17-6(海神の立つ街6(闇の神の信徒の使用人たち2))
クロの前に湯呑が置かれる。
「お茶でございます。クロ様」
慇懃に告げたのは、執事のカガスである。
歳は70を越えているだろう。いつも気取ったように顎を上げている。しかし不思議と嫌味はなく、むしろ妙なおかしみがカガスにはあった。
「なぁ、カガスさん」
「なんでございましょう。クロ様」
「あんた、亡命した伯爵様を追って海都クスルまで来たんだよな」
「さようでございます」
「なんでそこまで忠誠を尽くすんだ?」
「わたくしの務めですから」
「キャナから来たんだ、あんたは雷神様の信徒なんだろう?」
「さようでございます」
「なのになんで伯爵様に……、あ、そういやあ、伯爵様は最初っから名を口にするのも憚られる御方たちの信徒だったのか?」
「ご主人様のことを軽々しく口にすることはできません」
「堅いねぇ」
「これが、わたくしの務めですから」
と、カガスは答えた。
疲れてうつらうつらし始めたリアを、マリが寝室へと連れて行った後のことである。
「雷神様の信徒だったらしいわ、ターシャ様。でも、ちょっとした縁があって、19歳の時に惑乱の君の信徒になったって。
前に聞いたことがある」
執事のカガスと違ってヌーヌーの口は軽かった。
「ちょっとした縁て?」とフウ。
「詳しいことは聞いてないわ」
「伯爵様はいつ頃こっちにいらっしゃったの?」
「8年ぐらい前って言われてたかな。
『狂泉様の森に攻め込むことに反対していたら、いつの間にか居場所がなくなってね』
っておっしゃられてたわ」
「キャナにご家族はいるのかな」
「ご兄弟はいらっしゃるみたい。キャナにあるターシャ様のご領地も、今は弟さまが管理されているんだって。
えーと、伯爵位はいまはターシャ様が継がれてるけど、ターシャ様が亡くなられたら弟さまに受け継がれるって言われてたかな。
『私の父と母は少し変わった方たちでね。私が我が主の信徒になることに反対されなかったよ。
むしろ勧められたぐらいだ。
ただし、伯爵位については弟に継がせることを、我が主に誓って約させられたよ』
って言われてた」
「伯爵様の口真似が上手いね。ヌーヌー」
「当然でしょ」
ヌーヌーの鼻が得意げに動く。
「伯爵様にお子様はいらっしゃるの?」
「いない、と思うのよねー。ご自分のことはあまりお話ししていただけなくて」
「カガスさんなら知ってるんじゃない?」
「ダメよ。カガスさん、口が堅いもん」
「あたしから頼んでもダメかな」
「知りたいの?フウ」
「ちょっと興味あるでしょ。ヌーヌー」
「それはねー」
「子供時代、伯爵様はどんなだったか、とか。初恋はいつだったか、とか」
「--それは是非、聞きたい」
「でしょ」
「何か良いアイディア、ある?」
「そうね」
フウが宙へ視線を向ける。
「伯爵様と駆け引きなんてできる訳ないから--」
「伯爵様。少しカガスさんをお借りしてもいいですか?」
夕食も終わりという頃になって、フウは正面突破、ターシャに笑顔でそう尋ねた。
「何のためかによるね。フウ殿」
「いろいろお話をお聞きしたいだけです。みんなで」
「みんなとは?」
「あたしとヌーヌーとリアちゃんとカイトと、マリさんとキノさんとメルさんとで、いろいろ」
そういうことかよ。と、クロは納得した。
妙な緊張感があるな。夕食が始まる前、クロはそう思った。フウとヌーヌー、それにリアもだ。カイトは腰が引けている感じだったが、メイドたちも浮かれている。
交渉するには伯爵様は手強すぎる。
そこでひとりでどうにかするのは諦めて、数の力で圧そうというハラだろう。
『悪くねぇな』
クロがそう思ったところへ、
「伯爵様がいらっしゃらないところでお聞きします。それと、カガスさんから聞いたことは伯爵様にはお話ししませんから」
と、フウが言った。
なるほど。とクロは感心した。
ターシャが短く笑う。
「噂話をすると予め断っておいて、噂話をする許可を下さいってことだね。フウ殿」
にこりとフウが頷く。
「はい」
「こうも正直に頼まれたのでは断れないね。では、リビングを使いたまえ。私は書斎に退散させていただくことにしよう。
見聞官殿。私にお付き合いいただけるかな」
「仕方ねぇな」
「ありがとうございます、伯爵様」
ターシャが立ち上がる。
「カガス。バンド殿に書斎に一番いい酒を持ってきてくれるように伝えてくれないか。それと、もし良ければバンド殿も一緒にと伝えてくれ」
「承知いたしました」
「あまり話し過ぎないようにね、カガス」
「わたくしを誰だとお思いで。僭越ながらターシャ様のことはわたくしが誰よりも存じ上げております。
ご心配下さいますな」
ターシャが苦笑する。
「不安しかないよ、カガス」
「それじゃあ、とっとと片付けましょう、マリ姉さん!」
メルが景気よく声を上げる。
「あたしたちも手伝います、マリさん」
「お願いしますわ、フウ様」
かしましく動き始めたフウやメイドたちを残してクロはターシャとともに書斎へと移った。書斎の椅子に座ってすぐ、料理人のバンドが酒と湯呑を手に姿を現した。
「災難ですなぁ、伯爵様」
バンドが明るく笑って手にした酒を掲げる。
「ご命令通り、一番のとっておきをお持ちしましたぜ」
「それ、どこの酒だ?」
「酔林国のですよ、見聞官殿」
「おうおう。いいねぇ。
ところでよ、オレのことを見聞官殿って呼ぶのは止めてくれねぇか。肩が凝っちまって折角の酒が不味くなっちまうからよ」
「だったら何とお呼びすれば?」
「クロでいいよ。えーと、あんたはバンドさん、だよな」
「だったらオレのこともバンドって呼んでくれ、クロ」
「了解。とにかく呑もうぜ」
湯呑で乾杯する。
「女たちの肴にされちまった、気の毒な伯爵様に」
クロが軽口を叩く。
「肴にされているのが私だけとは限らないんじゃないかね。見聞官殿」
クロがだらしなく笑う。
「好きなだけ肴にして貰っていいさ。こうして旨い酒さえ呑めればな。くぅ。やっぱりウメェなあ!酔林国の酒は!」
「酔林国の酒を呑んだことがあるのかね、見聞官殿」
「ムラド艇長のとこで呑ませて貰ったよ。これで三度目だぜ」
ターシャが酒を口に含み、喉に落とす。
「これだけは良かったと思えるね。
キャナとクスルクスル王国が友好国に戻って、酔林国の酒が手に入りやすくなったよ」
「英邁王様に感謝できることがあったとはねぇ。
そういやあ、キャナとクスルクスルは友好国になってんだよな。伯爵様、あんた、よくここに亡命したままでいられるなぁ」
「政治的な天秤で言えば、キャナとクスルクスル王国双方とも利害のバランスが取れていてね。
積極的に私を国に戻す理由もないし、ここに残す利もない。
むしろ私がここに残ることで、クスルクスル王国に混乱をもたらすことを宰相殿は期待している。
5年前に宰相殿に会って、そう理解して頂いたよ」
「宰相さんとも繋がってんのかよ、伯爵様」
呆れたようにクロが言う。
「宰相殿にそう理解して頂いたというだけだよ。繋がっているというほど親しい間柄ではないな。
……何より私がここに居られるのは、私がそうと望んで、かつ、我が主もそれを良しとされているからだよ」
「ん?」
「ヌーヌーがここに来たのは5年前だよ。見聞官殿」
「ああ」
ターシャの言葉の意味を理解し、クロは少し沈黙した。
「旨いことは旨いけど、」
クロが話題を変える。
「同じ酔林国の酒でも、味が違うもんだな」
「ムラド艇長に呑ませてもらったのと比べてかね、見聞官殿」
「おお。これも旨いけど、あれは旨かった。確か、トロワって人が造った酒だって言ってたな」
ターシャが頷く。
「優れた酒を造る方の多い酔林国の中でも、トロワ殿は特に丁寧に造られているからね。私も呑ませていただいたことがあるが、確かに素晴らしかった。
見聞官殿は知っているかね?
トロワ殿は元はショナ生まれの魔術師でね。旨い酒を造るためだけに酔林国に移住されたんだよ」
「ショナ?ショナって、アレだろ?新大陸の。ペル様の故国の連中が興したっていう」
「そうだよ」
「それは変わりモンだねぇ。カイトが世話になってたのも判るってとこかねぇ」
ターシャが手を止める。
「カイト殿が?」
「ああ。カイトが酔林国に行ってた時に住まわせて貰っていたんだとよ。
そういやあ、カイトが言ってたな。いままでに二人ほど魔術師に会ったことがあるって。
そのうちの一人ってことか」
そう言いながらクロはさらに思い出した。
「一人はとってもおいしいお酒を造ってたって言ってたのはこのことか。もう一人のカニに似てたっていうのは良く判らねぇが」
「トロワ殿は酔林国で委員も勤められていてね。酔林国の指導部の一員だよ」
ターシャの言葉にクロが嗤う。
「ハタラキモンだねぇ。
酔林国の指導部の一員ってことは、あんたとも面識があるのかい?伯爵様」
「いや--」
「嬢ちゃんは酔林国にいたのか」
バンドが割り込む。
「だったらあの野郎のことも知ってるかなぁ」
「あの野郎って誰だい?」
「オレを負かした”シミ”だよ。元気でやってるかな」
「”シミ”?なんだよ、”シミ”って」
「バケモンだよ。エトーっていう名のヤツで……」
「ん?何か言ったか?伯爵様」
湯呑を傾けるターシャの口元に笑みがある。何かを面白がっているような。何かを納得したような笑みが。
「何も言ってないよ、見聞官殿。ただ、なるほどと、思っただけだよ」
***
酔林国の話から海運の話となり、クスルクスル王国がトワ王国を取り込んだ際の話になった。
「あれだろ。クスルクスル王国がトワ郡を必要としたのはよ、スティードの街の後背地としてだろう?
違うのか、伯爵様」
「間違ってないよ、見聞官殿」
「他にも理由があるって、あんた、言ったけどよ、まさか虚言王がキャナと交わした約束を、三代様が律儀に守ろうとしたとでも言うのかい?」
「そういう側面もある、ということだよ。見聞官殿」
「ホントかよ」
「スティードの街の後背地とするだけなら、わざわざトワ王国をクスルクスル王国の一郡として取り込む必要はないよ。
トワ王国が友好国でさえあってくれれば後背地としては十分だ。
クスルクスル王国の軍事力で圧迫をかけつつ、マララ領や隣のタリ郡と交易を行うことで経済的な利益を与える。
資金的な援助をしてもいいだろう。
そうすれば嫌でもトワ王国はクスルクスル王国の友好国になるよ。
気をつけなければいけないのは、洲国とトワ王国が連携しないよう両国の離間を常に図ることだね。
いずれにしても、間に別の国を置いた方が、何をするか判らない洲国と、直接、国境を接するよりもはるかに効率的だ。洲国とはトワ王国に戦って貰えればクスルクスル王国の兵を損じることもないから、トワ王国にかける軍事的な圧力はずっと維持できる。
いいことだらけだろう?」
「はぁ」
クロがため息を落とす。
「カイトに間違ったことを教えちまったかなぁ」
「間違っている訳じゃないよ、見聞官殿。スティードの街の後背地としてトワ郡を取り込んだというのも、一面の真実だからね。
わざわざ訂正する必要はない。
クスルクスル王国がトワ王国を取り込むことで得た一番の利益は、他の国々や民から、例え口約束でも、クスルクスル王国は約束を守る国だという信頼を得たことだろうな」
「信頼ねぇ」
「国と国の関係も人の関係と同じだよ。ウソばかりついている人物が信用できないように、前言を翻す国は信じられない。
見聞官殿なら良く判っているだろう?」
「まあ、そうだな」
「もっとも私は、三代様とペル様がトワ王国に拘った理由は、虚言王様とキャナ王国の約束を守る為ではない、と思っているんだがね」
「へ?だったら何のためだよ」
「アリア姫様の為だよ」
クロが湯呑の酒を口に含み、しばらく考える。
「どういうことだい、伯爵様」
「虚言王様は、クスルクスル王国が東から洲国を牽制すると約束してアリア姫様を迎え入れた。極端な言い方をすると、アリア姫様の存在意義は、クスルクスル王国がトワ郡を取り込んで初めて成り立つ」
「ああ」
「結果的に虚言王様とキャナ王国の約束を守ることになったけどね、三代様とペル様がトワ王国を取り込むことに拘ったのは、アリア姫様がクスルクスル王国に嫁いで来られたのは意味のある事だったと証明するためだった。私はそう思っているよ」
「難しいことはオレには判らねぇが」
黙ってクロとターシャの話を聞いていたバンドが不意に言った。
「三代様とペル様がトワ郡を取り込んだのは、違う理由だとオレは思いますね」
ターシャが微笑む。
「良ければ教えていただけるかな。バンド殿」
「止められなかっただけですよ」
「どういう意味かね?」
「トワ郡の隣のタリ郡までガッーと一気に征服しちまって、勢いがついて、ここらで止める?って言い出せなくなったんですよ。
つまり、成り行きですな」
クロが声を上げて笑う。
「そりゃいいや」
ターシャも笑った。
「そうだね。国というのは一度勢いがつくと例え王でも止めるのが難しくなる。バンド殿の言うことが一番、正解かも知れないね」
部屋の扉がノックされるよりも前に、カイトとフウは顔を見合わせた。
小さな足音がふたつ。「カイト、フウ。ちょっといい?」ノックの後に、ヌーヌーの声が続いた。
扉を開いたフウの前に、夜着姿のヌーヌーが、同じく夜着姿のリアの手を引いて立っていた。
「どうしたの、ヌーヌー。リアちゃん」
「リアがみんなで寝たいって。いいかな」
控え目な声でヌーヌーが訊く。フウは笑って大きく扉を開いた。
「もちろん。どうぞ入って」
「うん」
「ありがとうございます」
「二人ともちゃんと歯は磨いてきた?」
「子供扱いしないで!」「はい」
ヌーヌーとリアがそれぞれ返事をして、フウはくすくすと笑った。
「それじゃあ、今日はあたしも疲れちゃったから、みんなでとっとと寝ましょ」
「リアはどこで寝る?」
「真ん中でいいんじゃない?リアちゃんは」
「じゃ、ヌーヌーはそっちかな」
「カイトのとなりかー」
「ぬーぬーねえさま、わたしがそっちに」
「うそよ。わたしはここがいい。リアがそこね」
「だったら、あたしがここで」
「うん」
ベッドに潜り込んだフウが「明かりを消すよ」と言って短く呪を唱える。誰かが低く笑う。「なに?」カイトの問いに「何でもない」とヌーヌーが答える。静かなリアの寝息が聞こえてきて、「おやすみ」と言ったフウの声にはもう、ヌーヌーも応えなかった。
誤字報告して頂き、ありがとうございます。
修正いたしました。