1-5(狂泉の森の少女5)
カイトが酔林国に行くと聞いて、巫女である老女はフンッと鼻を鳴らして「好きにすればよい」とだけ言った。
激怒したのは、いつもはカイトの味方である伯母である。
伯母はカイトを呼びつけ、懇々と女はどう生きるべきか説いた。一族を離れるのは男の方で、幾らあなたの弓の腕が優れていると言っても、一族から出るべきではない、一族に残って、子を産み育てるべきだと。
「でも、伯母さま。わたし行きたいの。行かないといけないと思うの。このまま行かなかったら、きっと一生後悔すると思うの」と、カイトに両手を握られて懇願されると、元々カイトに甘い伯母は折れた。
「必ず帰って来てね。それだけ約束して」伯母に強く抱きしめられてそう言われ、カイトは「約束する」と頷いた。
「馬鹿カイト」
カイトに棘のある言葉を投げかけたのはフォンである。
「酔林国に行くって本当か?」
「行くけど、それがあんたに何か関係ある?」
フォンの口調に刺激されて、棘だらけの声でカイトも応じた。
「ないね、何にも。お前の好きにすればいいさ、馬鹿カイト。酔林国に行ってそのまま暮らすなり、そのまま狂泉様の森から出るなり、好きにすればいいさ」
「好きにするわよ。あほフォン」
大人になったって、見直していたのに--と、不機嫌にカイトはフォンと別れた。
旅に出る前に、10日ほど、家族三人で森に入った。
イノシシを仕留め、クル一族とは別の集落まで運んで、売った。カタイは、旅をするなら必要になることもあるだろうからと、イノシシを売った分に蓄えていた分を幾らか足して、カイトに持たせてくれた。
彼ら狂泉の民は貨幣経済とは遠いところにいる。
彼らが使っている貨幣にしても、森の外の国々で鋳造されたものの流用だ。
貨幣の価値についても適当と言ってよく、イノシシを売った際にも、カタイの知り合いである買い手の猟師はまず、
「イノシシだったら、矢、10本分、といったところか。だったらこれでいいか?」
と言ってカタイの手に使い古した銅貨を1枚置いた。
だが、イノシシを売る理由を訊かれたカタイが「カイトが酔林国に行くって言うから、少し持たせてやりたくてな」と答えると、「だったら話が違う」とカタイの手にさらに銅貨を4枚追加して「これで矢、10本分だ」と言った。
貨幣にどの程度の価値を持たせるかは、その時次第なのである。
結局カイトは革ノ月から戻った2ヶ月後に、集落を後にした。
カタイとサヤは集落の外れで、カイトをいつまでも見送ってくれた。点のように小さくなった両親にカイトは大きく手を振り、カタイが軽く手を上げ、サヤが伸び上がるようにして手を振り返すのが見えた。
それが、カイトと両親の永遠の別れとなった。
西へと向かう前に、カイトは集落から少し離れた森の中に踏み込み、足を止めた。何の特徴もない深い森だ。
一本の木の前に佇み、視線を回す。
4年前に見た茂みは、今や森に飲み込まれてまったく判らない。カイトと同い年の少女が潜んでいた茂みだ。
少女はその茂みの中から、カイトが母親を殺すのを見たはずだった。
「……」
どれぐらいそうしていただろう。
遠くで響いた鳥の声に促されるようにカイトは視線を逸らし、後ろを振り返ることなく西に向かう道へと戻った。