厳しい訓練
岩松俊光は高崎藩との戦いに備えるため、連日厳しい軍事訓練を行った。無論、それは由良貞臣との戦いから続けてきたことである。しかし、ここ最近の訓練は体系化され、より激しいものとなった。もちろん、休息、手当てをしっかりと与えてはいた。それでも岩松の兵たちにとってはかなり堪えるものであった。
その理由は、やはり大音諫山の高崎藩に勝利するためであった。由良、伊勢崎藩(既に滅ぼしている)とは比べものならない強さと狡猾さを兼ね備えていると岩松俊光は考えていたからだ。訓練は山に囲まれた平地で行われていた。
そんな厳しい訓練の中で、大紋屋俊樹と岩松軍に降った槍蛇丸が部下たちを指揮しながらある話をした。先に口を開いたのは槍蛇丸であった。
「相変わらずお前は俺のことを気に食わないらしいな。」
大紋屋はもちろん心の底からそう思っていた。岩松の命令が無かったら、とっくに槍蛇丸に斬りかかっている所であった。
「当たり前、とだけ言っておく。あまり僕に話しかけて来ないでほしい。」
その態度に槍蛇丸は鼻で笑いながらこう返した。
「確かに俺は悪党だよ。想像の通りだ。だが、お前と同類だと思っている。」
「何が言いたい?」
「お前は世直しだの、人助けだの、あたかも自分を清純な存在だと思っているのかもしれねえが、大きな間違いだ。」
「…。それでは貴様はどうなんだ?ただただ己の欲望のままに暴れて上州に混乱をもたらしただけに思えるが。」
「そうだよ。その通りだ。役人に捕まって処刑されるなら別に反れでも構わなかった。しかし、今は岩松俊光殿に貢献したいと思う。」
よくもそんなことを言ったものだと大紋屋は思った。
「まあ、岩松殿ならやれるさ。」
大紋屋は槍蛇丸への不信感と同時に前とは考えられない態度の変わりように、戸惑いつつも岩松のある種の影響を感じずにはいられなかった。
数日後、ある事件が起きた。ある兵士が農家から着物を盗んで来たのであった。その情報は恐ろしいほど早くに岩松の下に届けられた。岩松はとうとうその時が来たかと思った。
「動くしかないか…。」
独り言を書斎で呟いて立ち上がった。
そして、その日の午後には全兵士が集められた。全員整列のまま待機させられ、着物を盗んだ犯人が皆の前に引っ立てられた。
犯人は槍蛇丸の元部下であった。犯人は蛇槍丸の方を向いたが、蛇槍丸は目を合わせなかった。
そしてすぐに岩松俊光が現れた。紺色の軍服を来て、威厳に満ちつつ憂いの表情を浮かべていた。
「諸君。今日集まってもらったのは他でもない。非常に残念なことが起きた。諸君も周知だと思うが、私の同士が守るべき民から着物を盗んだ。自分で着るのか売って金にしようとしたのかは分からない。しかし、軍規には民から藁一本盗んではならないと記載してある。諸君も充分承知しているはずだ。残念でならない。そしてそれは私の責任である。そうであるから、私が直々にこの場で処する!」
周りの空気が一気にはりつめた。岩松は犯人を膝ずかせ、刀を振り上げた。その様子はまさしく鬼神に満ちたものであった。犯人は懇願した。
「今思えば悪いことをしたと思う。盗賊の頃の癖が抜けなかった。俺にとってはこの環境は余りにも居心地が悪かった。だからせめて、親分の槍蛇丸様に斬られて死にてえよ…。」
盗賊時代から慕っていた槍蛇丸へ目を潤ませて訴えた。岩松は集団の中に居る槍蛇丸にどうする?尾前が斬るか?と訪ねる会釈をした。槍蛇丸は冷酷にも見える覚悟のこもった目をして首を横に振った。岩松は了解し、そのまま刀を振り下ろした。
その日はそのまま解散となった。すっかり夕方となり、上州の山に日が隠れ始めていた。槍蛇丸はかつての部下が処刑された場所に行き、残念そうに言った。
「俺は言ったはずだ。これからは岩松様の命令に絶対に従えと。盗賊のまま死にたくなかったら鉄の掟を守れと…。それなのに…。」
そこへ岩松がおもむろにやって来た。彼は申し訳なさそうに
「すまなかった。私がしっかりしていればこんなことにはならなかった。」
こう槍蛇丸に謝罪した。もちろん槍蛇丸は否定した。
「何を言うのです。これは俺の落ち度だ。手下を手懐けられなかったのは俺の方です。しかし、俺よりあなたが謝罪するとは、頭が上がりません。」
「いや、この軍を取り仕切るのだから当然さ。さて、このようなことが起きたと言うことは、そろそろ頃合いかな。」
その言葉に槍蛇は目を輝かせつつ、真剣な眼差しになった。
「いよいよ大音諫山を討つのですね!」
「ああそうさ。忍の袴安に岩松軍の兵站が伸び、食糧は滞り、掠奪が横行しているという流言を流させている。これを勝機と高崎藩から軍を進めさせる。」
「この言葉を待っていました。全力で戦う所存です!」
その曇りのない誓いに、岩松は尋ねた。
「しかし、君の作戦は取り入れるつもりだが、本当に良いのかい?その他の手も打てるぞ?」
「いや、それには及びません。俺の案を入れてくれれば、大音の首は絶対に取れます!」
その言葉を聴いて、幾ばくかの希望と、それよりも大きい失望を交えた声で、
「そうか…。」
夕方の黄昏の中で岩松はこう呟いた。