17-8(海神の立つ街8(王太后ペルへの依頼))
三日前とは別人だ。
カイトはそう思った。
三日前にはどこかに老いが、弱さがあった。
それが影も形もなくなり、まるで10歳以上若返ったかのように見えた。
フウによく似た赤味を帯びた栗色の瞳には、見る者の心が吸い込まれてしまいそうなほどの深みがある。
カイトは海都クスルに来る船上から見た海を想った。見渡す限りに広く、どこまでも底の知れない青い海を。
カイトとフウの前に腰を下ろした王太后、ペルのことである。
「あなたは妹によく似ています」
ペルはフウを見つめてそう答えた。何故、あたしをお呼びになられたんですか。フウにそう訊かれたのである。
「だから来てもらったのです。もっともわたしには実の妹の他に、30人ほど姉妹がいましたけど」
「多すぎる」
カイトはそう言ってから、タルルナのことを思い出した。
「でも、わたしの知っているキャナの人は、子供が100人ぐらいいるって言ってた」
ペルが微笑む。
「わたしよりも多いですね」
「あの、『王妃の黒いローブ』、見ました」
ためらいがちにフウが言う。見たとは言っても、ミユがひとりで演じた芝居ではあったが。
「やっぱり、魔術師に拾われて、それでたくさんお姉さまや妹さまたちがいるってことなんですか?」
ペルが頷く。
「わたしを拾ってくれた人は仮面はつけていませんでしたけどね。ええ、妹のリンリンと二人で拾っていただいたの」
「リンリンさん?」
「可愛い名前でしょ?」
「はい」
「わたしと同じで、もうお婆ちゃんになっている筈だけど。元気でいるかしら」
ペルの離宮の庭である。
丸テーブルを囲んで、カイトとフウ、それに屋敷のあるじであるペルだけを残して、侍女たちは遠くに控えている。
背の高い木々に囲われた庭には涼しい風が吹き、まるで深い森の中にいるかのように静かだった。
「あの、ずっと会われていないんですか?リンリンさんとは」
「会っていないわ。もう何十年も」
「その人、ショナにいるの?」
カイトの唐突な問いにペルの顔に驚きが浮かんだ。
「あら。ショナを知っているの?カイト」
「酔林国にいた時に、ショナから来た人にお世話になってたから。それに、ちょっと変わった国だって聞いたことがある」
「そうね。変わっているわね。わたしは一度も行ったことはないけれど」
ペルが遠くを見る。
「夫と出会って、お姉さまに、お母さまとどちらを選ぶかと問われて、それ以来、ずっとみなのところへは戻っていません」
「お母さま?」
「わたしとリンリンを拾ってくれた人。『王妃の黒いローブ』では男の人になっていたけど、本当は女の人なの」
「そうなんだ」
「アリア姫様にも本当に良くしていただきました。
アリア姫様はわたしたちの一番上の姉と友だちだったの。クスルクスル王国に嫁いで来られる前、まだキャナにいらっしゃった頃に。アリア姫様にお会いして初めて知ったことだけどね。
だから、アリア姫様はわたしの家族が少し、普通とは違うこともご存知でね。
わたしが何を犠牲にしたかも理解されていて、アリア姫様はアリア姫様で、嫁いで来た以上はクスルクスル王国にすべてを捧げられるお覚悟があって、二人でクスルクスル王国を盛り立てていきましょうっておっしゃられたの。わたしの手を固く握られて。
あの時のアリア姫様の手の温もりは、今でもはっきり覚えています」
「『王妃の黒いローブ』と、ぜんぜん違う……」
「そうね。でも、わたしも『王妃の黒いローブ』は大好きよ、カイト」
ペルはそう言って明るく微笑んだ。
「今日来てもらったのはこの間のお礼をしたかったからだけれど、カイト、何か希望はあるかしら?」
ペルに問われて、カイトはフウを見た。
ペルの離宮に来るまでに話し合っている。もし、王太后様が信じられる方だったらお願いしてみようと。
カイトにはまだ自信がない。何を考えているか判らないところがペルにはある。
しかし、フウは、
「お願いしたいことがあります」
と、迷いのない栗色の瞳をペルに向けた。
「そうですか。フウはファロに」
「はい」
「苦労をしたのですね」
「いいえ」
フウは首を振った。
「マウロ様にもミユ様にも、あたし、返し切れないご恩があるんです。王太后様のお力でマウロ様を自由にしていただけないでしょうか。
お願いします」
フウが頭を下げ、カイトもフウに倣う。
「フウ。頭を上げて頂戴」
ペルの声に憂いがある。
「あなたの願いを叶えてあげたいけれど、わたしにはマウロ様を釈放する権限はありません」
「えっ?」
ペルが寂し気に微笑む。
「マウロ様のことはわたしも存じています。案じてもいました。しかし、マウロ様を牢に入れたのは王です」
「だったら、王様にお願いすれば--」
「あの子はわたしの言うことは聞かないでしょう。それに、わたしが王に何かを言ったからといって王がそれに応じていては、法の意味がなくなります」
「……」
フウが顔を伏せる。
ペルはしばらくその姿を見つめてから、口を開いた。
「必ずしもと約束は出来ませんが、わたしに何かできることがないか考えてみましょう。
その前にフウ、少し確認させてもらってもいいですか?」
「何をでしょう。王太后様」
「もし仮に、マウロ様を自由にするためにクスルクスル王国の法を破ることになったとしても、あなたは後悔しませんか?」
「はい」
「そのことによって、あなたがクスルクスル王国に住めなくなってもですか?
もちろん、ファロにも」
「それは--」
フウの顔に迷いが浮かぶ。
「判りません。……でも」
「でも、なに?」
ペルが先を促す。
フウが顔を上げる。ペルを見返した瞳に強い決意がある。
「後で後悔するかも知れません。マウロ様やミユ様にご迷惑がかかるかも知れない--。だけどいまはマウロ様をお助けしたい。例えマウロ様やミユ様とお別れすることになったとしても。
そう思います」
ペルが微笑む。栗色の瞳の奥で赤い光が瞬く。
まるでフウの心の奥の奥まで見通しているみたいだ。カイトはふと、そう思った。
「判りました。わたしに少し時間を下さい」
カイトとフウを送り出し、ペルは自室へと戻った。固く唇を結び、黙考する。しばらくすると口元がふっとほどけた。
「難しく考えるのは止めて、楽しくいきましょうか」
小さく独り言を呟き、ペルは目を閉じた。
同じ時刻。ペルの離宮から遠く離れたどこかの屋敷でのことである。
不機嫌な顔をして落ち着きなくうろうろと歩き回っていたガタイのいい老人が、部屋の中でぎょっと身体を硬直させた。
「……ペル様?」
信じられぬ、と言うように呟く。
「どうしたの?あなた」
長年連れ添った細君の問いかけにも返事すらしない。
やがて「はい」「はい」と頷き、三度目に「はいっ」と頷いた声は妙に弾んでいた。
「すぐに参りますっ!」
大声でそう叫んで、「馬車を!馬車を用意しろ!」と使用人に命じる。
「ああ、この格好では見苦しい!」
ばたばたと身支度をして、「ちょっと出掛けて来る」と細君に告げた時には、老人は何年かぶりに引っ張り出した軍服に身を包んでいた。
「どちらに行かれるのですか?」
ソファーに座ったまま細君がのんびりと訊く。
「ペル様のところだっ!」
怒鳴るように答えて老人が出て行く。
夫を乗せた馬車が駆け去る音を聞きながら、細君は「そう言えば、あの子が言ってたわねぇ」と独り言を漏らした。
「あの人が理由も告げず、ペル様のお屋敷にお邪魔することがあれば、すぐに知らせて欲しいって」
よっこらせと立ち上がり、いつも書き物をしている机に向かい、『父が行きました』とだけしたため、封をする。
「誰か。誰か、いる?」
姿を現した使用人に封書を渡し、「これをあの子のところへ届けて頂戴」と言いつける。
「はい。奥様」
使用人は部屋から下がると、受け取った封書をさらに小ぶりの木箱に仕舞い、表面に宛名を記した。
使用人が記した宛名は、『マララ王領府気付 カザンジュニア様』である。
「王太后様にマウロさんを釈放してくれないか、お願いしたぁ?!」
カイトとフウの話を聞いて、クロは思わず叫んだ。
ターシャの屋敷のリビングに面した庭である。ちょっと話したいことがあると言って、ペルの屋敷から戻ったカイトとフウに連れ出されたのだ。
頭を抱えたかったが、自分を見つめるカイトとフウの真剣な眼差しに、二人だけで行かせた自分の甘さの方をクロは呪った。
「それで?王太后様はなんておっしゃったんだよ」
「釈放するのは難しいけど、考えさせて欲しいって。少し時間が欲しいって」
「マジかよ」
「クロさん。あたし、マウロ様をお助けしたいの。このまま何もしないでいたら、マウロ様、釈放されないまま亡くなっちゃう。王様はマウロ様を釈放する気は絶対にないもの。それが判っているのに何もしないなんて、あたしにはできないの。
だから--」
「最初からそのつもりだったんだな?フウ」
「……ごめんなさい」
「カイトも知ってたのか」
「うん」
クロがため息を落とす。
「仕方ねぇな」
いずれにしてもイタカと合流した方がいいだろう。
クロはそう判断した。
だとしたらまずは、カザン将軍に連絡を取ることだ。しかし、いきなり連絡をしても怪しまれるだけだ。それに、カザン将軍が必ずしも味方になってくれるとは限らない。
何か方法を考える必要があった。
「判ったよ。オレもちょっと考える。王太后様じゃないが、オレにも時間をくれ」
「うん」
「何か楽しそうな話をしているね」
涼やかな声にぎょっと振り返ると、リビングから庭に出る戸口にターシャが立っていた。ターシャの傍らには、ヌーヌーとリアもいる。
「いや、なんでもねぇ。王太后様ンとこの話を聞いていただけだよ。伯爵様」
「そうかい?だけど」
ターシャにカイトたちの話が聞こえた訳ではない。しかし、聞こえなくとも雰囲気は判った。
そもそもターシャは、カイトたちが海都クスルに来た理由をとっくに察している。
「もし悪だくみだったら、それは私の専門分野だよ?」
そう言って、紫色の唇に、妖しくも楽しげな笑みをターシャは浮かべた。




