狭間堂ー透明人間ー
さらっと読める短編になります。
非常に楽しく書けたものなので、読んでくれる方にも楽しんでもらえると幸いです。
狭間堂—透明人間—
「お前は何度言ったらわかるんだ! こんな簡単なこともできないなんて。入社して一体なん年になる。こんなミスは入社三ヶ月の新人だってやらんぞ。だいたいにしてだな、お前は遅刻しすぎだ。クライアントをどれだけ待たせたら気が済むんだ。社会人たるもの十分前行動が基本だろうが。お前のような奴は三十分前でもいいくらいだ。本来ならばお前が先に行ってクライアントを待つのが常識だ。それを待たせるわ約束は破るわ、お前の頭の中が一回見て見たいわ。お前のような人間が会社にいるだけで会社全体に損害が生じる。いや、社会全体に損害が生じるわ!」
俺は目の前で怒鳴り続けている課長のカツラを、今この場で毟り取って、バスケットボールのように放ったらどれだけ爽快だろうかと考えていた。
「聞いているのか?」
「はい。すみませんでした」
できるだけ感情を殺した抑揚のない声で応える。
「もういい。俺に謝っても仕方がないだろう。今すぐにクライアントの所に行って謝って来い。それが終わったら社に戻って報告書と始末書を書くんだ」
そう言うと課長は、もう俺と話すことはないと言わんばかりのむっつりとした表情で、机の上の書類を読み始めた。
俺の真正面を向いた課長の頭部は、不自然さを通り越して帽子と言っても過言でない違和感を醸し出している。
「おい! 何をぼさっと突っ立っている。さっさと行ってこい!」
課長は書類から顔を上げると俺に向かって怒鳴る。俺は課長の怒号に追い立てられるように会社を出た。
「くそっ。なんだよあのカツラ課長の野郎。俺がいるだけで社会に損害が出るだと? お前のカツラが気になって仕事に集中できないんだよ。アデランスにでも行きやがれ!」
会社を出るなり、俺は腹に溜め込んでいた毒を吐き散らした。周りを歩く人達が何事かと振り返るが、俺の毒は止まらなかった。
「そもそもにして誰も気づいてないとでも思ってるのかよ。食堂にセルフワカメ持ち込んでんじゃねえよ。そんなので死んだ毛根が復活するかっての」
「おい!」
「それに……」
「おいてめえ」
不意に強い力で肩を掴まれ、俺の体はあらぬ方向に回転する。ふらつきながら引っ張られた方を見ると、人相の悪い男が俺を睨んでいた。不意に湧いた暴力の兆候に身がすくむ。
「俺のこと言ってんのか」
男が何を言っているのかが咄嗟には理解できなかった。だが、先ほどまで俺が口から垂れ流していた毒のことに思い至り、視線が自然と男の頭に向かう。
そこにはくっきりとした、不自然な「境目」があった。だがそれを確認した次の瞬間、「何見てんだよ!」と言う怒号と共に、鼻の奥に激しい痛みを感じて、俺はその場に倒れて気を失ってしまった。
「……もし。もしもし。大丈夫かね?」
どれくらいの時間その場で倒れていたのだろうか。俺を呼ぶ声と、鼻の奥で疼く痛みとで目が覚めた。
「良かった。死んではなさそうだ」
焦点の定まらない目で見ると、いかにも好々爺といった感じの老人が、俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。老人の頭越しに、橙色に光る球体と、その周りでくるくると回っている塊が見える。あれはなんだろうか。
「ここは?」そう言いながら俺は体を起こした。辺りには得体の知れない物が溢れんばかりに置いてあり、なんとなくカビの臭いと、タンスの中に有る防虫剤のような臭いを感じた。
「ここはわたしの店ですよ。骨董品屋を営んでおります。貴方が店の前で倒れているのを見つけてね、放ってもおけんので店の中まで引き摺ったのですよ。しかし、老人にはかなりの重労働でしたよ」
俺の身長は百七十五センチ、体重は九十弱といったところか。それに比べ目の前の老人は、身長も体重も俺よりニ周りは小さい。とにかくこの体重差で俺を引き摺るのは、かなり大変だっただろうと容易に想像できる。それに加え、老人の年齢はどう見ても七十は過ぎているように思えた。
顔に刻まれたしわや、鬢の毛まで白く染まった頭髪。老人が発する独特の匂いからもそれらは感じられる。仕草にあまり老いは感じないが、それでも一つ一つの動きが緩慢で、やはりこの老人が見た目相応の年を重ねているということがわかる。
老人の苦労と好意を想い、俺は深く礼を述べた。
「礼には及びませんよ。困った時はお互い様です。しかし質の悪い族にでも絡まれたのですかな? 酷い傷ですよ。とりあえずそこに座って顔を拭きなさいな」
老人はそう言って木製の椅子に俺を促し、熱いお湯で湿らせたタオルを渡してくれる。
俺は椅子に座るとタオルを受け取った。湯気が立ち上るほどに熱いタオルを手に持つと、それだけで全身が弛緩したような感覚に陥る。
タオルは白く、卸したてのような清潔感がある。それだけに使うのが躊躇われたが、老人の優しげな目に促されて、タオルを顔に当てた。
顔をそっと拭くと、傷口に鋭い痛みが走った。しかしすぐにじんわりとした心地良い痺れが顔中に広がり、俺は生き返るような気持ちになった。
顔を拭き終わりタオルを見ると、傷口は乾いているのか、さほど血は付いていなかった。
「コーヒーでもいかがですかな?」
老人の声でタオルに落としていた視線を上げると、いつの間に淹れたのか、老人は白い磁器製のコーヒーカップを二人分持って立っていた。
カップからは白い湯気が立ち昇っていて、香ばしいコーヒーの匂いが鼻の奥をくすぐる。
「いただきます」
俺は自分の声に驚いた。実はコーヒーは苦手なのだ。
いつも会社ではコーヒーなど飲まないし、取引先でどうしてもという時は、大量の砂糖でごまかして飲むのだ。しかし手は自然と伸びて、老人からカップを受け取った俺は、そっとコーヒーに口を付けた。コーヒーはブラックだった。しかしこのコーヒーは、ブラックにも関わらず苦味の奥に仄かな甘さがあり、砂糖などなくともすんなりと飲むことができる。
暖かな液体が喉元を通って行くのがわかる。胃の辺りがほんのりと温まり、体の中から気持ちが緩んでいくのがわかる。なんて美味いコーヒーなんだ。
「ものすごく美味しいです」
コーヒーの味など少しもわからない俺だが、このコーヒーに形容する言葉はこれしかないような気がして、老人に告げる。老人は何も言わずに、嬉しくて仕方がないといった笑みを浮かべて頷いた。
コーヒーを飲み終え人心地ついたところで、改めて店内を眺める。骨董品屋というだけあって、店内には古めかしくもどこか趣きのある物がたくさん並べられていた。
戦国時代の物だろうか、厳つい鎧兜。それとは対象的に西洋の美を感じさせる甲冑。不気味な西洋風の女の顔を持つ寺の釣鐘のような置物。他にもどうやって造られたのかわからないほどに精巧にできたボトルシップなど、一見して高そうだと思える物から、何に使うのか全くわからないガラクタのような物まで、店の中は物で溢れてしまいそうだった。
会社の近くにこんな店があっただろうか。ふと会社という言葉を思い浮かべ、自分が仕事の途中だったことを思い出す。しかしあのカツラ課長のことを思い出すと、仕事のことなどどうでもよくなってしまった。
明日出社してから暴漢に襲われたと言えばいい。顔に残る傷を見せれば言い訳はできる。それに暴漢に襲われたことに間違いはないのだから。
「あの、先ほど店の前で倒れていたと言っていましたが、俺が倒れていたのはオフィス街の大通りだったのではないですか?」
あのカツラ男に殴られる直前のことを思い出した。確かあの場所は、会社を出てすぐの場所だったはずだ。記憶のどこを探しても、今自分がいるような雰囲気の店など思い当たらない。間違いなくこんな店はなかったはずだ。
「貴方を襲った暴漢は、面倒事を避けたかったのでしょうな。ビルとビルの間の狭い路地に、貴方は捨て置かれていたのですよ。そしてそのビルとビルの間の路地の、その又更に奥に進んだ突き当たりに、わたしの店はあるのです。看板も出しておりませんし、ここの店を知っているのは、極々僅かな人達のみなのですよ」
老人は俺の顔に浮かんだ疑問の色を読み取ったのか、そう付け足した。
ひしめき合うビルの間のゴミゴミとした細い路地。足元には、都会の栄養をたらふく摂って丸々と太ったドブネズミ達。確かに道行く人は、そんな処にこんな店があるとは想像だにしないだろう。
誰も知らない路地裏の骨董品屋。心の中でそのフレーズを口ずさんでみた。まだ誰も知らない何かを見付けた時や、何か大切な物を独占した時に感じるくすぐったいような不思議な快感。それが背中をざわざわと這い上がってくる。
「この店では何を売っているのですか?」
好奇心を抑えきれずに老人に訊ねた。
「この店ですかな? なんでも売っておりますよ。店の中にある物ならなんでもね」
老人は含んだような笑みを浮かべると、店の中をぐるりと見回した。老人につられて俺も店内を見回す。そんな俺を、老人は先ほどの笑みを浮かべたまままっすぐに見つめている。
この老人が浮かべる笑みの裏には何かがある。そう確信した俺は、老人の笑みの裏に隠された何かを知りたくなり、更に訊いてみる。
「例えばどんな物があるのですか?」
老人は俺の質問を聞き、少し思案げに宙空に視線を泳がせると、手元にあった赤銅色に輝く時計を手に取った。
「例えば、そうですな。これなんぞは絶対に寝坊したくない人のための目覚まし時計です。セットした時間になると、対象者が完全に起きるまでこの時計はありとあらゆる手段を講じるのです」
ありとあらゆる手段と聞いて、俺はよく漫画などで見る時計からハンマーという構図を思い出した。
「ありとあらゆる手段とは?」
「そうですな。それは使ってみてからのお楽しみと言ったところです。どうです? 試してみますかな。安くしておきますよ」
「いくらです?」
俺は買う気もないのに老人に訊いてみる。老人はにこりと笑い、「五万円でどうですかな」と言った。
通常であればボケ老人の与太話として聞き流すところだが、この店が醸し出している雰囲気は、俺にそれらの話を冗談だと言って笑い飛ばすことのできない気持ちにさせた。
例えばあれだ、さっきから俺の頭上でくるくると回り続けている得体の知れない物体。光る球体を中心に、幾つもの丸い塊が同じ軌道を執って周遊している。まるで太陽系のようだ。いや、太陽系を模したインテリアなのだろう。しかしよく雑貨屋で見かけるような、針金でつながっているちゃちなインテリアではない。その塊の一つ一つには針金はおろか、細いテグスのような糸も見えない。しかし塊達は、重力に左右されることもなく、上へ左へと周遊を続けていた。時計が五万円ならばあれは一体いくらなのだろうか。
「五万円は高いですね。それにこう見えて俺、朝には強いんですよ。その目覚まし時計は俺には必要ありませんね」
頭の中にカツラ課長の言葉が踊る。
「お前は遅刻しすぎだ」
確かにこの時計で俺が朝に強くなれば、遅刻はなくなるかも知れない。しかし、たかが目覚まし時計ごときに五万円は払えない。
「そうですか。残念だが必要ないのならば仕方がないですな」
老人は残念だという割には少しも残念ではない顔をして、時計を元の位置に戻した。
他に何か面白い物はないかと、俺は更に店内を眺める。そして机の上に置いてある小さなガラスの小瓶に目を留めた。
小瓶の表面には複雑な模様が施されており、その口には、同じように複雑な模様の施された、ガラス製の栓が突き刺さって、ピッタリと蓋がされていた。瓶の中身は無色透明の液体が入っていて、一見すると香水のようにも見える。瓶の下には天井の光などが屈折して映っているのだろう、虹色のプリズムができていた。
なぜ俺はこんなものに目を留めたのだろうか。普段であればまず興味を示さない小瓶だが、なぜかどうしても、訊かなければならないという気持ちになった。
「この瓶はなんですか?」
俺は小瓶を指して老人に訊ねた。
「それは瓶のことですかな? それとも中身のことですかな?」
老人はとぼけたように言う。もちろん中身に決まっている。
「とぼけないでくださいよ。中身に決まっているじゃないですか。それともその瓶にも何か秘密があるとでも言うのですか?」
「——この店に秘密のない物など一つもないのですよ」
そう一拍置いて答えると、老人は小瓶を手に取り笑って続けた。
「この瓶の中身はなんだと思いますかな?」
老人の目が怪しく揺らぐ。俺はそれを見て唾を飲み込んだ。
「わかりません」
俺がそれを訊いたのだ。わかるはずがない。
老人はもったいつけるように俺の顔を見つめると「この瓶の中身はね。毒なんですよ」と言った。
「毒?」
老人の柔和な表情に似つかわしくない物騒な言葉に、俺は思わず声を上げる。
「そうです毒です。この薬を飲んだ者は、透明になれるそうなんですよ。そして、飲んだ瞬間から誰にも認められず、誰からも相手にされない、そんな存在になってしまうのです。そんなの考えただけでもぞっとしますよね。だからこの薬は毒なんですよ。——まあわたしも聞いた話だし、実際にこの店に来る客も、この薬に興味は示しても試そうとする物好きはいないから、本当かどうかは知らないですがね」
老人はいたずらっぽい目をして笑うと、小瓶を机に戻した。中の液体が揺れ、机の上のプリズムが揺らぐ。
俺は小瓶を見つめて考えた。この薬を飲むと透明人間になれると言うのは本当なのだろうか。老人は毒だと言ったが、本当に透明になれるとしたら街中を裸で走り回っても誰にも見られることはないし、表の通りにある映画館に入っても金を払う必要もない。それに……。俺の頭の中に不純な思考が溢れていく。
いや待て、薬を飲んで透明になるのはいいとして、その後元に戻れるのだろうか。
「すみません。少し訊きたいのですが、その薬を飲んだ人間は透明になったままなのですか? それとも時間なり薬の効果が切れるなりすると、元に戻れるのですか?」
老人は何かを思い出すように首を傾げる。
「——どうでしょうな。ちょっと待ってくださいますかな」
老人はそう言って席を立つと、店の奥にある戸棚に向かい、ごそごそと何かを探し始めた。戸棚の上には、話に夢中で気が付かなかったが、古ぼけた木の板に『狭間堂・正刻町店』と彫られたものが掲げてある。そしてその下には、明らかにこの土地のものとは違う市街局番の電話番号が書かれてあった。
「あの、このお店は『狭間堂』というのですか?」
「んん? そうですよ。よくわかりましたな——ああ、そこに書いてありましたな」
老人はなおも戸棚の中を探りながら応える。正刻町というのは普通に考えれば住所だろう。だが、この辺りの住所に『正刻町』などとという住所は存在しない。
「その、しょうこくちょ……」
「あったあった。これだ」
老人はようやく目当ての物を見つけたのか、埃を払いながら小さな箱を手に戻って来る。
「何か言いましたかな?」
「いえ、なんでもないです。それは?」
俺は老人の手の中にある箱を見る。
箱の表面には深い青色のベルベット生地が貼られていて、大きさは一辺が二十センチくらいだろうか。丁度真ん中辺りに横一文字の切れ込みが入っていて、開閉部には真鍮だろう、黄金色に輝く留め具が付いている。留具は簡素なものだったが、小さな錠前が付いていて、どこか宝箱にも似た雰囲気があった。
「これはただの箱ですよ。その薬が入っていた箱です。この中にはね、その薬の説明書が入っているんですよ」
そう言うと老人は、ポケットから鍵束を出し、箱の錠前を外した。
老人が箱を開けると、中にはシルクのような光沢のある純白の生地が貼られていて、丁度小瓶が入りそうな空間があった。そして箱の蓋の裏部分には、生地にスリットが入って、ポケットのようになっている。老人はそこから古ぼけて黄ばんだ一枚の紙を取り出した。
老人は老眼鏡をかけると、丁寧に紙を広げていく。紙はパリパリと乾燥した音を立てて、今にも破れてしまいそうだった。そして紙を広げ終えると、老人は書いてある文字に指を這わせる。そこに書いてあった文字は、日本語ではないどこか異国の文字のようだった。
「——ああ、ここですな。『この薬を飲んで二十四時間は透明になることができる。しかし、二十四時間が経つと薬の効果が切れてしまうので、速やかに元いた場所に戻り強く元に戻りたいと念ずること』と書いてありますな」
老人は文字を指し言うが、俺には何を書いてあるのか、さっぱりわからなかった。
「その文字は何語なんですか? 見たところ英語でもないようだし」
老人は老眼鏡をかけたまま伺うように俺を見て答える。
「この文字はですな、ある忘れ去られた国が使っていた文字なのです。そしてこの薬は、昔その国にいた錬金術士が作った薬だと書いてありますな」
錬金術士とはまた胡散臭い。それに忘れ去られた国とはなんだ。そんな話は聞いたこともない。ネットで噂にでもなった都市伝説の類なのだろうか。しかしネットの噂話をここまで本格的に仕込む理由はない。それにこの老人が、パソコンの前に座って怪しげな掲示板を見ているところなど想像できない。だとするとやはり本物なのだろうか。もし本物だとしたら、それはそれで面白そうである。暇潰しにはもってこいな話だ。
俺は老人の話を話半分に聞くことにして、そのまま老人に話を合わせた。
「なるほど、では薬の効果は二十四時間で、それを過ぎると元に戻ると、そういうことなんですね。しかし、元いた場所に戻るとはどういうことなのですかね」
老人は眉間にしわを寄せ紙の上に目を落とすと、書いてある文字を再び指でなぞり始める。
「——ああ、このことですかな。『この薬を飲むと透明になるのは体だけで、衣類や所持品などを持ち込むことはできません』と書いてありますな。要するに透明になっている間は裸だから、薬を飲んだ場所に戻れということなのではないですかな。でないと警察に捕まってしまいますからな」
言った後で老人は愉快そうに笑う。
なるほど。確かに薬が作用するのは体のはずだ。衣類などが透明になるはずはない。筋は通っている。この薬がもしも本当に本物ならば、凄いことなのかも知れないぞ。しかし衣類を持ち込むとはまた珍妙な比喩だ。
「どうしますかな。この薬を試してみますかな」
老人の問いに俺は少し考える。目覚まし時計で五万円。透明になれる薬なら一体いくらになるのだ。
「ちなみにおいくらですか?」
「百万円」
「百?」
俺は驚き間抜けな声を上げた。
「と言いたいところですが、もし貴方がこの場で試してくださいますのならば、無料でお譲り致しますよ。透明になるとはどういうことなのか、自分の目で見て確かめてみたいものですのでね」
老人はにこりと笑って言った。
一瞬百万と聞いてびっくりしたが、無料とはどういうことだ。百万円の商品が無料になるなんてことがあり得るのだろうか。原価が一体いくらなのか気になるところだが、無料ならば試してみたい。しかし無料より恐い物はないと昔からの決まり文句だ。俺は迷った。もしもこの薬が本物ならば、こんなに凄いことはない。だが、老人は本物かどうかがわからないとも言った。偽物ならば何も起こらない。それならば試した方がいいのか。
「本当に無料でいいのですか?」
「ええいいですよ。本物かどうかもわからないことですしね」
老人は笑顔のまま表情を崩さない。俺は老人の目の奥に何か隠されたものはないかと暫く見つめる。
「——わかりました。試してみます。でもその薬は本当は劇薬で、それを飲んだらいきなり死んでしまうなんてことはないですよね」
「それはありませんよ。私だって殺人犯になりたくはありませんからな。以前鼠に一滴飲ませてみましたが死にませんでしたよ」
老人は軽やかに言った。
「その鼠は透明になったのですか?」
「いいえ。分量が少なかったのか鼠には効かないのか原因はわかりませんが、鼠は透明にはなりませんでした」
鼠と人間が一緒とは思えないが、死なないというのは確かなのだろう。昔テレビで見た難病の特集では、人間用の薬品にも関わらず、臨床試験で鼠を使用していた。それにこの老人が、今助けたばかりの俺に嘘までついて殺す理由はないはずだ。どうせ無料なんだ。透明になったらあんなことやこんなこと。考えただけで顔がにやけてしまいそうになる。
「そうですか。それでは他にも注意点がないか見てみましょう」
老人はそう言って紙の上に視線を戻した。俺は老人がそれを読んでいる間、あらゆる妄想に耽った。
透明になったら何をしよう。まず試しに映画でも観てみるか。いや、それでは時間がもったいない。たった二十四時間しかないのだ。映画など金を払えばいつでも観られる。そうではなくて、透明でなければできないことをしなければ意味がない。
俺の思考は自然といかがわしい方向に向かう。男であれば当然だろう。こんな時の想像力の逞しさを、仕事に活かせないものかとも不意に思ってしまう。
だがもし透明になることができたならば、仕事などしなくても、金を手に入れる方法はいくらでもありそうだ。例えば、安直に考えれば盗みを働くとか、金持ちが持つ誰にも知られたくない秘密を掴み、それをネタに強請るなど色々ある。二十四時間もあればそんなネタの一つや二つ手にできるかも知れない。
あとこれだけはやっておきたい。課長のカツラを公衆の面前でむしり取ってやるのだ。大勢の衆目に晒された課長のハゲ頭を思うと、自然と顔の筋肉が緩んでいくのがわかる。
「なるほど。注意点がわかりましたよ。これから読むのでよく聞いておいてください」
老人の言葉に、俺は妄想の世界から現実の世界に呼び戻される。
「まずこの薬はさきほども言ったように、効果は二十四時間です。そしてこの薬を飲むと食欲や睡眠欲を感じなくなるようですな。それから誰かに話しかけても、相手には聞こえなくなるみたいだ。次にここは大事でしょうな。この薬を飲むと物に触れられなくなるのだそうです」
老人の言葉を聞いて、俺は愕然とした。物に触れられなくなるだと? それでは、俺が考えたことの半分は実現不可能となってしまうではないか。物に触れられなくなるということは、盗みもできないし課長のカツラをむしり取ることもできないではないか。
「あの、物に触れられないって一体どういうことですか? それに食欲と睡眠欲がなくなるって」
「その言葉の通りだと思いますよ。何も食べなくとも腹は減らないし、眠らなくとも眠くならない。それに物に触れられなくなるというのは、自分でドアを開けてこの店から出て行くこともできないし、何かを取ったり触ったり、そういうことができないと、そういうことではないですかな」
老人は何を言っているのだというような顔で言った。俺は大きな溜め息をつき肩を落とした。
「どうしますかな? やめておきますかな?」
老人は、俺の落胆した様子を見てなのか、心配そうに言った。
どうする。考えろ。物に触れられない。それは確かに痛いが、それでも透明になってできることは沢山あるはずだ。どうせ無料なんだし試して損はないはずだ。
「いえ、試してみます。薬をください」
「そうですか。では、服をお脱ぎになってください」
「服を?」
なぜ服を脱ぐのだ。透明になってから脱いでもいいではないか。そう思い老人に告げようとしたところで気がついた。物に触れられないということは、服も脱げなくなると、そういうことか。
「わかりましたかな? せめて恥ずかしくないように部屋を暗くして差し上げましょう。服が脱げたら仰言ってください。薬を渡して差し上げますよ。——おおそうだ、店の扉も開けておかなければならないね」
そう言うと老人は店の扉を開け放ち、部屋の中の照明を全て落とした。しかし、さきほどから頭の上でくるくると回り続けている太陽系のおかげで、店内はほんのりと明るい。俺は薄暗がりの中で服を全て脱ぎ去り、老人に声をかける。
「全て脱ぎました。薬をください」
「そうですか。それでは飲む前に確認しますが、後悔はしませんな?」
暗闇の中で「太陽」の光を捕らえた老人の目が怪しく光る。
「後悔なんてしませんよ」
俺は老人の声のする方に手を差し出した。掌を焔が舐めるように何かが照らす。これは何かと頭上を見ると、線香花火のようなフレアが「太陽」から立ち昇っていた。
「では二十四時間後にここに戻って来てください。貴方が透明になってしまったら、声も聞こえなくなりますから。それから五分後に扉を閉めるので、それまでに店から出て行ってくれますかな。それではこれが薬です」
老人は俺の手に薬を手渡してくれた。掌に、複雑に彫り込まれた紋様の凹凸を感じる。瓶の呑口に触れると、そこにあるはずの栓はない。老人はどうやら、瓶の栓をあらかじめ取っておいてくれたようだ。
俺は中身が零れないよう慎重に口をつけ、中の薬を一気に飲み干した。口の中に微かな苦味を感じた後、喉の辺りを焼けるような感覚が襲い、一瞬体が宙に浮くような不思議な感覚を覚え、俺の意識はあやふやになってゆく。薄れゆく意識の中で、老人の「おお……」という感激とも驚愕とも取れる声を聞いた気がした。
「おーい。おーい青年。貴方はまだここにいますかな?」
老人の声が暗い意識の向こう側から聞こえてくる。それから次第に意識は明瞭となり、辺りの様子がぼんやりと見え始めた。
「——まさか透明になるということがこういうことだったとは。いやはやびっくりしました。道理で説明書の書き方が……おっといけない五分が経つところだ。扉を閉めなくては。いいですかな、二十四時間後に必ずこの店に戻って来るんですよ」
老人は店の扉から顔を出し、外に向かって声を上げていた。そして今にも扉を閉めようとしていた。扉が閉まってはこの店から出られない。まさか二十四時間も扉が開かないということはないだろうが、それでも限られた時間を少しも無駄にはしたくない。
俺は慌てて扉へと走り出す。店内の物が邪魔で走りにくい。なぜこんなにも物が多いのだ。扉はもう半分まで閉まっていた。俺は野球のヘッドスライディングのように扉に向かって飛んだ。身体はなんとか扉をすり抜け、扉は俺の背後で音を立てて閉まった。
外はすでに暗くなっていて、この店がビルとビルの間にあるためか、外の路地は一段と暗く感じた。
店の窓を振り返ると店の中に明かりが灯るところだった。窓の向こう側で、老人が何やら思案げな表情を浮かべ、床の方を見つめている。
老人が立っている場所は丁度俺がいた辺りだが、雑多な物や机に邪魔をされて、床に何があるのかは見えなかった。きっと俺の脱ぎ捨てた服が散乱しているのだろう。
店の中の時計を見ると、夜の八時を少し回ったところだった。俺はこの店に明日の夜八時には戻って来なければならない。
それから俺は、細く暗い路地を歩き表の通りに出た。そこは間違いなく自分の会社のある通りの近くだった。後ろを振り向き路地を見ると、そこには確かに看板もなければ貼り紙もなく、誰かが捨てた空き缶やゴミが散乱しているだけだった。これではあの店に気がつく者がいなくても当然だろう。
俺は自分の体を改めて観る。体は間違いなく裸だったが、通行人を見ても、俺を見ている者は一人もいない。
街のど真ん中で全裸の男が一人立っている。普通であればすぐにでも大騒ぎとなり、警察が現れすぐさま連行されることは間違いないが、そんな様子は全くなかった。間違いなく俺は透明人間になったのだ。
次に俺は、手当り次第その辺にある物を触ろうとした。本当に物に触れることができないのかを確かめたかったのだ。だがやはり、老人の言った通り何か物体に触ろうとすると、その物体の表面に薄い透明の膜が覆っているような不思議な感触がして、どうやっても直接触ることはできなかった。それにどんなに小さな物や埃のように軽い物でも、それを動かすことはできなかった。
そこで俺はある疑問を思い浮かべる。物体に触れられないのに、どうやって俺は地球という「物」の上に立っているのか。
地面に手を付き、自分がどういう状態でこの地表にいるのかを確認する。
手で確認してすぐに答えがわかった。どうやら地表にも薄い透明の膜が覆っていて、俺はその透明の膜の上に立っているのだ。
だがそこで新たな疑問も浮上した。小さな埃でさえ動かすことができないということは、今の俺の質量はほぼ無に等しいということになる。質量がないということは、重力の干渉を受けないということだ。それなのにこうして俺は地面の上に立っている。いやそれだけではない。この地球は大気で満たされている。酸素や窒素、二酸化炭素などで構成された大気は、目に見えていないだけで間違いなく物体なのだ。俺の質量が無に等しいのであれば、その大気に翻弄されて、正に風の向くまま流されていなくてはおかしい。それなのに俺は、そんな哀れな目にも遭わずここに留まっている。
どうやらあの薬は常識的な法則や物理学を完全に無視した存在らしい。いや、透明になって誰にも見えないという時点で、最早常識的な法則など完全に崩壊しているのだが。
頭で考えてもわからないことは考えないでおこう。一つ一つ試して体でこの感覚に慣れればいい。俺はそう思い色々と試してみることにした。走ってみたり飛んでみたり何かの上に乗ってみたり。それらは全て通常通りにできて、なんら不自由することはなかった。いやむしろ体が軽いくらいに感じた。しかし中でも愉快だったのは、道端に落ちている風船の上に乗った時だった。風船は変形することも割れることもなく、本来ならば九十キロほどもある俺の体をなんの苦もなく支えたのだ。
それから老人の言ったとおり、空腹も感じなければ眠気も襲って来なかった。それに老人は言っていなかったが、どれだけ歩いてもどんなに動いても疲れを感じないし、衣類を着けていないにも関わらず、寒さを感じることもなかった。
ところで本当に俺の声が聞こえないのだろうか。そう思った俺は、街行く人々に、卑猥な声をかけてみたり罵ってみたりした。だがやはり俺の声は聞こえないのか、誰もが俺を無視していった。
《これはこれで寂しいものだな》
老人の言った毒という言葉を噛み締める。しかし……。
《これは凄いな。まるで自分の体が自分のものではないみたいだ》
誰にも聞こえないとわかっていても口にしないではいられなかった。そして俺は歩いているうちに、あることを思いついた。
会社に戻ってみよう。会社に行けば知っている奴もいるし、もしかしたら上司や金を持っている一部の上層部の人間達の、誰にも知られたくない秘密を知ることができるかも知れない。
もし上手く行けば……。想像しただけで胸の中が昂揚感で一杯になる。衝動は足を急き立て、俺は背中を押されるように会社への道を走った。
会社に着くと社内の照明はほとんど消えていた。僅かに残っていた人間も、新入社員や雑用のバイト達がほとんどで、秘密を知ったところで大した収穫は期待できない連中ばかりだった。
《ここにいても仕方がないな》
時間を少し無駄にしたことを嘆き、夜の街へと再び戻る。
これからどうするか。夜の街に出たところで物に触れられないのであればできることなど限られている。
俺はふと家に帰ろうかなどと思ったが、家に帰っても中に入れないことに思い至り、やはり夜の街を彷徨うことにした。そして他人の情事を堂々と盗み見たり、ヤクザ事務所に堂々と侵入して見たり、思い付く限りの全てをやり尽くして朝を迎えた。
「あの野郎クライアントほっぽってその上無断欠勤とは本当に舐めた野郎だ。なんであんな奴を入社させたんだ人事部の奴らは」
そして俺は今会社にいる。そして課長の目の前で、全裸のまま挑発的なポーズを執っている。だが課長は俺に全く気づかない。課長が気づないのも無理はない。何しろ俺は今、透明人間なのだから。
「おい田端君。お茶を淹れてくれ!」
田端というのは、この課のお茶汲み係だ。不機嫌な課長の八つ当たりに遭い、渋々といった感じでお茶を運んでいる。まあその不機嫌の原因は俺にあるのだが。
田端さんすまないな。俺は嗤いながら心の中で呟いた。
さてそろそろ社内の連中の様子でも見てくるか。俺は課を後にする前に、物は試しと課長のカツラに手をかけようとしたが、やはり見えない膜で覆われていて、毛の先にすら触れることはできなかった。
《やはり無理か》
俺はカツラを諦めて、普段ならば絶対に行けない場所に行こうと思い立ち、社長室に向かった。
社内での移動は常に誰かと一緒に行動しなければならなかった。なぜなら、今の俺には扉はおろか、エレベーターのボタン一つ押すことはできないからだ。だが会社というものは、常に人が動き続けている場所である。始めこそタイミングを掴むのが難しかったが、すぐに難なくどこにでも行けるようになった。
社長室に着くと、社長はいるにはいたが、ただそこにいるというだけで、期待していたほど面白い物があるわけでもなく、仕方がなく俺は、社長室を出て各フロアを順番に見ていくことにした。
各フロアを歩いていると、社内でアイドル的存在の総務部高畑美保がこちらに向かって来るところだった。
黒く長い髪は毛の先まで手入れが行き届いているのか、遠目からでもわかるほどに艶めいていた。目元も、付け睫毛など必要としない長い睫毛により、大きな目をより一層大きく見ている。どこか垢抜けない微妙な制服も、スタイルの良い美保が着ると、一流ブランドに見えるから不思議だ。
俺の中で感情が一気に昂ぶるのを感じる。この女に近付きたい。もしこの女の秘密を知ることができたならば——。心の中の邪な感情が体中を駆け巡る。
決めた。今日は一日この高畑美保に付きまとってやろう。
——とはいう物の、普段の生活において、そこまで刺激的なことなどそうそうあるはずはない。あるのは退屈な日常業務だけだ。社内一の美女に貼りつくという行為に、始めこそ興奮していた俺だが、時が経ち退屈な時間を過ごすうちに、その行為自体に飽き始めていた。
美保は俺に付きまとわれているとも知らず、眈々と仕事をこなしている。これからどうするかと考えあぐねていると、正午を報せるチャイムが社内に鳴り始める。次々と席を立つ社員達。もちろん美保もその例外ではない。
「みーほっ。ランチ行こうよ」
美保の同僚だろうか、弾むような声を上げながらこちらに近づいて来る。制服のネームプレートには小林とあった。美保とは比べるべくもないが、この小林という女も中々に可愛らしい。
「マリ……」
「どうしたの美保。元気ないじゃん」
小林は心配そうな表情を浮かべる。
「うん。なんかね、ずっと誰かに見られてるような気がするの」
「えっ何それストーカー?」
小林の声に周りの社員達が振り返る。美保は慌てて小林を遮ると、声をひそめて言った。
「マリ声が大きいよ。それに多分そんなんじゃないと思うし」
「じゃあ何よ」
「わかんないよ。でも、どこにいても何をしてても誰かに見られてる気がするの。だからトイレに立っても用もたさずに化粧だけ直したりして——正直すごく気持ち悪いよ」
美保は自分を抱きかかえるようにして、腕を掌でさすった。二人の会話に僅かながらの不安を覚える。
誰にも気付かれないはずじゃなかったのか? 確かにトイレでは、美保のあられもない姿を見ることができず少し落胆したが、まさか気づかれているのか?
「美保の考え過ぎじゃない? あんた可愛いから見られてるだけなんだって。それに、最近彼氏ともうまくいってないらしいじゃん。あっそうだ、いいこと思いついた。このこと彼氏に相談してみなよ。彼氏、嫉妬心出して案外これきっかけで上手くいくかもよ?」
「そうかなあ」
美保は顎に手を当て首を傾げる。そしてその仕草が妙に様になる。他の女子社員ではこうはいかないだろう。
「大丈夫だって。それよりランチ食べて元気出しなよ」
小林はそう言うと、美保の肩を抱くようにして総務課の出口に向かった。俺はしばらく動けずそこに立っていたが、二人を追うために足を踏み出したその時だった。小林がこちらを振り帰り、薄く笑ったのだ。俺は今度こそその場から動くことができなくなってしまった。
《——やはり見えているのか?》
誰にもわかるはずのない質問を、俺は宙空に向かって投げかけた。
結局俺は、昼休みが終わるまでそこで考えていた。しかし答えなど出るはずもない疑問に面倒臭くなり、いっそのこと小林に貼りついてやろうという考えに至った。
例え見えたとしてもはっきりと見えるわけではないだろう。それを試して白黒はっきりつけてやる。
休憩時間が終わり、次第に社員が戻ってくる。そこに小林の姿が見えた。俺は美保の席を離れると、小林の席に近づく。小林に反応はない。
「じゃあ美保、彼氏と上手くやるんだよ」
「マリありがとね。なんか落ち着いたよ」
「いいっていいって。私と美保の仲じゃない。気にしないで」
美保は、小林に微笑みかけて自分の席に戻っていった。
《さあ小林マリとやら。お前にこの俺様の姿がどこまで見えているのかな?》
もしかしたら見られているかも知れないということに、俺は軽い昂揚感を覚えていた。ひょっとすると俺には、軽い露出の気があるのかも知れない。
——と、かなりの期待感を胸にしてことに及んだのだが、残念ながら俺の行為は全て徒労に終わった。いや、残念ではないのか。もうどちらでもいい。結果的に小林は、俺のことなど全く見えていなかったということだ。
俺は小林の目の前で、かなり際どいポーズを幾つも執った。しかし小林は、それに気づくどころか俺の局部を目の前にして、あくびまでやってのけたのだ。これでは一方的に勝負を挑んでコテンパンにのされたようなものだ。しかも相手は勝負に挑まれたことにさえ気がついていないのだから、体に疲れは感じなくとも、精神的疲労はかなりのものだった。俺の胸の中は敗北感でいっぱいになった。
誰にも相手にされず認識もされない。あの老人が言ったように、これは本当に毒なのかも知れない。俺は念のためにもう少しだけ小林を観察したが、時折美保の方をチラリと見る以外は、特に変わった様子はなかった。
完全に興醒めした俺は、再び美保の元へ戻ることにした。小林が俺の方を見たのはきっと偶然なのだろう。
美保の元へ戻ると、美保は机の下で何かを弄くっている所だった。なんだろうか。
俺は物に触れることができないので、かなり無理な態勢を執り、美保が何をしているのかを覗き込む。美保は携帯電話を触っていた。どうやらメールを打っているようだ。
『今日会えないかな? 急でごめんなんだけど相談したいことがあって。又連絡ください』
美保は素早く文面を打ち込むと、『河田隆史』なる男にメールを送信した。
河田隆史……。なぜだろうか、俺はその名前を見て不快な感情を覚える。知っている男だろうか。どこかで聞いたことがあるような気もするが。——もしかすると社内の男か? それならばどこかで名前を聞いていてもおかしくはない。しかも社内一の美女を射止めるほどの男だ、相当モテる奴に違いない。そんな男ならばそういった浮いた話に縁遠い俺でも、一度くらいは名前を耳にしているかも知れない。
社内に該当する男はいないか各フロアに思いを巡らせる。もしかすると営業のあいつか。いや、企画部の奴も相当モテると聞いた。あいつかも知れない。——だめだ。顔はなんとなく思い浮かぶが、名前までは思い出せない。仕方がない。各フロアをもう一度回って美保の相手を突き止めてやる。どうせ美保は就業時間終了までここを動けないんだ。少しくらい離れても構いやしないだろう。
くそう……。結局営業のあいつでも企画のあいつでもなかった。一体どこのどいつなんだ。
俺は他に少しでもめぼしい奴はいないかと、就業時間終了ギリギリまで「河田隆史」なる男を探し回ったが、結局見つけることはできなかった。
まあいい。美保についていれば、あと数時間後には「河田隆史」とご対面だ。焦る必要はない。いやしかし、関係が上手くいっていないと小林は言っていたな。美保は肯定も否定もしなかったが、あの曇った表情と会話の内容を考えると、上手くいっていないというのは本当かも知れないな。
河田隆史は美保の呼びかけに応じるだろうか。俺なら二つ返事でオッケーサインだ。そうだ。あんな美女の誘いを断る男はこの世にはいない。俺はそう信じて美保の元へと戻った。
社内に終業を報せるチャイムが鳴る。俺はこの後目にする光景を想い、期待に胸を躍らせた。
就業を終えた美保は、身支度を整えると席を立つ。そこにいた社員達は、皆美保に「お疲れ様」と声をかけた。それに美保も挨拶を返し、総務部の部屋を後にした。美保がこの後向かうのは間違いなくあそこだ。
エレベーターに乗り込み、顔見知り達と挨拶を交わす美保。やがてエレベーターは停まり、その扉を静かに開けた。美保は迷うことなく廊下を進む。そしてそこに見えたのは、白地に黒く『ロッカールーム』と抜かれたプレートだった。
ロッカールーム。又の名を女子更衣室。俺はその響きを胸の中で反芻する。
《ついにこの時が来たのだ》
思わず言葉が口をついて出る。
各フロアを回っている時に何度となく前を通ったり、誰か人が入らないかと待ってみたりしたが、就業時間内にそんな場所に用事のある者がいるはずもなく、中の様子はついに知ることはできなかった。だが今、その秘密の花園が紐解かれる時がやって来たのだ。
美保と一緒に何食わぬ顔でロッカールームに入ると、俺は大きな声で《失礼致します!》と挨拶し、深々とお辞儀した。「女子更衣室」に敬意を表したかったのだ。だが当然ながら、俺の存在に気づく者はいない。
俺は遠慮がちに、そして自分を焦らすように、ゆっくりと頭を上げた。そこには、下着姿の女子社員達が、仕事の愚痴やこの後の予定などについて黄色い声を上げながら語り合っていた。
自然と俺の口から《おお……》という声が漏れる。俺は今、凄い光景を目にしているのかも知れない。営業の山口や企画の木村、その他の名立たるモテ男達も、この光景は生涯目にすることはないのだろう。よくある盗撮ビデオなどとは一線を画したリアルがそこにはあった。
大航海時代に、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時の気持ちは、こんな気持ちだったのかも知れない。もっともコロンブスは、新大陸のことをインドだと思っていたらしいが。そんなことはこの際どうだっていい。俺は今、それほどまでに感動しているのだ。
ロッカールームの中の女子社員達は、仕事中には決して見せることのない活き活きとした表情をしていた。これから向かうコンパの話。社内で評判の男の話。会社の近くにできた、洒落たレストランにいる男前の話。
とにかく彼女達の話題の中心は、ほとんどが男の話だった。そこは、歯に衣着せぬ本音の寸評会だった。次々と話題の中に男が現れては、彼女達の口撃に遭いズタズタに引き裂かれて逝く。彼女達の後ろに累々と築かれていく男達の屍を想像して俺は思った。これがガールズトークというものなのかと。
俺は、自分の名前が出て来やしないかと戦々恐々としていたが、話題の中心は常に名立たる猛者達で埋め尽くされていて、所詮この戦に於いて、足軽のような俺の立ち入る隙などどこにも存在しなかった。
「みーほっ! 彼氏どうだった?」
俺はその時耳馴染みの声を聞き、そちらを見た。そこには下着姿の小林と美保がいて、どうやら昼間の続き「河田隆史」の話をしているようだった。
二人の美女の下着姿を前にして、俺は二人にむしゃぶり付きたくなるほどの欲求を感じたが、そんなことをしても無駄だということはわかっているのと、話の内容を聞かなければならないと思いなんとか自制した。
「あっ、マリ。うん大丈夫。話聞いてくれるって。今さっきメールがあった」
「そう良かったじゃん。こんな可愛い子泣かせるなんてどこのどいつだよもう。でも、そろそろ私にも紹介してよね」
どこのどいつだと? 小林も美保の付き合っている男のことは知らないということなのか。ではやはりこの会社の人間ではないということか。
「うん——また今度ね」
美保は、奥歯に物が詰まったような微妙な物言いをした。二人の間に間の悪い空気が影を落とす。
「う、うん。また今度ね。それよりさ、明日のランチなんだけど……」
それから二人は、美保の付き合っている男の話を、腫れ物に触るかのようにお互いが避けて、毒にも薬にもならないような、取り留めもない話に終始した。お互いに隠し事などなさそうに見えた二人は、どうやら肝心の部分ではそこまで仲が良くないのかも知れない。
いや待てよ。仲が良くても話せない相手、つまり話してはいけない明かしてはいけない相手だとしたらどうだ。そのような相手。明かすことによりお互いかもしくは相手に被害が生じる状況。それはつまり、不倫? いや、相手が社外の人間であれば、不倫だろうがなんだろうがそんなことは隠してしまえば小林にわかろうはずもない。しかし小林に話せないのは、やはり社内の人間だということなのか。
俺は勘違いをしていたのかも知れない。美保の相手は勝手に未婚の者と決め付けて、意識的に既婚の者は除外していた。だが、不倫であるならば。
美保ほどの美女をモノにできる不倫相手とは誰か。その男は相当な権力と金を持っているに違いない。これはもしかすると、当初の目的である、強請りのネタと美保とを両方モノにできるチャンスなのではないか。
俺は各フロアの重責達の顔を思い浮かべる。社長、専務、常務、各部所の部長。各部所の部長の名前まではわからないが、少なくとも社長、専務、常務の苗字は「河田」ではない。では一体誰なのか。
「じゃあマリ。私行くね」
美保の声に思考を止めると、すでに美保は着替えを終え小林に手を振っているところだった。俺は慌てて美保の後に続く。俺の背後でゆっくりと扉が閉まっていく。さようなら女子更衣室。
美保の後を歩きながら考える。河田とは一体誰なのか。やはりどこかで聞いたような気がするが、どうやっても思い出せない。しかし思い出せないものをいくら考えても仕方がない。それに美保の後について行けば、いずれ答えはわかる。焦る必要はない。
薬を飲んでからやっと訪れ始めた幸運を、俺は絶対に掴まなければならない。
美保は男とすぐにでも会うと思いきや、会社の連中と遭遇することを恐れたからなのか、会社のある駅から三駅ほど離れた繁華街のある街へと向かった。
その街で美保はウインドウショッピングを楽しんで、今は本屋で立ち読みをしている。
あまりにも男からの連絡がないために、もしかして男は今日来ないのではないか。小林に心配をかけたくないために、美保はメールを受け取ったと嘘をついたのではないか。と、俺は考えていた。
なぜならうちの会社は、平社員やパートなどは残業を余儀なくされることもしばしばだが、役職のある幹部達は、皆例外を除いて定時で帰ることがほとんどだからだ。
男はきっと今日は来ないのだろう。いやもしかしたら男など始めからいないのかも知れない。親しい友にも打ち明けられないのは、男そのものが存在していないからではないのか。そうだ。これだけ美しい美保ならば、不倫などするはずがない。
無理矢理そう思うことにした俺は、女性向け雑誌を立ち読みしている美保の横に並び、頬をくっつけ覗き込むようにして同じ雑誌を読み始めた。
美保がどんな雑誌を読み、どんな記事に興味があるのか。それを知ることはそれなりに楽しかった。
ページを捲る美保の細く白い指は、見ているだけで色々な想像をかき立てられる。時折垂れ下がって来る、匂い立ちそうなほど艶やかで黒い髪は、それだけでも宝石のように美しいのに、それをかき上げる仕草ときたら、この世の物とは思えない美しさと妖艶さを持っていた。俺はそれを見ているだけで幸せだった。
しかしその幸せな時間も、終わりを迎える時が訪れたのだ。それは美保が『今年抱かれたい俳優ナンバーワン』という記事を読み始めた時だった。不意に美保の鞄から、会いたいだの切ないだのという、歯の浮くようなフレーズが流れ始める。
美保は鞄から携帯電話を取り出し、着信相手を確認すると電話に出る。着信相手は『河田隆史』とあった。やはり男は、河田はいたのだ。俺はこれでもかというほどに携帯電話に耳を近付ける。
〈すまん遅くなった。今駅に着いたのだが。待ち合わせ場所はいつもの本屋か?〉
「うん。いつもの本屋。雑誌コーナーにいるよ」
美保の口から、ピンク色の息でも出るのではと錯覚するような、艶のある声が発せられる。
〈そうかわかった。すぐに向かう〉
電話の相手は手短に応え、通話を終えた。美保の今の声を聞いて全く動じないこの河田という男、只者ではない。
美保は嬉しそうな顔で携帯電話の画面を見ると、大切なものを扱うようにそっと鞄の中にしまった。
美保の嬉しそうな顔を見て筋違いとは知りながらも、俺は激しく嫉妬してしまった。間違いない。もう間もなく美保の付き合っている男河田はやって来る。
美保よりも先に男を見付けてやる。
俺は書店入口に陣取り、通りを睨みつけた。通りを歩く男全てが疑わしく見える。今近づいて来ているあいつか? それとも今タバコを吸っているあいつなのか? 通りには数多の男達がいて、美保の相手を特定することは難しそうだった。
しかし本屋とはうまく考えたものだ。ここでなら時間を潰すにも最適だし、もし他の社員に見られたとしても、偶然会ったから挨拶しただけなどと言い訳ができる。それにこの本屋は、二階にレンタルビデオコーナーも備えている。夜二人で過ごすために映画を鑑賞するのも悪くはないだろう。
映画をみながら寄り添い合う美保と誰かを想像し、頭の芯がジリジリと熱を上げる。
その時だった。どこかで見覚えのある男が、通りの向かいにふらりと現れると、そのまま俺のいる書店へと向かって来た。
こいつなのか? 顔をはっきり見るためにじっと目を凝らす。しかし近づいて来るにつれて、すぐにこいつではないと判断した。なぜなら見覚えのある男とは、あの憎きハゲのカツラ課長だったからだ。
《おいおいなんでお前がこんな会社から遠く離れた本屋にまでやって来るんだ。はっ、わかったぞ。新しい育毛方法の特集でも組んだ雑誌が出たか? それとも新種のバレないカツラの本でも出たか。よほど会社の人間にヅラがバレるのが嫌なんだな。だがな、お前のそんな努力は全部無駄なんだよ! なんてったって、課の人間も会社の人間も、お前のことを知っている人間は全員知ってるからな。お前がカツラだってことをな!》
俺は聞こえないと知っていながら大声でカツラ課長のことを罵った。カツラ課長は当然俺には気がつかない。
《おいおいハゲ! そっちは違うだろう。医療系のコーナーはもっと奥だ。そこは雑誌コーナーだよ。そこはファッション雑誌が置いてあるんだ。医薬部外品だってーの。あーそうか。カツラも医薬部外品か》
俺は罵りながらもなぜか嫌な予感が止まらなかった。ハゲはなおも雑誌コーナーを進んでいき、美保のことを認めると軽く手を上げ声をかけた。
「すまない。遅くなってしまった」
《おいハゲ。何気安く俺の美保に話しかけてんだ!》
「遅いよ。何してたの?」
美保は軽く頬を膨らませ品を作る。
《おい! 何美保も親し気に話しかけてん……。そうか、ハゲは美保の父親なんだ、そうに違いない。美保の苗字は高畑だ。ハゲ、いやお義父さんの苗字は——》
俺はいつも叱られている、ハゲの事務机の上のネームプレートを思い出す。確かハゲのネームプレートに書いてある名前は『河田課長』
《河田……だと? お前が河田だと?》
いや、隠し子かも知れない。いやきっとそうだ。あのハゲの遺伝子から美保のような可愛い子が産まれるとはにわかには信じ難いが、突然変異的なDNAの大爆発が起こったに違いない。人類はそうやって日々進化してきたんだ。もしくはハゲの劣性遺伝子を徹底的に排除した結果、美人の母親の遺伝子を全て受け継いだとか? いやいやいや、それこそあり得ないだろう。このハゲと美人が結び付くなど、明日地球が滅びることよりもあり得ない話だ。
「いや、言い訳するつもりはないんだが、今日無断欠勤したバカがいてな。そいつの尻拭いをさせられていたんだ」
《なんだと? それは俺のことか?》
「何そいつムカつく。私と隆史さんとの時間を奪うなんて。——でもそれはそれ、遅れた理由には、な、ら、な、いっ」
《美保、何を言って……》
胸の奥に確かな疼きを感じる。
「じゃあどうしたら許してくれるんだ?」
《ハゲお前まで……》
「ここでキスしてよ」
《みっ、美保?》
「ここでは無理だろう」
ハゲは慌てたように周りに視線を走らせる。
「じゃあ許さない」
そう言って美保は、頬を膨らませてそっぽを向いた。するとハゲは周りを伺うようにきょろきょろと見回すと、その膨れた美保の美しい頬に薄汚い口吻を押しつけた。
ハゲの醜い皺くちゃの口吻は、美保の頬から離れる時に、汚れた唾液の糸を引いた。
「続きは後でな」
ハゲが美保の耳元でそう囁くと、美保はさっと頬を赤らめ、「やだァ」などと言いながらハゲの肩をポンと叩いた。ハゲの肩からは、美保が叩いた衝撃でパラパラと白いフケが舞い落ちたが、美保がそれを気にする様子はなかった。
「ねえ、隆史さん今日はゆっくりできるの?」
「ああ。今日はバカな社員のせいで大分帰りが遅くなると言ってある。なんなら泊まりになるかも知れんともな」
「ええそうなの! 嬉しい! じゃあそのバカな社員に感謝しなきゃ」
美保は無邪気な嬌声を上げた。周りにいた者達が、一斉に振り向くのがわかる。
「おいおい、さっきはそのバカのせいで怒っていたじゃないか」
「そうだっけ? 忘れちゃったー」
ハゲと美保は二人だけの世界に入り込んでしまったのか、周りの視線も気にせず笑いながら腕を組み、そのまま本屋を出て行った。
店内にいる誰もが二人のことを見ていた。そしてその皆の顔には、『なんであんな綺麗な子があんなカツラ丸出し中年男と?』と書いてあるように思えた。
目の前で今起きた光景は現実のことなのだろうか。もしそうなのだとしたら、それはどんな超常現象よりも特異な出来事なのではないだろうか。人間が透明になるなどということよりも。
透明。透明人間。俺は何か大事なことを忘れているような気が……。
《今何時だ?》
俺はいつもの癖で腕を見る。そこに時計はない。一瞬パニックに陥り視線があちらこちらに飛び跳ねる。
まずいぞ。会社の就業時間は朝の八時から夕方の五時までだ。美保は定時で仕事を終えた。だが、それからこの本屋に来るまでに少なくとも一時間はかかっているはずだ。それからハゲが現れるまでに、三十分程度か。となると今は六時半くらいか。
素早く頭の中で計算しながら、正確な時間を知るために時計を探した。
《ない、ない! なんでこの店には時計がないんだ。普通時計の一つや二つくらい置いているだろう》
毒づきながら本屋の中を走り回るがどこにも時計はなかった。
《くそっ、もういい。取り敢えずこの店を出てあの老人の店へ行かなくては》
俺は本屋の出口を目指して走る。そして出口脇のレジの横に時計があるのを見つけた。時計の針は六時半どころか七時を回っていた。
まずい。このままでは公衆の面前で裸を晒してしまうことになる。とにかくあの老人の店に急がなくては。ここからあの店がある場所までは電車で三駅。
俺はどうしようか迷った。電車を使いあの店まで行くのにかかる時間は四十分程度だろう。だがそれは電車にうまく乗れて降りられたらの話だ。もし通勤ラッシュに運悪く当たってしまったら、物や人を押し退ける力がない今、俺は電車に乗ることすらできないだろう。それに例え電車に乗ることができたとしても、降りることができなければ満員電車の中で俺は全裸を晒すことになる。
電車の中で局部を抑えて狼狽える自分を想像する。悲鳴を上げる女や大笑いする者。中には安易に手にした正義という隠れ蓑を着て、俺の体に危害を及ぼそうとする者もいるかも知れない。
頭の中に新聞記事のタイトルが踊る。『通勤ラッシュの電車で全裸の男突然現る』面白おかしく書き立てられた記事に、俺のことを擁護してくれる文章など皆無に違いない。その瞬間世界は俺の敵に回る。そんなことになってしまえば、俺の人生はお終いだ。
俺は頭を振り、不吉な想像を無理矢理に追い払った。
電車はやめておこう。いざという時に隠れる所がなさ過ぎる。幸いこの街は都心だから、駅から駅の間隔はさほど離れていない。あの店までは少し遠いが走って行けない距離でもない。それに俺には今、どんなに優れたスプリンターでも持ち得ない、どれだけ走っても疲れない身体がある。
《やってやる。走って走って走りまくるんだ》
そう言うが早いか、俺はあの老人の待つ店へと走り始めた。本屋の時計は七時九分を指していた。
《八時まであと五十分。やってやる》
どれくらい走っただろうか。体感時間にして二十分は走ったように思う。かなりのスピードで走ったはずだ。それでも相変わらず体に疲れは感じないが、時間に追われるというストレスは精神的に辛いものがある。果たしてあと三十分で、あの店に辿り着くことができるだろうか。そんなことを考えながら走っていると、なんとなく見覚えのある建物や、風景がちらほらと見え始めた。
少しずつではあるが、確実にあの店へは近づいているようだ。そのことがわかり、俺は少しだけ心が軽くなった。そして心が軽くなると、考えにゆとりが生まれる。俺は先ほど本屋で見たあの光景を思い返した。
まさか美保が、あのハゲとできているとは想像だにできなかった。各フロアを徘徊しながら、美保の相手を探していたことを思い出す。社内一の美人がハゲでカツラのオヤジとできていた。しかも特に要職でもないため、奴は俺ほどではないだろうが、金も権力もそれほど持っているわけではない。それに本来であれば、年頃の女から毛虫のように嫌われていてもおかしくない、そんな汚いオヤジとできているとは誰が想像できるというのだ。
しかし考え方を変えれば、これはこれで中々に得難い情報なのではないだろうか。いつも俺を蔑んでいるあの薄汚いハゲにも、信じられないことだが妻もいれば子供もいる。相手がどうあれこれは不倫なのだ。これを利用してやれば、今の自分の立場を少しは良くできるかも知れない。いや、うまく立ち回ることができたならば、あのハゲに一泡吹かせてやることもできるはずだ。
そして美保だ。美保は美保で親しい友人にさえハゲとの関係を隠している。人に知られたくない情報を持っているということは、それだけで弱みを曝け出しているようなものだ。そして俺はその秘密を知っている。こちらもうまく行けば美保に近づけるかも。いや、もっとうまく行けば……。
一度走り出した妄想は留まることを知らず、俺は周りが見えなくなっていた。とはいえ信号は確認していた。この体は疲れを知らないと共に、なぜか痛みなども感じない。だからといって車に撥ねられるのはごめんだからだ。痛みを感じなくとも猛スピードで走る車に撥ねられるのは恐ろしい。だから咄嗟には何が起こったのか全くわからなかった。気がつけば俺は、進むべき方向とは逆の方向に猛スピードで進んでいた。
《なんだ。何が起こった。体が動かないぞ?》
流れて行く景色やその場に鳴り響くエンジンの音などから、俺は自分の置かれている状況を理解した。俺は車に撥ねられたのだ。さっきまで走っていた交差点が急速に離れていく。信号は間違いなく青だった。まさか信号無視なのか?
なんとか車から逃れようと体を動かそうとするが、常に動き続ける車の力は凄まじく、体の中で動かすことができるのは首から上だけだった。俺は唯一動かすことのできる首だけを動かし、フロントガラス越しに車の中を見た。
車には軽薄そうな若い男が二人乗っていて、一人は運転席の男に向かって何かを怒鳴っていた。窓が開いているからか、男の怒鳴り声が聞こえて来る。
「さとる! 無視しろっつてんだろうが! 一々ビクビクしてんじゃねーよ!」
「はいっすんません!」
運転席の男が情けない声を上げる。
《お前ら何を言っているんだ! 人を撥ねているんだぞ。車を停めろ!》
自分が透明であることも忘れて怒鳴る。だが二人にそれが聞こえるはずもなく、ようやく車が停まったのは、それから三キロほども進んだコンビニだった。
《くそ。今何時だ》
コンビニの時計を見て愕然とする。時計の針は八時まであと十五分を切っていた。
《くそっ、間に合わなかったらどうするんだ。元に戻ったら必ず仕返ししてやる》
俺は車のナンバープレートと車種を頭に叩き込むと、再び走り始めた。
《糞セルシオがっ。覚えてやがれ》
あと十五分しかない。間に合うのか? 俺はひたすらに走った。流石にまた車に撥ねられるのはごめんなので最低限の注意は欠かさなかったが、信号なども全て無視した。
見覚えのある建物がどんどん増えて来る。いくつの角を曲がっただろうか、どれだけの距離を走っただろうか。とうとう目指していた建物が俺の目の前に現れた。俺の勤めている会社、木崎商事のビルだ。
何度もくぐった会社の玄関。何度も見たビルの佇まい。そして通い慣れた道。それらを見た時、安堵のあまり俺は涙腺が緩むような感傷的な気持ちになった。しかしここで油断はできない。ゴールはここではないのだ。老人の店までは、遠くはないが安心できる距離でもない。
慣れ親しんだ会社の脇をそのまま駆け抜けると、俺は老人の店のある、あの路地へと走った。
ビルとビルの隙間にある薄暗く細い路地が見え始めた頃、俺は妙な浮遊感を感じるようになっていた。必死で走っていても、どこか地面をうまく蹴られないそんなあやふやな感触。もしかしたら薬の効果が切れ始めているのかも知れない。だとしたら、いつでも物陰に隠れられるようにしておかなければ、いきなり全裸になってしまうかも知れない。
俺は辺りに視線を送りながら、慎重に且つ急いで走る。そして老人の店へと続く路地へと入ったころ、体は明らかに地面に着いている時間よりも、空中にいる時間の方が長くなっていた。
《まずい薬が切れる!》
俺は思わず叫ぶ。しかしそこで不意に思った。そこまで慌てなくともここに人などいないではないかと。そう、ここは誰も知らない秘密の小径。周りに人などいるはずもない。
《そうか、そうだった。何も慌てなくてもいいんだ。それにもうすぐそこに店は見えているじゃないか》
俺は自分を嗤うかのように声を上げた。
老人の店の扉は、俺のことを待ち構えるかのように、大きく口を開けていた。そして口に向かって頭から空中を泳ぐようにして滑り込んだ。
「さて、どうしたものかな」
俺の体は老人にぶつかるようにして止まった。店の中の時計は八時を少し回ったところだった。
《遅くなってすみません。今戻りました!》
勢い込んで老人に言うが、老人は扉の外を眺めながら「結局あの青年は、戻って来なかったなあ」と呟いた。
《いやあの、ここにいます》
老人は俺の声が聞こえていないのか、なおも扉の外を見ている。
くそっ聞こえていないのか。
店の壁にかかっている時計を見ると、針は既に八時十分を回っていた。おかしい、この店を出たのは八時九分ごろだったはずだ。だとすれば、もう薬が切れて元に戻ってもいいはずだ。それなのになぜ俺はまだ透明なんだ。
「念のためにもう一回だけ言ってみるかな」
そう言うと老人は、はじめに読んでいたあの薬の説明書をポケットから取り出した。
「いいですかな? もしここにいるならば、今からわたしが言うことを、よく聞くんだよ。えー元に戻るには——」
《そうだ元に戻るには方法があったはずだ。老人が初めに言っていたじゃないか》
そんな大事なことを忘れていた自分の迂闊さを呪いたくなる。
「『まず薬を飲んだ場所に立ち、元に戻りたいと強く強く念ずること。さすればたちどころに元の体に戻ることができるであろう。錬金術士サガリバーグ・ド・ラティンソンシャン』これだけ簡単なんだから、戻って来てたらもうとっくに元の体に戻っているはずなんだが、元に戻らないってことは、やっぱり戻って来ていないのだろうね」
老人はそう言うと、店の奥へと歩いて行った。俺は老人の話を聞き、元に戻りたいと強く強く念じる。これで元に戻れたか?
《すみません遅くなりました。俺の声が聞こえますか?》
老人にはやはり俺の声が聞こえていないのか、店の奥にあるかなり旧式の黒い電話の受話器を手に取ると、どこかにかけ始める。
なぜ元に戻らない。老人はなんと言った。薬を飲んだ場所に立ち、強く元に戻りたいと念じるんじゃないのか? もしかして、まだ他に何かやらなければならないことがあるのか。薬を飲んだ場所に立ち……。もしかして飲んだ場所というのは、薬を飲んだその瞬間に立っていた場所ということなのか?
俺は店を出た時に見た老人の様子を思い出した。あの時店の外から見た老人は、俺が薬を飲んだ場所に立って床を見つめていた。そこには俺の脱ぎ散らかした衣類があるはずだ。確か俺が薬を飲んだ場所は、店の奥にある机の裏側だ。
俺は慌てて店の奥に移動する。そこには、老人がたたんでおいてくれたのだろう俺の着ていた衣類と……。
《なぜだ……》
全裸の俺が横たわっていた。
《これはどういうことだ》
「あー、もしもし。こちら狭間堂正刻町店。婆さんいるかい?」
老人の電話の声に我に返る。戸惑っている場合ではない。俺は自分の体の上に立つと、もう一度強く念じた。
「昨日電話で話した件なんだがね、そうそう。あの透明になるって薬だよ」
《元に戻れ、元に戻れ、元に戻れ……》
「あの薬の説明書ね、透明になるって書き方なんだけど紛らわしいよ。それに元の場所に立つとか、どうなるか知っていないと説明のしようがないよ」
老人が非難がましく電話に話しかける。かなり気になることを言っているような気がするが、そちらにかまっている暇はない。俺は老人を放って更に深く強く念じる。すると床に横たわる自分の体が仄かに光り始めた。
「とにかくあれは透明になるっていうより、幽体離脱じゃないか」
《なんだって?》
老人の言葉に俺は無意識に応えた。そして仄かに光っている自分の体を見下ろし全てを理解した。俺は今幽霊なのか。
「びっくりしたよ。薬を飲んだ途端あの青年の体が光ったかと思ったら、その光ってる体からあの青年が出て来るんだもの」
なんてことだ。それで物に触れられなかったのか。実体、つまり質量が存在しないということは……。俺は埃でさえ動かすことができなかったことを思い出した。
「え? なんだって? 透明になったのは確かだろうだって? まあ、そうなんだけどね。出て来た青年がそのまま薄くなって消えてしまったのには、本当にびっくりしたよ」
光り始めた俺の体に老人は気がつかないのか、そのまま話し続ける。このまま上手くいけば元に戻れるのか?
「ああそうそう、忘れるところだったよ。訊きたいことがあったんだよ。薬を飲んで二十四時間が過ぎたらどうなるんだい?」
老人の言葉に俺は思わず振り返る。
《どうなるんだ?》
「え? ああそうなのかい。それは可哀想なことをしたねえ」
《おい爺さんどうなるんだ! 可哀想ってどういうことだ!》
「仕方がないね。じゃあこの中身が空っぽの体はどうしようかね」
老人はそう言うと、哀れな目を俺の体に向けた。俺の体は一瞬だけふわっと光ると、そのまま元のように、ただの裸の俺となった。
「ん? 今一瞬体が光ったような」
俺はひたすらに元に戻れと念じた。だが、俺の体が光ることはなかった。
「いや、わたしの気のせいのようだ。うん。うん。そうかい。引き取ってもらえるかい。えっ、年齢? そうだねちょっと待っておくれよ」
《おい爺さん何やってんだよ。俺の物に勝手に触るんじゃねーよ》
老人が受話器をオルゴールの鳴る受話器置きに置くと、店内に間抜けなエリーゼのためにが流れた。その間抜けなBGMのせいか、老人の行動がひどく滑稽に見える。老人は俺の衣服のポケットから財布を取り出した。
「まだまだ若いよ。二十七歳だってさ。容姿? うーん。難しいことを訊くねえ。まあ、個性的な感じだとだけ言っておくよ。なんだい? それじゃ良い値が付かない? そんなこと言わないで見るだけ見てくれないかね。はい、はい、そう。明日の朝の十時ね。わかったよ待っているよ」
《おいじじい! 何勝手に話進めてんだよ!》
俺は老人に掴みかかろうとしたが、例によって触れることすらできない。
「ああそうだ一つ訊き忘れていたよ。わたしがあの青年の幽霊に仕返しされるなんてことはないかね。え? 幽霊じゃない? じゃあ、わたしの目の前で消えたあの青年はなんだってんだい。ああそうなんだね。なるほどねえ。つまり幽霊でもないし、かと言って実態も持っていない中途半端な存在になっちゃったから、なんにもできないとそういうことだね。なるほどよくわかったよ。それじゃあ本当にあの青年には申し訳ないことをしたねえ。何? 話が長いって? ああ、すまないね。もう切るよ。はい、はい、はい、明日ね。うん。わかったよ。じゃあ待ってるからね」
老人は電話を切り、店内にチーンと甲高いベルの音が鳴り響いた。
《おいおい爺さん何言ってんだよ。何勝手に話終わってんだよ。頼むよ、なんとか元に戻る方法訊いてくれよ!》
俺は老人に縋りつき耳元で怒鳴り声を上げる。
「さてと。コーヒーでも飲もうかね。済んだことは仕方がないしね」
《おい、おい爺さん! おーい!》
老人はうまそうにコーヒーを一口啜ると、一言「ごめんね」とだけ言って店の扉を閉めた。
扉が閉まる瞬間、コーヒーから立ち上る湯気だけが扉の外に取り残されて、そのまま夜の空気に紛れて消えて行った。それがこの先の自分の運命を示唆している。そんな気がして、俺の目の前は真っ暗になった。
こうして俺は、誰からも相手にされず認識もされない存在になった。どこからかあのカツラ課長の声が聞こえてくる気がする。
『社会人たるもの十分前行動が基本だろうが。お前のような奴は三十分前でもいいくらいだ』
俺は永遠の世界を只々ひたすら彷徨った。誰からも認められない永遠の孤独。死ぬことも叶わぬこの体で、俺はいつまでこうしているのだろうか……。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この話単体でもお楽しみいただけますが、前作「見えない色」とも若干繋がりのある話となります。
もし気が向いたら読んでみてください。




