17-7(海神の立つ街7(英邁王の肖像))
翌朝、クロは『メイドたちに笑いがあるな』と思った。温かい笑いだ。ターシャも気づいているだろう。しかし、素知らぬふりをしている。『いったいカガスさんはどんな話をしたのかねぇ』とひとり笑う。
「ちょっと出かけて来るぜ」
朝食の後、クロはカイトにそう告げた。
「どこに行くの?」
「せっかく来たんだ。ちょっと街をぶらついてくる。お前らは午後にペル様のとこに行くんだよな」
「うん」
「失礼なマネ、するんじゃねぇぜ」
「--うん」
冗談交じりに軽く言ったクロに、カイトの返事が少し遅れた気がした。しかしクロはたいして気に留めなかった。そういうこともあるよな、としか思わず、「じゃあな」と軽く手を振って、クロはカイトに背中を向けた。
クロの目的は情報収集である。
まず港近くのみやげ物屋で観光案内図を買った。
観光案内図を開いて「なんだこりゃ」と思わず声が出た。船から見えたドーム型の大聖堂や海神の巨像が記してあるのは当然として、他にも細かく注意書きがある。
○ 虚言王様上陸地(『華の舞台』)
○ アリア姫様が堅実王様を蹴り落とした石段(『竜王の姫君』)
○ 三代様がペル様を口説かれた大通り(『王妃の黒いローブ』)
などなど。
案内図の右上、北の端には、海都クスルから遠く離れた銀山の名が記されている。大災厄で潰れていたのを、虚言王が復活させたと言われるラション銀山だ。
○ 大災厄以降忘れられていたラション銀山の場所を虚言王に教えたのはクスル王国の廃城で出会った謎の男。クスル王国の末裔を名乗るサーズ・ルーである(『華の舞台』)
注意書きはすべて、王家を題材にした芝居の舞台となった場所の説明だ。
「至れり尽くせりだねぇ」
芝居の裏方をやっていたこともある。記してある芝居のほとんどをクロは見たことがある。
説明文を読んだだけで、海都クスルのおおよその土地鑑をつかむことができた。
「それじゃ、ま、ちょっと歩いてみるか」
アリア姫を主役に据えた芝居、『竜王の姫君』では、侍女に手を出した堅実王をアリア姫が石段の上から蹴り落とす場面がある。蹴り落とすとは言っても、舞台ではたかだか3段程度の作り物の石段である。
しかし、観光案内図に従って見に行くと、幅が広く、段数も数十段はあった。
「死ぬじゃねぇか。ホントに蹴り落としてたら」
ペルと平凡王を主役にした芝居に『三代様隠密旅』というシリーズがある。ペルは旅芸人の一座の座付き魔術師という設定で、しかもその旅芸人の一座が実は裏で世直しをしているという話だ。第一話でペルと王太子である平凡王が海都クスルで出会い、ペルを気に入った平凡王が身分を隠して旅芸人の一座に加わり、一緒に世直し旅をするという突っ込みどころ満載の人気シリーズである。
隅から隅までフィクション間違いなしの話だが、海都クスルにはその『三代様隠密旅』でペルの一座が芝居小屋を張ったという広場があった。
しかも屋台が出てけっこう賑わっている。
「いいねぇ。こういうの」
広場の一角には『-恋人たちのシンボル- スフィア様の鐘』なるものがあって、恋人たちが次々と二人で紐を引いてカラリカラリと鳴らしていた。王宮に入ってからも仲の良かったペルと平凡王にあやかっているという。
クロも一人で鐘を鳴らして、ヒヒヒと嗤った。
様々な芝居に登場するのが、カイルア市場だ。天幕の張られた常設の市場で、とにかく広く、迷路のように入り組んでいる。
クロは昼メシを食うためにカイルア市場の一角にある居酒屋に入った。
観光客よりも地元民が多く、いつから呑んでいるのか、アルコールで顔を真っ赤にした連中が笑いながら大声で雑談している。クロもビールを頼み、一杯目を飲み干す頃には、隣に座った男と長年の友人のように笑い合っていた。
「古いダチが捕まっちまってよ。ヘタ打ちやがって」
酔いにもつれた舌でクロが言う。
「何をしたんだよ」
「ケンカだよ。収まりがつかなくなっちまってブスッてやっちまったらしいんだ。幸い相手が死ななくて、何年かかっくらったらしいんだけどよ、海都クスルは初めてだから野郎がどこに放り込まれてるのか判らねぇ」
「それなら多分、ゲイル刑務所だろうよ」
「ゲイル刑務所ぉ?遠いのか、そこ」
「遠くはねぇよ。街の外れにあるぜ。元は砦だ。海都クスルの西に、海に面して建ってるぜ」
「差し入れはできるかい、そこ」
「ま、コレ、次第だな」
クロと話す男が懐に何かを入れる仕草をする。
「どこも変わらねぇなぁ。役人ってヤツは」
「ソイツに会いに来たのか、クロ」
「そっちはついでだ。海都クスルに来たのは観光のためさ。
ガキを二人連れててね。案内してやろうにもオレの方がさっぱりだから今日は下見さ」
「そいつは悪い時に来たなぁ」
「なんでだ」
男が声を潜める。
「知らねぇか?ペル様暗殺未遂事件」
「ああ」
「軍がヤベェそうだ」
「ヤバイって、何がどうヤバイんだ?」
「軍の連中はペル様を慕ってるヤツが多いからよ、ペル様が殺られる前に犯人を殺っちまおうって動いてるらしい」
「犯人って、……犯人が判ってんのかよ」
「宰相だよ」
「はぁ?」
クロが驚いて見せる。
「なんで宰相さんがペル様を殺ろうとするんだよ」
「知らねぇよ、そんなこと。だけどよ、軍のヤツラが妙にピリピリしてんだよ。オレの知り合いが言ってたんだ。軍の連中はルー宰相を殺ろうとしているってよ」
「おいおい」
「カザン将軍は軍の動きを抑えようとしているらしいけどよ、あの人でも抑えられるかどうか判んねぇ。
オレだって許せねぇよ。ペル様を襲うなんてよ」
「まったくだ」
「そういやあ、知ってるか?」
「何を」
「表沙汰になってないけど、侍女が一人、死んだらしい」
「侍女って、誰の」
「ペル様のだよ」
「どういうことだよ」
「襲われたペル様を庇って死んだらしい。けど、ペル様は騒ぎを大きくしたくないってご意向だったんで、内々に処理されたんだってよ」
「内々にって、そんなのアリかよ」
伯爵様の言った通りかよ。と、クロが胸の内で呟く。
だとすると、ペル様が殺ったという伯爵様の推測もあながち間違いじゃねぇってことか--。
「ペル様はクスルクスル王国が揉めるのは良くないってお考えなんだろうよ。だけど、もう遅いかも知れねぇ」
「何が」
「昨日のことだけどよ、宰相に近い高官が一人、殺されてるんだ」
噂話というのは侮れない。
どこに真実があるか判らない。
昨日ターシャから聞いた話とこの話がどう繋がるのか、クロは判らなかった。
「宰相さんに近い高官が?どうして」
「報復だろうよ、ペル様が襲われた。”寄宿舎”の連中にも、ペル様を支持している連中は多いからな」
「”寄宿舎”?なんでここに”寄宿舎”が出てくるんだ?」
「殺された高官だけどよ、こう、喉をすっぱり切られていたんだよ。それって”寄宿舎”の遣り口だろ?」
つまり、”寄宿舎”の仕業だという根拠はないと言ってもいい。クロはそう判断した。ホントに高官が殺されたのかどうかも伯爵様に訊いてみねぇと--。
「英邁王様もおかわいそうに」
「え」
男の言葉に、クロは思わず声が出た。
「なんで?」
「なんでって。宰相とペル様の間に立たされて、ご苦労されているだろう?」
トワ郡では絶対に聞かないセリフだ。マララ領でもだ。トワ郡でもマララ領でも、英邁王は居酒屋ではいつでも嗤いの対象だった。
「そうか。そうだよな」
クロは居酒屋の壁に視線を向けた。
そこに肖像画が三枚、飾られている。向かって一番左にアリア姫、間に一枚挟んで一番右にペルの肖像画だ。
真ん中に飾られた肖像画を見るのはクロは初めてだった。初めてだから判った。それが英邁王なのだと。
アリア姫に似た金髪に、瞳の色はペル似か。面長で、口元には優しい笑みがある。アリア姫ともペルとも違う穏やかな笑みが。
「いけね。もうこんな時間か」
カイルア市場の外から聞こえてきた鐘楼の鐘の音に、男が腰を浮かす。
「悪いけどオレは行くわ。じゃあな、クロ。ちょっと難しいかも知れねぇけど、海都クスルを楽しんでってくれよ」
そう言って出て行った男を見送った後、給仕係をしている娘に、「なぁ、英邁王様ってどんな方だい?」とクロは尋ねた。
「どんな方って、どういうこと?」
明るく笑って娘が問い返す。
「いや、オレ、ずっと田舎にいたからよく知らなくてよ、どんな方なのかと思ってよ」
「いい方よ。お優しくて。
お兄さん、どこから来たの?」
「トワ郡だよ。住んでるのはマララ領だけどな」
「ああ」と娘が頷く。
「トワ郡から来る人って、英邁王様のことを悪く言う人が多いわね。お兄さんもそう思ってたんでしょ」
「まぁね」
「王宮に行ってみればいいわ。そうすれば、英邁王様がどんな方か判るから」
ターシャの屋敷に戻ったクロを出迎えてくれたのはマリである。
「カイトとフウはまだ戻ってねぇかい?」
「はい」
「伯爵様は?」
「書斎にいらっしゃいます」
「ありがとうよ」
「何かありましたか、クロ様」
「ん?何がだい、マリさん」
「お声が怖いですよ」
クロは苦笑して軽く手を振った。
「たいしたことじゃねぇよ」
ターシャの書斎に入るなりクロは、「王宮に行ってみたよ」と前置きもなく言った。
王宮の建物に入るのはさすがに許されていなかったが、王宮の庭の一部が無料で市民に開放されていたのである。
ターシャが読んでいた書物から顔を上げる。
「どうだったかね」
「王宮に行く前に、海都クスルにある王室を題材にした芝居の舞台を回ってみたんだ。なかなか悪くなかったぜ。ウソ臭さ満載だけど。『-恋人たちのシンボル- スフィア様の鐘』なんてよ、オレは気に入ったね。
けどよ、その『スフィア様の鐘』よりもずっと、王宮は作り物みたいだったよ」
市民に無料で開放された王宮の庭はきちんと整備され、多くの市民が楽しそうに散策していた。王宮を守る兵士の姿はどこにもなく、市民の笑顔が溢れ、その中にあって、クロはひとり慄然と立ち竦んだ。
寒気がした。
「ただの目眩ましだからね」
「海都クスルの市民と、……英邁王への、だよな」
「そうだろうね」
「スティードの街で、ムラドの婆さんから宰相さんが一ツ神の信徒だって聞いてからよ、ずっと不思議に思っていたことがあるんだ。
宰相さんが一ツ神の信徒だっていうんだったら、宰相さんを殺っちまえば済むんじゃねぇかって。例えば、”寄宿舎”の連中を使うとかしてよ。ムラドの婆さんなら法を破ることなんか気にしねぇだろう。それなのにどうして、ムラドの婆さんは宰相さんをほったらかしにしてるんだろうってよ。
けど、そうじゃないんだな。
なるほど宰相さんは一ツ神の信徒かもしれねぇ。だけど問題は、その宰相さんを、英邁王が支持しているってことなんだな」
「そうだね」
「オレはよ、ただのバカだって思ってたんだ。英邁王のことを。だけど、違うんだな」
「善良な方だよ。あの方は」
クロが嘆息する。
居酒屋で見た英邁王の肖像画を思い出す。アリア姫とペルの肖像画に挟まれて、栗色の瞳に知性を湛え、厳しさのまったく感じられない、優しさに溢れた英邁王の顔を。
「善良で、頭も良くて……、ガキ、なんだな。英邁王さんは」
「仮定の話をしても仕方がないのだがね」
ゆっくりとターシャが口を開く。
「もし、薫風王様が王太子のまま亡くなられて、英邁王様が代わって四代目になられていたら、優秀な兄の弟というくびきから解き放たれて、もしかすると英邁王様は歴史に残る名君になっていたんじゃないか。
私はそう思っているよ」




