16-6(海都クスルへ6(船上での騒動))
翌朝、「大丈夫だったか、お前ら」と訊いたクロに、「うん」とフウは屈託なく笑って頷いた。一方カイトはというと、暗い顔をして返事すらしない。
「おや、犬っころ。機嫌が良さそうだね」
上機嫌でムラドが現れたのも引っ掛かったが、ま、気にしてもしょうがねぇか、とクロは朝食に戻った。
カイトたちが乗り込んだ巡礼船の案内文には、「トイレ水洗、三食付き、十分なプライベートスペースを確保!」と記してあった。
「水洗ねぇ」
何のことはない、海へ流すだけである。
「三食付き……」
量が少なく、精進料理に近い。
「十分なプライベートスペースって、これ?」
雑魚寝で一人当たり毛布一枚分のスペースしかなかった。
「ま、巡礼船だ。仕方ねぇか」と言っていたクロが激怒したのは、最初の昼食の時である。
「おーい。酒。酒、頼むわ」
給仕係の美少年が困った顔をする。
「お客様。お酒はありません」
申し訳なさそうに言う。
「え」
「この船は巡礼船です。お酒は積んでいません」
「だって、おい、巡礼ったって半分は観光旅行みたいなモンだろ?酒を積んでないって、そんなことある訳……」
「どうかなさいましたか、お客様」
美少年に代わって現れた給仕長は、クロの話を聞いて、楽しそうに「ご冗談がお上手ですねぇ、お客様」と笑った。
「巡礼の間は禁酒、というのがこのツアーの最大のウリですよ」
それでもぎゃあぎゃあ文句を言うクロに、「クロ。もう止めて」とカイトが宥めたが収まらず、最後は背は低いが目つきの鋭い、威圧感の塊のような船長が出てきた。
「あんまりわがままを言うと、海、放り込みますぜ。お客さん」
「カイト」
船長が立ち去った後、クロはカイトにほとんど泣き顔で縋った。
「お前、狂泉様の信徒だろう?狂泉様は酒神だろう?頼むよ。狂泉様の信徒は、毎食酒を呑む義務があるって、アイツらに言ってくれよお」
「言える訳ない。そんなこと」
「母さまに破門されたの。今ほど悔しく思ったことないわ」とフウが呟き、カイトは匙ならぬフォークを投げた。
「ない、ない!」
と乗客の一人が騒ぎ出したのは、翌早朝、朝食の前である。
「財布がない!」
「なんだって!」
別の乗客も騒ぎに加わり、「オレのもない!」と叫ぶ。巡礼たちの間に不安げなざわめきが広がっていくのを聞きながら、「あの二人だけだな」とクロが囁き、カイトとフウは頷いた。
ここからの展開は、すでに想像がついている。
やがて船員が現れ、改めて確認するとほとんどの乗客の荷物から財布が消えていた。
「アイツらじゃねぇのか!」
最初に騒ぎ始めた乗客が、カイトたちを指さして叫ぶ。
「はぁ?」
クロはクロでわざとらしく応じた。
「何を言ってやがる。知らねぇぞ、財布なんか」
「だったらお前らの荷物を調べさせろ!」
これは2番目に騒ぎ出した男である。
「ああ、いいぜ。だけど、あんたらに調べさせたんじゃあ、公平じゃねぇよな。船長さん、あんたが調べてくれ」
「ああ。いいだろう」
威圧感の塊のような船長が船員に命じ、カイトとフウ、クロの荷物を調べる。3人に割り当てられた毛布も調べ、パタパタと服も調べるが何も出ない。
クロが見ていると、そんなバカなという顔をしているのは、やはり最初に騒ぎ出した二人だけである。
「あなたたちの方が怪しいわ」
クロがこっそり合図をし、手筈通りフウが男たちを糾弾する。
「あたしたちに罪を擦り付けようとしてるんじゃないの!あなたたちの荷物も調べさせて!」
「あ、ああ。調べてみろよ、その代わり、何も出なかったら覚えてやがれ!」
何も出ない訳がないのである。
昨夜、男たちがごそごそ財布を盗って回っているのを、カイトやクロが気がつかない筈がなかった。
男の一人がカネを抜き取った後、クロの荷物に隠した財布は、フウが男たちの荷物へと戻しておいた。フウが彼らの荷物に財布を入れている間、男たちはいびきをかいて起きる気配はまるでなかった。
「船長、これ」
男たちの荷物から、船員が空の財布を取り出し船長に渡す。
「そ、そんな馬鹿な」
一人が呆然と呟き、もうひとりはあんぐりと口を開けて声さえ出せない。
「おいおい」
クロが肩を竦める。これ以上、何かを言うつもりはない。余計なことを言うのは逆効果だと思っている。
が、男の一人が「お前らが財布を入れたんだろう!」と叫び、船長もふむと考え込み、「あり得るな」と言ったのは、想定外だった。
「だ、だろう!怪しいだろう、ソイツら!」
まぁ確かに。客観的に見りゃあ、怪しいよな、オレら。
それに、財布を入れたのもホントだし。
と、成り行きを見守りながらクロは思った。
ただ、男たちを見る船長の目つき。なんだかすべて判ってる気がするんだけどなあ。とも思う。
「きょ、狂泉様の森人のようなカッコウをしてるが、偽物じゃねえのか!」
「おお、こんなところに狂泉様の森人がいる訳がねぇ!てめぇら、洲国のスパイだろ!」
船長は黙っている。
「狂泉様の森人だって、証明できたらどうするの?」
男たちに訊いたのはフウである。
「好きにすればいいさ!証明できるならな!」
「いいだろう」
男の言葉を待っていたかのように、船長が口を開く。
「お言葉に甘えて、好きにさせて貰おう」
あ。コイツ、最初からそのつもりだったな。と、クロは察した。
「それで、どう証明する?お嬢さん」
船長の問いに、「狂泉様の森人の弓の腕を、見せてあげるわ」とフウは答えた。
甲板に出て、フウはリンゴを頭に乗せた。揺れる船の上である。リンゴは片手で支えている。それをカイトに射抜かせようというのである。
たまに船が大きく揺れて、クロは『大丈夫か、ホントに』と少し不安になった。
カイトは、と視線を回すと、いつになく緊張しているように見えた。いや、見えただけでなく、クロの耳には、どきどきと早鐘のように鳴るカイトの心臓の音さえ聞こえた。
「どうしたんだよ。カイト」
「……怖い」
「はぁ?お前が?」
「うん」
クロはカイトの顔色を窺い、船の上だから怖いって言ってるんじゃねぇな、と思った。多分、リンゴを持っているのがフウだからだ。
「おいおい、早くやれよ!」
盗人一号が叫ぶ。
「今更、怖気づいたか!」
盗人二号も迎合する。
「ちょっと待ってもらっていいかしら?」
にこりとフウが笑いかけた相手は盗人たちではなく、船長である。盗人一号も二号も無視だ。
「ああ。こっちは急がないよ。お嬢さん」
「ありがとう」
フウがカイトに歩み寄る。
「怖いの?カイト」
「うん」
素直にカイトが頷く。
「何が怖いの」
「それは、フウを、……」
こんなの初めてだ。と思う。失敗するのが怖い。もし失敗したらフウを殺してしまう。そんなの嫌だ。と思う。
カイトの気持ちを察したかのように、フウが微笑む。
「大丈夫」
「え?」
「カイトならやれるよ」
それだけを言って、フウはカイトから離れた。大丈夫。フウの言葉がカイトの胸に染み込んでいく。
『これ、なに?』
カイトの胸が温かくなり、不安が嘘のように消えていく。
フウが元の場所に戻り、リンゴを頭に載せ、カイトに頷いて見せる。
カイトも声もなく頷き返し、弓を構えた。
波に大きく船が揺れ、カイトはビュッと矢を放った。