そうしたことを見て取りながら、一度踏み込んで力を溜め、彼は地面を蹴った。

 イノシシの牙が彼の脇腹を掠め、怒りに高ぶった巨体をすぐ側に見て、反射的に山刀を振り下ろす。彼の意識と行動が一致しない。満身の力を込めて振り下ろした筈の山刀が、なかなかイノシシに届かない。

 バランスを崩して転がり、慌てて立ち上がった彼の横を犬たちが走り抜け、イノシシに向かって吠え立てた。

「いい反応してるな、お前」

 荒い息を吐く男の隣に、一人の猟師が現れた。ヴィトだ。

 ヴィトはイノシシの向こうの森に視線をやって、男の知らない言葉と身振りで犬たちに何か指示を与えた。

 一匹の犬がイノシシに吠え掛かり、逆にイノシシに襲われて下がり、脇に避ける。犬の包囲が僅かに緩み、そこへ向かって、イノシシは全速力で走り出した。

「危ないっ!」

 イノシシの走る先にカイトの姿を認めて、男は叫んだ。

 イノシシの巨体に重なって、男はカイトの姿を見失った。見失う寸前に、少女が矢を番えたように、男には見えた。

 だが、イノシシはあっと思う間もなくカイトがいたはずの場所を駆け抜け、そのまま速度を緩めることなく木に激突した。


 落雷かと思えるほどの音を響かせて、木が大きく揺れる。

 激突したイノシシがずるずると滑って落ちる。そのまましゃがみ込んでピクリともしない。犬が吠えるのをやめ、静寂が森に戻った。

「いやいや」

 ニヤニヤと笑ってヴィトが呟く。

「たいしたモンだな」

 イノシシの脇に、弓を下ろしたカイトの姿があった。怪我をしている様子はまったくない。

「何があったんだ」

 奴隷の男が呆然と呟く。

「見ての通りさ」

 とヴィトは言ったが、カイトが何をしたか、実は彼にもよく判っていなかった。

 カイトが戻って来る。

「大丈夫?」

 奴隷の男は「あ、ああ」と頷き、「何をした」と訊いた。

「イノシシを仕留めただけ。それより、返してもらっていい?」

 山刀のことだと男が気づくのに、しばらく間があった。「あ」と山刀を鞘に戻し、カイトに差し出す。

「助かった」

「それなら良かった」

 カイトが山刀を腰に差す。そこへ、イノシシの様子を見てきたヴィトが戻って来た。

「嬢ちゃん。オメエだけ先に、宿に戻った方がいいかも知れないぜ」

「どうして?」

「ああ。もう遅いか」

 ニヤニヤと笑ってヴィトが言う。

 森から他の猟師たちがぞろぞろと姿を現した。


「おおう、ちゃんと仕留めてるぞ」

「珍しいな、ヴィト」

「てっきり逃がしちゃったと思ったわ」

 声をかけて来た猟師たちに、「オレじゃない」とヴィトは応じた。

「仕留めたのはそこの嬢ちゃんさ」

 猟師たちが笑う。

「あんたがそんな冗談を言うとはなぁ」

「その嬢ちゃんに何か弱みでも握られてるのか、ヴィト」

 ヴィトがイノシシに向かって顎をしゃくる。

「よく見てみな。そんなマネ、オレに出来るはずねぇよな」

 訝しげに猟師たちはイノシシに歩み寄って行った。奴隷の男は、猟師たちがぶつぶつ言いながらイノシシの頭部を覗き込むのを見た。何が致命傷となったか、イノシシの傷を確認しているのだろう、猟師たちが黙り込む。

「うそ」

 と、女猟師が呟くのが聞こえた。

 髪の薄い小太りの猟師がヴィトを振り返る。

「ホントにこれを、その嬢ちゃんがやったのか?」

「ああ」と頷いて、ヴィトはカイトに囁いた。「嬢ちゃん、逃げた方がいいぜ」

「なぜ?」

 と、問い返したカイトに、小太りの猟師は大股で歩み寄って来た。

 どうするべきかとカイトが迷っている間に彼女の目の前まで近づき、無遠慮に彼女の両手を取る。

 彼の手の握り方は独特だった。

 身体を前かがみにして息が届くほど顔を近づけ、じっとりと汗をかいた肉厚な手でカイトの手を揉むように握って来たのである。

 虫唾が走るとはこのことだった。

「ワシの子を産んでくれンか、嬢ちゃ……ぐっ」

 男はそれ以上言葉を続けられなかった。カイトが彼の股間を思いっきり蹴り上げたからだ。

 悶絶した男がカイトの手を放す。

 カイトは後ろに飛び退き、矢を素早く男に向けた。

 彼女が矢を放たなかったのは、怒りの余り矢先が震えて狙いを定められなかったことと、他の猟師たちがどっと笑ったからである。


「許してやってよ、お嬢ちゃん」

 涙を拭きながら女猟師がカイトに歩み寄る。

「そいつの口癖だから。ちょっと腕のいい子に会うといつもこうだから。あんたみたいな子なら、当然だよ」

 カイトの母と同い年ぐらいだろう女は、笑みを浮かべて言葉を続けた。

「でも、いい腕だね。どう?あたしにも年頃の息子がいるんだけど、あたしの娘にならない?」

 弓を下ろし、カイトが女を睨む。

「お断りします」

「そう。残念」

 さして残念でもなさそうな口調で女が言う。

 そうしたやり取りを唖然と見ていた奴隷の男は、ふと思いついて倒れたイノシシに歩み寄った。イノシシの頭部を覗き込み、先程の猟師たちと同じように言葉を失う。

「スゲェだろ」

 いつの間にか彼の背後に立っていたヴィトが男に声をかけた。

「あんたたちはみんな、こんなことが出来るのか?」

 男の問いに、ヴィトは嗤った。

「あの嬢ちゃんはちょっと特別だな」

 特別という言葉が男の胸に深く落ちる。男の視線の先、イノシシの頭部には、矢が5本刺さっていた。カイトの放ったものだろう。矢は全て正確に眉間を--ほとんど同じ場所を--貫き、それはまるで、一本の槍が刺さっているかのように彼には見えた。

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