あかね色の空の向こう
穏やかな休日の午後。
母と子の二人暮し。
決してお金持ちの家では無いが、それでも二人は幸せだった。
女手ひとつで育てているため、休日くらいしか側に居てやれない。
そんな心苦しい親の思いを知ることもなく、男の子は無邪気にも笑顔を向ける。
「"ふろうふし"って、なぁに?」
手に持った絵本を指差しながら、子供は尋ねる。
まだ年の頃4つといったところか。
絵本のタイトルはかぐや姫。
膝の上にいる子供に向かって優しく語り掛ける母親。
「不老不死っていうのはね、歳を取ることもしないし、死ぬこともしない人の事を言うのよ」
「ふーん」
子供は分かったような分からないような、曖昧な返事をした。
詳しく説明したところで、幼児には理解することは出来ないだろう。
"死ぬ"事がどういうことなのかも、定かではないのかもしれない。
それでも子供なりに分かったようではあった。
「しなないってことは、ずっとげんきってこと?」
「うーん・・・。そうね」
少し悩んで、適当に子供に合わせてみた。
実際のところ、不老不死になった人なんて見たことも聞いたこともないのだ。
「じゃあデンちゃんもゲンキになるかな?」
「そうね・・・、元気になるといいわね」
母親は苦笑いのような笑みしか向けられなかった。
デンちゃんとは彼が飼っているデメキンの事である。
近頃では身体に斑点が現れ、腹を水面に向けて浮かんでいる。
いつものように水槽で動き回らないので、彼なりに心配していた。
「じゃあじゃあ」
「ん?」
「ふろうふしになって、おかあさんにぼくのげんきをわけてあげるっ」
母親は優しく微笑んだ。
彼が覚えている母親の笑顔は、それが最後となる。
それから数日経ったある日、母親は倒れた。
後で知る事になるが、クモ膜下出血だった。
救急隊員に運び込まれた車内で何度も母親を呼ぶ。
「おかあさん!おかあさん!」
危険な状態だから触れないでと注意を受けるが、構わず母親にしがみつく。
心電図の音がやけに耳につく。
見かねた救急隊員から引き離され、それでもなお腕を伸ばす。
「ぼくおいしゃさんになる!ぜったいおかあさんをなおすから!」
そう叫んだ。
そう誓った。
だから死なないでと願った。
何でもすると。
わがままも言わないと。
涙も鼻水も垂れてくるのさえ構わなかった。
母親が治るのなら。
その日は、雨のよく降る日だった。
国立病院のICU。
交通事故で怪我を負った患者が運ばれてきた。
今はちょうど患者に処置を済ませたところだった。
「先生、お疲れ様でした」
「あぁ・・・。だがまたすぐに容態が急変する可能性がある。注意して看てやってくれ」
「はい」
「私はこれから用があるので少し出てくる。何かあったら携帯に。後は頼んだよ」
そう言い残してドクターはICUを出た。
廊下へ出るとすぐに手術帽を取る。
やや白髪の混じった髪の毛に、疲労からか痩せた頬が覗く。
無精ひげを剃る暇もないのだろう。
実際は30代後半なのだが、50歳くらいに老けて見える。
部屋に戻ると、外出用の服に着替えるためクローゼットを開けた。
茶色のコートを羽織る。
彼はふと視線を止めた。
クローゼットの戸の内側、そこには写真が貼り付けてある。
そこに写っていたのは、小さな男の子と中年の女性。
人差し指を弾くように写真を叩くと、男は部屋を後にした。
「もう25年か・・・」
それから2時間くらい経った頃。
無精ひげの男は、共同墓地と石碑の立つ駐車場で車を止めた。
手にはスミレの花束を抱えて。
見渡す限り、いくつもの墓石が並ぶ。
この共同墓地は、一面の墓石が無ければ広い公園のような場所になっている。
そのうちの一つの前で足を止めた。
「母さん、あれからもう25年です」
そっと花束を墓石の前へ置く。
彼女の好きだった花。
スミレの花言葉は謙遜、誠実、小さな幸せ。
貧しい家ではあった。
けれど、玄関には必ずスミレの花が一輪活けてあった。
彼の脳裏に焼きついて離れないのは、あの雨の日のこと。
あの日、手術には成功した。
1時間遅かったら手遅れだっただろうと言われた事も覚えている。
奇跡的に一命は取り留めたものの、何日過ぎても彼女は目を覚ますことは無かった。
植物状態だと告げられ、幼い彼は延命を希望。
それから10年間。
彼女は管に繋がれ生き続けたが、その瞼が再び開く事は無かった。
「医者になってからというもの、不老不死の手がかりも探したりしました。笑ってしまいますよね」
やせ細った頬が苦笑いを浮かべる。
笑うとえくぼが出来るが、そのせいか少しだけ少年のような顔になった。
「あなたともう一度会いたかった。けれどそんなものは存在しなかった。・・・きっとそれでよかった」
言いながら母親の墓を撫でる。
自分の腰より低い位置にあるため、芝に膝を突く態勢となった。
感慨深げに目を細め、彼は続けた。
「約束どおり、医者になり、沢山の命を診てきました。その全てを助ける事は、私には出来なかった」
奥歯を噛み、地面についた左手の拳が小刻みに震える。
幾秒かの間が流れる。
男は墓石から視線を逸らすことは無かった。
今の思いを振り切るように、目を閉じて深呼吸をした。
「けれど私は、僕はお母さんのような命を救いたい。その想いはまだ枯れていないようです」
再び、しっかりと母の墓石を見つめる。
フラットな石には、彼女の名前が刻んである。
男は最後にもう一言だけ告げた。
「また、来ます。・・・・親孝行出来なくてごめんなさい」
そう言ったつもりだったが、溢れる涙と震える声のせいで言葉になりえなかった。
彼女に目礼をし、空を仰ぐ。
夕焼けは鮮やかなオレンジ。
空から見る風景は、さぞ秀麗なことだろう。
その雲の向こう側に、彼女が居る事を信じていた。
男が立ち去った後の墓地は、静寂だけを映し出している。
西よりの風がそよぐ。
夕刻の穏やかな風は、優しくスミレを愛でた。
その小さな花は、何度か頷いたようにも見えた。