17-2(海神の立つ街2(死の聖女1))
顔を覗かせたのは、まだ若い女である。いや、若い女と言うより、若い少女と言うべきだろう。
青い吊り目を厳しくクロに向けている。
唇が赤い。まるで血の色だ。何かの印だろうか、狭い額に唇と同じ血の色で目が描かれている。
縦にひとつ。真ん中の目を挟んで両側に斜めにひとつずつ、合計3つの目が。
「あー、オレらはいつでも来ていいって伯爵様に言われたんで、来てみたんだけど、伯爵様に取り次いでもらえねぇか?」
じろじろと無遠慮に少女がクロを見る。
「本当でしょうね、犬」
「犬って。その通りだけど、ヒデェなぁ」
「ウソだったら許さないわよ」
少女が引っ込み、扉が閉じられる。しばらくすると、今度は大きく扉が開いて、同じ少女が姿を現した。
「いいわ。入って。ターシャ様がお会い下さるそうだから」
「はいはい」
扉を潜りながら、クロは「いいとこに住んでんなぁ」と誰にともなく言った。「亡命者ってのは同じでも、歓楽街でアルバイトしてたどこぞの公子さまとは大違いだぜ」
エントランスから奥へ進もうとした少女に、
「なぁ、嬢ちゃん」
と話しかける。
「嬢ちゃんって、わたしのこと?」
とげとげしい返事が返ってくる。
「他にいねぇだろ?」
「だったらわたしのことを嬢ちゃんなんて呼ぶな。犬。わたしにはヌーヌーって名前がちゃんとあるんだから」
「ヌーヌーちゃんか。可愛い名前だねぇ」
ヌーヌーが足を止めて振り返る。
「ヌーヌーちゃんなんて、わたしのこと、馴れ馴れしく呼ぶな、犬。あんたのその毛皮を剥ぎ取って、海ン中に叩き込むわよ!」
脅し文句が堂に入っている。しかし、クロはヌーヌーの脅しを気にすることなくへらへらと笑って彼女に問い返した。
「だったら何て呼べばいいんだ?」
「呼ぶな。ほっとけ。お前はわたしに話しかけるな。犬」
「ヒデェ」
「黙ってついて来い。犬」
「こんなヒデェ扱い、久しぶりだぜ」
「初めてじゃないんだ」とカイト。
クロが肩を竦める。
「まだまだ可愛いもんさ。これぐらい」
フウがカイトの袖を引く。カイトが顔を向けると、フウが目で話しかけていて、カイトも、うん、と頷いた。
エントランスから短い廊下を進んだ先で、ヌーヌーが扉をノックする。
「ターシャ様。ご案内してきました」
「可愛い声も出せるんだな」
クロがへらへらと言う。
ヌーヌーが勢いよく振り返ってキッとクロを睨む。
「黙ってろって言ったろ。犬!」
内側から扉が開き、姿を現したターシャが「それはあまり感心できない言葉使いだね、ヌーヌー」と微笑みかけた。
クロが事情を話すと、ターシャはすぐに笑って「部屋はいくつでもある。いつまでも好きなだけ泊ってもらっても結構だよ、見聞官殿」と答えた。
「助かるよ、伯爵様。ところで、オレらを案内してくれたあの子、いったい何なんだ?」
「ヌーヌーのことかい?」
「いくつなんだよ、あの子」
「12だよ」
「なあ、伯爵様」
「ん?」
「あの子といい、リアちゃんといい、あんた、もしかして雷神様と同じ--」
「口には気をつけた方がいいな、見聞官殿」
気分を害した様子もなく、ターシャが応じる。
「特にヌーヌーのいるところでは。あの子は冗談が通じないところがあるからね、私のことに関しては。
何と言ってもあの子は、死の聖女だから」
クロは口につけていた湯呑を下ろした。ターシャを見返すクロの顔から、軽さが抜け落ちていた。
「死の聖女……、って、ホントに?」
「我が主が、私の護衛としてつけてくれたんだよ」
「……マジかよ」
「なに?死の聖女って」
カイトの問いに、「あー」とクロが声を上げる。
「ワリィな、カイト。気分が悪くなるから、この話はしたくねぇよ」
「後であたしが教えてあげるわ、カイト」
横から割り込んだのはフウだ。
「フウは知ってるのか?」
「イタカ先生に教えてもらいました」
「そうか」と頷いて、「悪いが頼むわ、フウ。それで、あの子はいつ、アンタのとこに来たんだ?伯爵様」とクロは尋ねた。
「5年前だよ」
「その時にはもう、死の聖女だったのか?」
「死の聖女になったばかりだったよ」
「そうか。だとしたら、7歳からか--」
カイトとフウは同じ部屋を割り当てられ、部屋には二人で眠るには大きすぎるベッドが据えられていた。
死の聖女についてフウがカイトに話したのは、ベッドに二人で入ってからである。
「死の聖女はね、西の公女様の使徒よ」
「伯爵様の主、ではなくて?」
「うん。多分、伯爵様の主である御方が、西の公女様にお願いして護衛としてつけてくれたってことだと思う」
「護衛と言っても、ヌーヌー、まだ12歳って言ってなかったっけ」
「使徒だもの。普通で考えない方がいいと思うわ。
あたしがイタカ先生に教えて貰った話だとね、死の聖女は、この世で迷ってる死者を西の公女様の許に送る役割を与えられているの。そのために死の聖女は、西の公女様の神使を使う権限を与えられているって聞いたわ」
西の公女様の神使。ゾマ市の郊外にある西の公女の森でカイトが会った、赤犬の群れのことだ。
「それで、クロさんが気分が悪くなるから話したくないって言ってたのはね」
「うん」
「多分、死の聖女に選ばれる条件のことだと思う」
「どんな条件なの?」
「死の聖女にはね、なりたくてなれるものじゃないの。西の公女様がご自分で選ばれるの。その、」
フウが少しためらう。
「死よりも辛い想いをしたと、西の公女様が認めた人を」
「死より辛い想い……?」
「うん」
フウが頷く。
「カイトにも判るでしょう?」
「……」
カイトは答えない。だが、フウが言いたいことは判った。
「ヌーヌーちゃんがどんな経験をして、西の公女様に選ばれたかは判らない。伯爵様も知らない筈。ううん、ヌーヌーちゃんに訊いても判らない」
「どうして?」
「だって、死の聖女に選ばれると、死の聖女になる前の記憶は全部失くしちゃうから」
似た話をカイトは思い出した。ゾマ市でマルが言っていた話だ。戦神様の護り人になると過去は捨てる。マルはそう言った。
ただし、マルが捨てたのは記憶ではなく、名前だ。
「……どういうこと?」
「西の公女様はね、死よりも辛い想いをした、そのことを、慈悲をもってぜんぶ忘れさせて使徒とされるの。
クロさんが言ってたでしょう?7歳からかって。あれってね、ヌーヌーちゃんは7歳からの記憶しかないって意味よ」
「7歳」
「ヌーヌーちゃんがどんな経験をしたかはもう、誰にも判らない。西の公女様以外には、ね」
「……」
「イヤな話だよね」
「うん」と頷いたカイトにフウが身体を寄せて来る。カイトの胸に、言葉には出来ない不快感が蠢いている。おそらくはフウの胸でも。7歳。その歳でどんな辛い想いをしたというのだろう。死を司る神が記憶を消すほどの経験とは、どんなものなんだろう。
暗闇の中、天井を睨み続けるカイトの隣で、フウもまた、いつまでも穏やかな眠りに沈むことはなかった。
「ねぇ、フウ」
カイトがフウに話しかけたのは、それから随分経ってからである。
「なに?」
「ちょっとわたしに考えがあるの」
翌日の朝食の後のことである。
「ヌーヌー。わたしと勝負しよう」
とカイトはヌーヌーにいきなり話しかけた。
「はぁ?」
ヌーヌーがウザさに満ち溢れた表情でカイトに向き直る。
「なんでわたしがあんたなんかと勝負しないといけないのよ。ガキ」
「あんたの方がガキでしょう?ヌーヌー」
「なんですって」
きりきりとヌーヌーの吊り目がさらに吊り上がる。
平原王とのいくさの前の腕比べのときだ。
確かプリンスはこう言っていた筈だ。他の一族の人たちを腕比べに参加させるために。
『ボクに勝てる自信がない人は来ていただかなくて結構ですって言ったら、ま、この通り』と。
「わたしに勝つ自信がないのなら、別にいいけど」
「受けてやろうじゃないの!」
反射的と言ってもいいような早さでヌーヌーが叫ぶ。さすがプリンス。
「なんの勝負よ!」
カイトはさらにヌーヌーを挑発するためにニッと笑った。こちらはライに倣った。
「かくれんぼ、よ」