2-1(狂泉の森人たち1)
数日前に降った雨が集まって、濁流となってカイトの前を流れていた。大河である。向こう岸は見えてはいたが、遠い。カイトは泳ぎを知らず、知っていたとしても、泳ごうという気にはとてもなれない川幅と流れの速さだった。
川下へと歩いて行くと、小さな集落に出た。
集落の様子はカイトのクル一族と比べると随分違う。
狂泉の森を南(方角的には西)へと進むにつれて集落の家々の距離は近くなり、道幅も広くなった。カイトが入った集落も、例え森人ではなくとも森から集落に入ったことが判るほど木々が切り開かれていた。
そこでカイトは、弓矢を手にした一人の男と行き会った。
歳は30代か40代といったところだろう。頬はこけ、髪は男にしては長く、目つきがひどく悪い。端的に表現すれば、悪人顔である。この人は信用できる、カイトはそう判断した。
「あんた、どうやって矢を3本、同時に撃ってるの?あたしも練習したいからさ、ちょっと教えてくれない?」
ハルに訊かれた時に、カイトは「えーとね」と考えて、
「まず矢を3本持って」
「うんうん」
「弓はこう持って」
「うん」
「後は、きゅっと引いて、しゅしゅしゅっと」
と、説明した。
「……」
「判った?」
ハルは諦めたように首を振った。
「あんたが天才で、訊いたあたしがバカだったってことは判った」
と、ハルは感想を述べた。
カイトが男のどこを信用したか、カイト自身にも判らなかった。おそらくは、男の筋肉の付き方や足運び、手にした弓矢の状態などを見たのだろう。弓矢と同じで、カイトは物事を言葉にして説明するのは苦手だった。
あえて言えば、
『きちんと森と向き合っている人かどうか』
というのがカイトの判断基準である。
陰気な男ではあったが、きちんと森と向き合っている人だと、カイトは判断したのである。ただ、どこをどう見てそうと判断したかは、繰り返しになるがカイト自身にも判らなかった。
「こんにちは」
と、弓を肩に、カイトは男に声をかけた。
男が立ち止まる。
「なんだい、嬢ちゃん」
意外と柔らかな声で男は応じた。だがやはり外見通りの悪人声である。
「向こう岸に渡りたいの。どこかに橋はある?」
「橋か。橋はないな。大平原まで出ればあるがな。半日ほど行けば街があって、そこに架かってるぜ」
大平原とは、狂泉の森の北に広がる平原のことである。つまり橋を渡るには、狂泉の森を出なければならないということだ。
「森からは出たくないわ」
森から出るのは、理由もなく、怖かった。
「だったら舟があるぜ。オレが乗せてやるよ。だがこの水量だ、今は無理だ。3日は待ちな、嬢ちゃん。
ところで、オメエ、カネは持ってるか?」
「うん」
とカイトは頷いた。カネを持っていると認めることが危険なことは、これまでの道中で既に経験済みだ。だが、カイトの答えを聞いた男の暗い双眸に、特段の感情の動きをカイトは認めなかった。
「でも、父さまと母さまにもらったものだから、大事に使いたい。お金を払う以外に舟に乗せてもらう方法はないの?」
「そうだな」
男がカイトを値踏みするように見る。
「オレは宿をやっててな。森の外から客が来てる。鳥を2羽、落としてくれたら舟に乗せてやるよ」
「ここで鳥を落としてもいいの?」
念のために確認する。
「ああ。いいぜ」
男が答えるのとほとんど同時にカイトは弓に矢を番え、放った。矢を放った音はひとつだけ。しかし、矢は2本飛び、2羽、鳥が落ちた。弓を収め、鳥を回収し、カイトが男に差し出す。
「これでいい?」
男はカイトから鳥を受け取り、改めてカイトを見た。喉の奥で低く笑う。
カイトはこれまでの道中でも、同じように笑われたことがあった。最初はまだ若いカイトの外見から彼女を軽く見て、それが間違いだと悟った時に、どういう訳か皆が皆、同じように低く笑った。
「いい腕だな、嬢ちゃん。どこから来た。名は」
「北から。名前はカイト。クル一族のカイト」
「聞いたことねぇな」
クル一族の名を聞いたことがない、ということだろう。「オレはヴィトだ」と、男は名乗った。
「ずっと野宿か?」
「うん」
「ズイブン遠くから来ただろうに、あまりくたびれているようには見えねぇが……、どうだ、うちに泊まらねぇか。たまにはちゃんとしたベッドに横になりたいだろう。宿賃は狩りを手伝ってくれたらチャラにしてやる」
「何を狩るの?」
「ただのイノシシさ」
と、ヴィトは薄い笑いを浮かべて答えた。