16-7(海都クスルへ7(海賊の襲撃))
船長室に入る前からクロの胸は期待に高まっていた。扉の外からでも判った。酒の匂いがしていることに。
船長室とは言っても流石に船の中である。
カイトとフウ、それにクロと船長を加えた4人で座ると、もうそれ以上人は入れなかった。
「手数をかけたな」
船長がそう言いながら戸棚から取り出したのは、クロの期待通り、酒である。
「いいってことよ」
クロの口元はすでにゆるゆるである。
「で、アイツらは?始末したのか?」
「この船は巡礼船だ。殺生はできんよ。だからぐるぐる巻きにして、後は海神様に委ねたよ」
つまり簀巻きにして海に放り込んだということだ。
「海神様のご慈悲があればいいな」
心にもないことをクロが言う。視線は注がれる酒に釘付けだ。悪酔いしそうな安酒の臭いがしたが、気にしなかった。
「ウメェエエ」
ヒヒヒと笑いが零れる。
フウは黙って湯呑に口を着け、ごくごくと水でも飲むように喉に流し込んだ。「はぁ。美味しい」としみじみと呟く。
「イケるクチだな。お嬢ちゃん」
船長が2杯目を勧める。
「うん」
遠慮することなく、フウが湯呑を差し出す。
「さすが狂泉様の信徒だ」
「違うわ」
「ん?」
「いろいろあるから、そこは聞かないで」
フウはカイトと違って街の娘の服を着ている。しかし弓を持っている。
フウの纏う雰囲気から船長は、街の娘の服を着てはいてもフウもカイトと同じ狂泉の民人だろうと判断していたのである。
「ああ、すまねえ。そっちの嬢は呑まないのか?」
嬢。カイトのことである。カイトの前には、彼女がひとくちだけ口をつけて、すぐに置いた湯呑がある。
「お前は酔林国の酒に口が慣れてるからなぁ」
クロの言葉に、船長が低く嗤う。
「そりゃ呑めねぇか。こんな酒は」
「だったらあたしがもらっていい?カイト」
「うん」
カイトが自分の湯呑をフウに回す。
フウはすでに三杯目の酒ということになる。
あまりにいいフウの呑みっぷりに、船長の中の何かが刺激された。
本当は彼は、船が出航した時から二人組を怪しいと睨んでいたこと、他人同士のはずが頻繁に目配せをしていたこと、クロたちのことも怪しんでいたこと、カイトとフウが本当に狂泉様の森人かどうか確かめようと思っていたことを話し、謝罪するつもりだった。
航行中である。
酔うほど酒を呑むのは良くないと判っている。
しかし、自分の中の船乗りの血が騒ぐのを、船長はどうにも抑えられなかった。
「お嬢ちゃん」
「なに?」
「もし良ければ、オレと勝負しねぇか?」
「何の勝負?」
「酒。どっちが強いか」
「船長さん、強いの?」
「誰にも負けたことねえよ」
「そう」
フウは手にした湯呑の酒をゴクゴクと飲み干した。トンと机の上に置き、「挑戦はいつでも受けるわ」と、誇り高く応じた。
テーブルに突っ伏して低く呻く船長と、だらだらと呑み続けるクロを残して、カイトとフウは船長室を出た。甲板に並んで遠く水平線へ目をやる。
「あー。久しぶりにたくさん呑んだ」
頬がほんのりと染まっているだけで、フウにはまだ余裕がある。
「強いね。フウ」
「あたしの一族はみんなお酒が強かったから。カイトはあまり呑まないね」
「ウチの一族はあまりお酒は呑まないわ。父さまは強かったけど、わたしは母さまに似たかな」
「こんな風に、呑み比べで終わってれば良かったのにね」
「うん」
「こうして見てると、地球は丸いって良く判るね」
「えっ」
フウは水平線を見ている。
「どういうこと?」
「知らない?あたしたちが立ってるこの大地はね、丸い球体なのよ」
「うそ」
フウの言葉を疑った訳ではなく、驚いてカイトはそう言った。
「あたしも狂泉様の森を出るまでは知らなかったんだけどね。イタカ先生に教えてもらったの。丸いから、遠くの船はほら、帆先から見えてくる」
「そういうことだったのか」
「なにが?」
「あんたを探して森を出て、遠くを見ても街が見えなくて、そうか、近づいたら見えるようになったのって、そういうことだったんだ」
フウがくすくすと笑う。
「狂泉様の森の中じゃ判らないよね」
「うん。だったらさ」
「なに?カイト」
「あの船、わたしたちに近づいて来ているってことかな」
カイトの言葉に、甲板を歩いていた船員の一人が何気なくカイトの指さす先を見た。
船員の顔色が変わる。がっと船縁を掴み、身体を乗り出す。目を皿のようにしていた船員が別の船員に怒鳴るように声をかけ、さらに別の船員が慌てて帆柱に登っていく。
すぐに「海賊だあ!」という叫び声が甲板に響いた。
「カイゾクって、そもそも何?」
船室に戻されたカイトは、船長室から追い出されて合流したクロにそう尋ねた。
「虚言王さんがカイゾクだって、クロ、前に言ってたけど、何?」
「海の上で集団で盗みを働く連中だよ。だが、どうやら追ってきてるのは普通の海賊とは違う連中みたいだな」
「どういうこと?」
「海賊船に偽装したキャナの軍船が追ってきてるんだとよ」
船長室を追い出される前に、船長と船員の話からクロはそう推測したのである。
「だとしたら、乗っているのはキャナの兵士ってこと?クロさん」
「そういうことになるなあ」
「もし、追いつかれたらどうなるの?」
「金目の物を盗られて、身代金を取れそうな連中は捕まって、身代金を取れそうにない連中は殺されるか、奴隷に売られるか、だな。普通は。けど、相手がキャナの偽装船だとしたら、どうなるか判らねぇなぁ」
「逃げ切れるかな」
「船長たちの慌てっぷりからすると、難しいんじゃねぇ?」
「だったら」
クロがため息を落とす。
「あんまり、命を賭けるのって好きじゃねえんだけどなぁ」
船長との交渉にはクロが当たった。「忙しいとこ悪いんだがね。ちょっと提案があるんだ」彼は船長にそう話しかけた。
「なんだい」
逃げ切れないことはすでに明らかになっている。抵抗するのも無駄と結論は出ていて、--もちろん、ただ大人しく投降するつもりはないが--、いまさらジタバタする気は彼にはなかった。
「この船に乗せてる矢をぜんぶ譲って貰えないかな」
「どうして?」
「あんたらには悪いけどよ、あんたらが使うよりカイトが使った方が無駄がないって思うからさ。
それと、ヤツラの船がこちらまで20mほどのところまで近づいたら、オレ、一度船を降りるから。
下船するの、許してくれよ、船長」
「降りる?降りて、どこへ行く?」
「ヤツラの船に飛び移るんだよ」
とクロは答えた。
近づいて来る海賊船は、多くの乗客を運ぶことを目的に建造された巡礼船とは構造からして異なっていた。帆柱も三本あり、船体も長くスリムだ。
「止まれ、止まれっ!」
海賊船の甲板に立つ男たちの叫び声が聞こえる。
「こりゃ、持って行っても無駄だな」
クロが腰の長剣を二本とも外す。
「カイト、頼むぜ」
「うん」
帆柱に登ったカイトが頷く。
「フウもな。オレ、こんなところで泳ぐのは真っ平だからな」
「任せて、クロさん」
海賊船が巡礼船に追いつき、並走する。両船の距離は20mほど。「じゃ、行くぜ」クロは甲板の端から走り出し、海賊船に向かって船縁を蹴った。フウが呪を唱え、クロの身体を風に乗せる。
海賊船の男たちは、空中を飛ぶクロの姿にあっけに取られ、叫ぶのを止めた。
ダンッとクロは海賊船の甲板に勢いよく着地し、巡礼船とは反対側の船縁まで転がって、止まった。
「あいたたた」
クロが身体を起こす。
抜き身の長剣が、クロの首筋に当てられる。海賊船の男たちが全員、巡礼船に背中を向けてクロを睨んでいる。
「なんだ、テメエ」
「判らない?」
軽い口調でクロは答えた。
「囮だよ。オレは」
クロのすぐ近くの5人が、まず死んだ。
最初の5人が死んだと気づく前に次の5人が死に、最初の5人の膝が崩れ落ちた時にはさらに5人が死んでいた。
弓で狙われている。
海賊たちがそう気づいた時には、すでに20人が死体となっていた。
逃げ出した海賊たちを、まるで彼らの動きを予め知っていたかのように矢が追った。帆柱の影に隠れる前に何人もが倒れ、仲間を盾にした海賊は仲間ごと射抜かれ、船縁に身を隠した海賊には、上空から大きく弧を描いて襲った矢が突き刺さった。
「はあはあ」
生き残ったのは僅かに二人。
甲板には死体が幾つも転がって、足の踏み場さえない。
「な、なんだ。……なんだ、こりゃあ!」
帆柱に隠れて叫んだ海賊を、矢が射抜く。
巡礼船の舳先に立ち、角度をつけて狙ったフウの放った矢である。
クロはよっこらせと立ち上がり、落ちていた長剣を拾って、カイトからもフウからも見えない物陰に逃げ込んだ、たった一人残った海賊に突きつけた。
海賊が目を見開いてクロを見上げる。涙を流し、ガタガタと震えている。海賊の股間が濡れているのを見ても、クロは笑わなかった。
「ま、同情するよ」
クロは長剣を突きつけたまま、巡礼船を見た。
フウが弓を下ろし、カイトが帆柱から降りてもまだ、巡礼船の乗組員は全員が呆然と立ち尽くしていた。
海賊は蹴散らされたと知らされた乗客たちの上げる歓声が、船室から聞こえた。
「どうするんだ、この海賊船」
巡礼船の甲板に戻って、クロは船長に尋ねた。海賊船は巡礼船に横づけされている。死体は矢を抜かれ、海へと放り込まれた。
「何人か船員を乗り込ませて、近くの港まで持って行く」
「こっちの航行に影響はないのか?」
「大丈夫、問題ない。それよりむしろ……」
船長が声を途切らせる。海賊船から悲鳴が響いたのである。
「なんだ、どうした!」
ひとりの船員が転がるように海賊船の船室から駆け出してきた。激しく息を乱し、恐怖を顔にべったりと張り付かせている。海賊船に襲われた時よりも取り乱している。
「せ、せん、せんちょ」
震える指を、今、自分が駆け出してきた船室の入り口に向けている。
「やあ。なんとか助かったか」
陽気な声が響く。男の声だ。涼やかな声だった。
「……ッ!」
船室からにこやかに笑って姿を現した男を見て、船長も絶句した。
ばらりと肩に落とした長い髪がまず、クロの目を引いた。頭が小さく、細い唇には紫色の紅を塗っている。
歳は50代だろう。
片足が不自由らしく、杖をついている。
大柄な男ではあったが、動作のひとつひとつに妙な色気がある。
クロは顔をしかめた。
男の琥珀色の瞳に漂う気配が気に入らなかった。瞳に笑いがある。自分を含めたすべてを嗤っている。そう感じた。
「誰だ、あれ」
「……沈めときゃ良かった。船ごと」
船長がぼそりと呟く。
「だから、誰なんだよ」
「キャナの貴族だ」
「え?」
「クスルクスル王国に亡命してるがな。なんでこんなとこにいる」
船長の背後で船員たちも息を呑んでいる。「船長」と暢気な声が響く。何か用事があったのだろう、甲板に姿を現した給仕係の美少年が、異様な雰囲気に気づいて船長たちの視線を追い、悲鳴を上げた。
「ロ、ロード様……!」
がたがたと震えてぺたりと尻もちをつく。
「おいおい」
「ターシャ・オン・ロード伯爵」
船長が低く抑えた声で説明する。
「惑乱の君の……、信徒だ」