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第3話

「はぁ……、はぁ……、はぁ……。……はぁ」


 荒くか細い息が、静寂が満ちている闇の空間に響く。

 逃げてきた一秋は、病院の地下にあった部屋の隅で体を休めていた。


「はぁ……何処だよ、ここ」


 息が落ち着いた一秋は吐き出すかのように言葉を紡いだ。

 無我夢中で走っていたからか、一秋に逃げている時の記憶はなかった。

 ぼんやりと覚えているのは一階で待ち伏せしていた化け物の姿と、2階に逃げた二人と――自分を犠牲にして一人だけ逃げた拓哉のことだった。

 

「くそっ、あのクズ野郎……!」


 思い出すとなおさら腹立たしい。これほど性根が腐った人間とは思わなかった。

 怒りが心の奥底から煮えたぎってくる。今度会ったら復讐してやる。一秋はそう思った。

 ――だが、ここで怒りに飲まれていてもしょうがない。

 ここから脱出しないと怪物の餌食だ。それだけは何としても避けたかった。


「やるしかないよな……。あの二人を見つけて、脱出か」


 絶対に生きて帰ってみせる。自らの闘志を奮い立たせるために一秋は呟く。

 これから自分が逃げることに加えて、楓と亜子を探し出さなければならないからだ。

 拓哉は怪物に殺されてもどうでもよかったが、あの二人は違う。

 まだこの病院にいるなら助ける必要があるし、すでに逃げ出していたとしても確認を取るべきだと一秋は考えたのだ。


(スマホは……圏外かよ。肝心なときに何で使えないんだ……!)


 しかし、電話による連絡は取れないようだ。ならば直接行く必要がある。

 逃げる際に消していた懐中電灯を点けて、覚悟を決めて、辺りを見渡した。


(ここは牢屋か? 何で病院の地下にこんなものがあるんだよ)


 見えてきたのは、刑務所に出てくるような牢屋。

 まるで昭和を舞台にしたドラマを思い出させるくらい古臭いものだった。

 それに想像を絶するほど汚れている。衛生環境は病院内でも群を抜く劣悪さだ。

 気持ち悪さを感じながらも、一秋はなるべく足音を立てずに進んでいく。


(……ん? あれ、何だ……?)


 そんな時、一秋は牢屋に何か変なものがいることに気づいた。

 気になって目を凝らしてよく見てみる。すると、その空間には


 ――骨と皮しかないほど痩せこけた女性のようなものが、座り込んでいた。

 

 暗がりで細部は見えなかったが、それが人型であることは一秋にもわかった。

 少なくとも何かの見間違いではない。確信できるぐらいには明確に存在していた。


『ミズ……イ……ダケ……イカラ……タ……クレ』


 不思議に思って詳しく見ようと立ち止まった一秋の耳に、異様な声が聞こえてくる。

 殺気を帯びたものではなかったが――代わりに心を打つような悲痛さがあった。

 まるで心臓の外側を刃物で少しずつ削られている人間が出すような、そんな声だった。


「っ!!」


 あまりの不愉快な声に、耐えきれなくなった一秋は耳を塞ぐ。

 ……それでも聞こえてくる。それどころか、塞いでも大きさは変わらなかった。


(何だよ、これ……! ふざけてんのか!?)


 神経を蝕んでいくような、正体不明の声。

 理解不能な恐怖と何も対処ができない焦燥感から、一秋は思わず走り出していた。

 転んでしまう危険性や怪物に気づかれる心配はあったが、今の一秋にはそれを気にする余裕なんてなかったのだ。

 ――ここから逃げ出したい。そんな怪異に対する焦りと恐れが支配していた。




 牢屋のある部屋を出た途端に声は聞こえなくなった。

 安堵した一秋は息をついて、壁にぐったりともたれかかる。

 気を取り直して階段を探そうか。息を整え終えた一秋は探索を開始しようとした。


「――アキ!」


 その直後に突然の声。しかし、一秋は敵対心を抱くことはなかった。

 何故なら――それは最も聞き慣れたもので、最も聞きたかったものだったから。


「楓……楓なのか?」

「良かった……無事で。心配したんだから」


 その声が聞こえた方向には、一秋が思った通り楓の姿があった。

 普段のような元気はなく、目には涙を浮かべて再開を喜ぶかのように微笑んでいる。


「こっちこそ心配したぞ! というか、何で地下に?」

「あんたを探すために戻ってきたの。……他にも理由があるけど」

「お前な……」


 無茶で無鉄砲な楓の行動に、一秋は思わず苦笑いを浮かべる。

 しかし助けが来たこと、楓と会えたことは手放しで喜べるものだった。

 不安が広がっていた今までと打って変わって安心感が増す。同時に疑問が頭をよぎった。


「そういえば……亜子はどうした?」

「えっと、あの娘は――」


 苦虫を噛み潰したような顔をした後に、楓は口を開き始めた。


「み、見失ってしまったの……ごめん」

「えっ? 何でだよ!?」

「せ、瀬川くんに会ったのよ! そしたら瀬川くんが『あいつは死んだ』って」

「あの野郎……」


 人を犠牲にした挙げ句、勝手に死んだことにしていたらしい。

 どこまでも愚かな奴だ、そう一秋は心の中で吐き捨てた。

 しかし亜子を見失ったことと何が関係しているのか。そう問いかける前に楓が答えた。


「それを聞いた亜子ちゃんが半狂乱になって、何処かに行ってしまって」

「マジかよ……!」

「もしかしたらアキが逃げた地下だと思って来たんだけど……いないみたい」


 どうやら――瀬川拓哉という奴は災いしか持ってこないらしい。

 連れてくるんじゃなかったな。数日前の自分を殴りたい気分に駆られた。

 しかし、後悔している暇は一秋になかった。

 極限まで怖がりな亜子のことだから、自分で逃げ出す冷静さがあるとは思えない。

 おそらくどこかに隠れているんだろうけど、怪物に見つかるのは時間の問題だろう。


「とりあえず、だ。亜子を探しに行こう。……お前まではぐれるなよ?」

「ええ、もちろんそのつもりよ! ……はぐれないわよ!」


 結局のところ楓には出会えたが、やるべきことは変わらないらしい。

 しかし今度は二人での捜索だ。できることも、頼れることも違ってくる。

 前より随分と気楽になった一秋は、今度は楓と一緒に探索を再開した。

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