第5話
見つけ出した亜子を連れて、ここに入ってきた扉へと向かう一秋と楓。
今もなお怪物は現れることがなく、暗闇の静けさは保っている。
――このまま何事もなく出られるのではないか。そんな希望が出てきていた。
「一秋くん、手を握って」
「……ああ」
「えへへ、一秋くん大好き」
「…………」
ちなみに亜子は相変わらずこんな様子である。一秋も楓も辟易としていた。
しかし二人とも顔には出さなかった。というより、そんな余裕がない。
一刻も早くこの状況を打開したい。今の二人はそれだけしか考えてなかったからだ。
そうこうしている内に忌まわしく感じる、あの病院と現界を繋ぐ扉の元に到着した。
「ここでいいのよね」
「おそらくそうだ。脱出するぞ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!」
何一つ迷いなく扉に手をかけた一秋を、慌てて止めようとする楓。
「せ、瀬川くんはどうするのよ? いくら何でも放置していくのは――」
「あいつは人のことを一回見捨てたんだ。こうしてもお釣りが帰ってくるぐらいろ」
「一秋くんを見捨てたあいつなんて、死んじゃえばいいんだよ」
「二人がそう思う気持ちはわかるんだけど……」
一秋だって、彼女の言い分がわからないわけではない。
しかし、自分や二人に危険が迫っている以上、あんな奴の探索に時間を割くことはできない。そう考えた一秋は、楓の言葉を無視する形で扉に再び力を入れようとした。
「おい、待てよ」
その時だった。三人の後ろから聞き慣れた野太い声が聞こえてくる。
――噂をすれば何とやら、か。
一秋が鬱陶しそうに振り返ると、やはり階段の上から三人を睨む拓哉がいた。
「あ、お前も生きてたんだな。まあ当然か、俺を犠牲にしたんだからな」
精一杯の皮肉を込めて、一秋が言葉をぶつける。
謝罪の言葉もなく無愛想でこちらを見下ろす拓哉に、一秋は苛立っていた。
しかし、まったく気にする態度を見せない拓哉。表情を変えないまま口を開き始めた。
……何を言ってくるのやら。そう思った一秋は身構えている。
「お前ら、俺を騙していたんだな!!?」
「はぁ?」
拓哉の口から飛び出てきたのは、支離滅裂な言いがかりだった。
訳がわからないこと言ってきた拓哉に、我慢できないと詰め寄る一秋。
しかし、一秋は無意識の内にその勇み足を止めていた。
怪物に追われていた時に感じた、纏わりつくような殺気を……拓哉にも感じたからだ。
「こんな怪物だらけの病院に俺が巻き込まれたのは、お前らのせいだ!」
「連れてきたも何も、この場所の情報を教えたのはお前だろうが!」
「うるせぇ!! 黙ってろよゴミ屑!! お前らの手の内はわかってんだよ!!」
「瀬川くん、何言っているのって、アキ! ……何のつもり?」
「……戻ってろ、俺がやる」
向かってきた楓を、一秋は手で制して追い返す。今のあいつは危険だ。
話の統合性は失っているし、言動も意味不明なほどに攻撃的だ。
何か被害妄想のようなもので頭がおかしくなっている状態だと、一秋には見えた。
「逃げてる時に頭でも打ったか? 今のお前、おかしくなってるぞ!」
「嘘だ、お前らがおかしいんだ!! 俺はまともだ、正しいんだ!!」
「……話が通じねぇ。さっきまでのお前もそうだったけど、それが更に悪化してやがる」
怒りや呆れといった言葉では言い表せない、拓哉への感情。
それが現れたのか。どこか達観したような表情で拓哉の言葉を受け流していた。
そんな態度が気に食わなかったのか、拓哉はずっと無愛想だった表情を急に歪ませる。
「そんなに理解できないなら――お前らを殺して、俺の正当性を証明してやる!!!」
狂気を含んだ目をギラギラと光らせながら、拓哉が手に持ったのは鉄パイプだった。
……あんなもので殴られたらどうなるか。考えるまでもない。
「もうダメだあいつは! みんな、逃げるぞ!」
そう叫んだ途端に、女子二人は重い扉を強引に開けると逃げ出した。
一秋はそれに続き、外に出て扉を閉めると、自分の全身を使って動かないようにした。
『おい、ここを開けろ! 聞こえなかったのか、開けろ!!』
「今のお前を外に出せるかよっ!!」
この状況はどういうことなのか。
一秋には理解が追いついていない。しかし、今の拓哉が危険だということはわかった。
こいつを自由にさせればどうなるかなんて火を見るよりも明らかだ。
正気に戻るまでここから出す訳にはいかない。だから扉を塞ぐ。
この場から逃げ出すことも考えたが――運動神経抜群の拓哉には追いつかれる。
仮に一秋は逃げられたとしても、女性である楓と亜子は厳しい。彼女たちが逃げる時間を稼ぐためにも、この場を離れることはしないと一秋は心に決めたのだ。
「とりあえず落ち着けって! 見捨てたのは謝るからさ!!」
『ふざけんな、ふざけんなよ!! 開けろ、ゴミ野郎ども、開けろぉ!!!』
案の定、拓哉は持っている鉄パイプと、体当たりをして扉を壊そうとしてくる。
感情に身を任せた粗い攻撃だからか突破されることはなかったものの、火事場の馬鹿力というべきか、物凄いパワーでこちらに迫ってきていた。
おそらくこの状況で対話は無理だろう。そう確信した一秋は負けじと力を強めた。
『……殺す! 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す!!』
憎悪が込められた言葉と同時に、強くなっていく一撃。
それが放たれる度に、扉は大きく揺れて、一秋の体は悲鳴を上げていく。
そして、ついに体が限界を迎えて、あと一歩で突破されかけようとした――その時。
『うわっ!! いつの間に、何でこんなにいるんだよ!! おかしいだろって!!!』
突如扉の向こう側から、拓哉の恐怖に満ちた声が飛び出してくる。
それを一秋は呆然した状態で聞いていた。もちろん扉を支える力は緩めなかった。
『おいっ! 開けろ、開けろ、開けろ、開けろぉぉぉっ!!! ――ぎゃあああああっっっ』
まるで耳を劈くかのような拓哉の叫び。
それが聞こえた直後、今まで扉を壊そうとしていた力は、まるで嘘だったように消えた。
そして、訪れた静寂に響く一人分の足跡。――拓哉を襲った怪物の物だろうか。
……そういえば怪物の足跡を聞いたのは初めてだったな。
場にそぐわない、呑気な感想を抱きながら、一秋は力尽きて後ろへ倒れた。
「アキ!!」
「……何で、逃げてないんだよ」
「そんなことできるわけないでしょ、馬鹿」
「一秋くんが死んじゃったら、私は死んじゃうよ」
倒れた一秋の元に、二人の少女が駆け寄った。
二人とも安心と恐怖心が入り混じった表情で、一秋の顔を覗き込んでいる。
それを受けて、一秋は心配させないように素早く立ち上がった。
「瀬川くん……どうなっちゃったんだろ」
おそらく三人が思っていた気持ちを、楓が風で消え去りそうな声で呟く。
あの時、拓哉は怪物に殺されたのか。はたまた別の結末を迎えているのか。
だが再び病院内に入って探しに行こうなんて真似は、誰も考えなかっただろう。
少なくとも、一秋は肉体的、精神的に限界を迎えていた。そんな気力は欠片も残っていない。
「あいつなら……戻ってこれるはずだ」
「根拠は?」
「ない! ないけど……。と、とりあえず今は帰ろう! なっ?」
「……そうね」
気持ちを強引に切り替える。……そうしないと、自分たちまでおかしくなる。
ゆっくりと一秋たちは病院を後にする。その後の帰路は三人とも黙ったまま歩いていた。
森の中の、名前の知れない鳥の囀りだけが一秋の耳に入っていた……。